「あたしにもちょーだい」
そう言って、返事を待たずに箱から一本引き抜いた。ライターを扱う手付きは不格好で、煙草とは無縁の証だ。
彼女はいわゆる幼馴染みだ。家は二軒隣で、名前もよく似ていて、好きも嫌いも被るものが多く、双子みたいとはよく言われる。お互いに一番の友だと思っている。
けれど、彼女の家族はそれをよく思っていなかった。大学病院に勤めていた祖父。開業医として地域医療に貢献している父。姉と兄は医大生で、医者になるのは確定事項だと信じて疑わない家族にとって、頭は平均で素行はどちらかと言えば悪い友人などあってはならなかった。
それでも、家族に何を言われても隣にいて、時には髪を掴み合い引っ張り合う喧嘩をして、泣いて仲直りして、笑って、笑って、笑い合ってくれる大切な友人だ。
そんな彼女が変わり始めたのは高校生になってからだ。
志望校に入学したものの、すぐに成績は下がり始めた。彼女の家族にはねちねちと嫌味を言われたが、高校は別、遊ぶ機会も会う機会も減ったのに原因にされても困ると一蹴してくれた母には感謝しかない。
高校最初の夏休みに、彼女はやってきた。小さなバックひとつ、ちょっとそこまで買い物に、という風に。母に挨拶して、部屋に入ってきた彼女は泣いた。涙だけ零して泣いた。散々零して、いい子は疲れる、そう呟いた。
ローテーブルに乗った煙草を欲したのは、親への叛逆の一歩。
一口吸って、盛大に咳き込んで、落ち着いた呼吸で零したのは紛うことなき後悔。
同じ学校に行きたかった。
せっかく進学校に進んだのに、可もなく不可もない中の中な学校を羨むなんてどうかしている。
でも、あんたがいる。
なんて、嬉しいことを言ってくれるな。
成績が落ちているのは知っている。勉強に身が入らない、その理由も知っている。
医者になるしか道がない。その道すら、真ん中しか歩くことを許されない。彼女自身の夢や希望は聞いてすらもらえない。
「頑張ってるんだよ。頑張ってるんだけど、頑張ることは当然で最低ラインですらないから、結果が出ないなら無意味だって」
結果より過程、なんて甘えたことは思っていないが、最高の結果しか評価されないのも苦しいものだ。
「ほんとに双子だったら良かったのに」
また、泣き抱きそうな震える弱音を知るのはこの世で一人だけ。彼女のほんとうの夢を知るのもまた。保育士になりたいという、きらきらした目を彼女の家族も同級生も知らない。
「でもさぁ」
「あっ」
「保育士さん目指すならタバコはやめなよ」
ヤニ臭い先生なんて嫌だ、そう煙草を取り上げたら素直に頷いた。
「あんたよくこんな不味いの吸えるね」
もういらない。彼女の顔には涙の跡がくっきりと残っていた。
ぴろっ。
湯上りに髪を乾かしていると、スマートフォンが鳴った。
それはとても小さく、けれどとても大きなものだった。
鳴り終わるより早く、さながら百人一首の選手のような反応で手を伸ばし、ロックを解除する。
送り主は委員会の先輩。本が好きで、優しくて、好きな作家が同じで、あと単純に顔が好みな彼に、勇気を振り絞った。
明日は土曜日。季節は夏。商店街は納涼祭を行う予定で、その商店街はこちらからもあちらからも電車で一駅の距離。
一緒に行きませんか。その言葉を震えずに言えたかどうかも覚えていない。
彼はOKをくれた。ただ、家の用事があるから、時間はまた後で連絡すると。
その返事がきた。一九時頃になってもいいかと。それでもいい。一緒に行ければそれでいい。
送り返して、深く息を吐く。
明日。一九時。何時から支度を始めたら、それより浴衣、どこにしまったっけ。それに着付けをお願いしないと。
急いでドライヤーを済ませ、勢いよく部屋のドアを開けた。
「お母さーんっ!!」
階下から、事情を知らない母ののんびりした声が返ってきた。
きらきら光る、なんて小さな頃はよく歌っていた。
七夕になると星型に切り抜いた金銀の折り紙やシールをそこら中にはっていた。
だけど、ほんものの、夜空に光る星なんてずっと知らなかった。
だってそうだろう。街は人工の明かりが強すぎて星が負けてしまう。そうでなくとも、そびえる建物が多すぎて空はとても狭い。時折見える瞬きは飛行機のライトや人工衛星で、ほんものを知る機会なんてなかったのだから。
星とは星型をしたものであり、高感度カメラのレンズ越しにしか存在しないものだった。
はじめて星を知ったのは林間学校のとき。
街の明かりは山によって遮られ、車の走行音も酔っ払いの奇声もない。虫の声を聞いたのも、そのときがはじめてだった。
満天、降るよう、そうとしか言えなかった。肉眼でも判る程の大量の瞬き。ありすぎて、早見盤を使っているのに、なかなか星座を見つけることができなかった。
それに、星はほんとうにまたたいていた。それが大気の屈折率のせいだとしても、ちかちかと繰り返す強弱に目も心も惹きつけられた。
思わず、手が伸びそうになったのも仕方がない。大袈裟でなく、手を伸ばせば届きそうだったのだ。
就寝時間まで、それを過ぎてからもベッドに寝転がりながらずっと見ていた。
数年経った今ですらくっきり思い出せる程、瞼の裏に焼きつけたそれは価値観を変えるに十分過ぎた。
この世には隠れているもの、気づけないものが多すぎる。だけど、少し目を向けてみるだけでも世界はその姿を変える。
足元の花。流れる雲。噴水の水滴ひとつすら。
嗚呼、ほんとうに、この世は美しいもので溢れている!
雲ひとつない青天からの、地上のすべてを焼きつくしてやると言いたげな強い陽射しを全身に受けて、砂利と雑草と錆びたレールの道を歩いた。
廃線になったローカル鉄道の路線は、何年も放置されて随分と緑に侵食されてはいるものの、まだどうにか道であったころを覚えていた。
立入禁止の文字を無視して、水筒に入れたスポーツドリンクを飲みながら、雑草を踏みしめる。
あー、なんだっけこれ、ああ、そう、スタンドバイミーだ!
見たこともないくせに、大人からの入れ知恵をようようと披露する。
草から飛び出す虫を鬱陶しがり、逃げようとするアオダイショウを追いかけ、吹き抜ける風の心地好さに喜び、砂利を鳴らす。
どこまで行くか、明日はどうするか、週末のお祭り。話は尽きず、線路の先も見えない。けれど、不安になることはない。
風は爽やかで、強く眩しい光が燦々と注ぐから、先はどこまでも明るく温かい。不安になる要素はひとつもない。
未来を憂えるということを知らない少年達の、目的地のない冒険はまだまだ続く。底抜けに明るい笑い声を引き連れて。
高校を卒業したら、友人はみんなここを出ていくと言う。
友人だけではない。同級生の多くはここを出ていく。
仕事がないから。給料が安いから。進学のため。田舎の人間関係が嫌だから。
残るのはどのくらいいるのだろう。少なくとも、よくつるむグループで残るのは彼女ひとりだけだ。
二両しかないのにガラガラの電車に揺られての帰り道。向こう側の窓には朱い太陽と雲、遠い稜線と田畑があった。
黒い影の電柱は視界からサッと消えていく。その一方、太陽はどっしり構えて変化に乏しい。
春、土が見えていた田は機械に耕されて水鏡となり、夏になった今は稲が草原のふりをして青々とした葉をさらに伸ばそうとしている。
みんなが、何もないと言う風景。
でも、ほんとうに何もないなんてことはない。
生まれたときから当たり前にあるから存在感が消えているだけ。空気と同じだ。
電車に揺られながら、窓枠越しに景色を見るようになって二年と三ヶ月。移ろう景色が連作の絵画ようだと感じたのは一年と少し。これを見られなくなるまであと半年程。
日に日に強くなる寂しいさから、一秒として同じもののないものを目に焼きつけるように外を眺め続けた。