アキヤ

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「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
 優しく頭を撫でる大きな手。心の中心まで響いてくる落ち着いた声。目元にかかる黒髪越しに見える、焦げ茶の瞳。
 私は彼の全部が大好きだ。

 アパートにお隣さんが引っ越してきたのは、小学6年生の3月の終わり。あと数十日で中学生という期待に胸を膨らませていた頃のこと。
 トラックがアパートの先の道路に止まって、お隣さんが急に騒がしくなった。
 好奇心の塊だった当時の私は、もちろん気になってしょうがない。
 けれど人見知りもあって、なかなか外に出れずに、椅子を使って玄関の覗き穴からじっと新しくやって来た隣人の様子を見ようと奮闘した。
 もちろん、覗き穴なんてもので見ることは出来なかったけれど。
 一日中そんな調子だったもので、挨拶回りでお隣さんが訪ねて来たときの私のテンションの上がりようは凄まじかったと思う。
「初めまして。今日隣に越してきた榎本敦です」
 好青年という言葉がよく似合いそうな人だった。
 高校入学のタイミングで一人暮らしを始めるようで、高校1年生のわりにはかなり大人びた印象があった。
 爽やかな笑顔から、丁寧そうな人となりが漂っていて、私は一瞬でその人に惹き込まれた。
 いわゆる『一目惚れ』と呼ばれているあれだ。
「あらあら、今日から1人で?」
「はい。引っ越しも全部自分でやることになってて」
 そう眉尻を下げる彼を見た母は、名案とでも言うように指を立てる。
「なら我が家で食べてったらどうかしら? ちょうどさっき出張中の夫から夜は外で食べてくるって言われたのよ。もちろん敦くんが構わなければだけど……」
 その日から彼は私の家族の一員も同然だった。
 頻繁に我が家で食事を取ったり、彼の部活がない週末などは皆で遊びに行ったりもした。
 私のピアノの発表会にもよく来てくれて、同じピアノ教室の子たちからは兄妹だと思われたりもした。
 発表会の日の朝。彼は必ず私に魔法をかける。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
 彼の大丈夫を聞くと、私は無敵になれた。
 その言葉を聞く度に、私は彼を好きになった。

 あれから何年経ったのか。時が過ぎるのはあまりにも早い。
 私はプロのピアニストになった。
 今日は大事なコンサートの日。失敗はできない。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 頬に軽くキスをして、魔法の言葉を胸にしまって、私は一歩を踏み出した。

No.10【魔法】

2/23/2025, 11:24:23 PM