理想が、落ちていく。
木枯らしに吹かれて。
鍵盤と指が触れる音ひとつも聞こえない。
そんなコンサートだった。
その日、北欧の寒い夜、時間が止まったのだ。
ああ、美しいと人々は見惚れた。
街ゆく馬が疲れた顔でこちらを見ていた。
冬が訪れ、枯葉の大半は散ってしまった。
年越しに備えて人が沢山、目もくれず街を駆け回っている。とはいえ、かつてほどの人通りでは無い。
もう2年も前、彼が高台から落ちてしまったから。
あの時に初めて冬は寂しいものだと知った。
音のない新年の訪れはちっとも楽しくなかったのだ。
そこにもう期待なんてないと思っていた。
深夜の鐘がなるより早く人々は家を飛び出した。
左の手が効かなくなって、冬のソナタは消えたと思っていた。
あの夜の空気をもう二度と吸えないと思っていた。
音が減ろうと、流れが止まろうと、
それでも彼にとって音は紛れも無い言葉だったのだ。
ショパンには戻れなくても、この街に明るい年越しをくれた。
彼は、怨めしいはずの左手を誇示するように高く上げる。その先でゆるりと月は丸みを帯びた。
雨に降られてしなしなになったダンボールの中に1匹に子猫が渦を巻いていた。
連れては帰れないがせめてもの気持ちで自分の傘を差し出し、俺は1人猫に声をかけていた。
気が滅入る毎日、最近は特に。
人間関係も荒れているし、運も悪い。
そして何より自分の感情を上手くコントロール出来ない。怒りも悲しみも。
自分の失敗を素直に認められない。
一昨日の試合だってそうだった。
それがまた周りとのズレを広げた。
小雨が傘の中に入って肩を濡らしてイライラした。
大通りを歩く恋人を見つけて余計に腹が立った。
小さなことの繰り返しなのだ。
小さな幸せをみつけようなんて言う慰めがあるが、
それよりも小さい障害につまづいてしまう。
もっと鈍感でありたかった、とつくづく思う。
ついぞ誰にも打ち明けることの出来なかった悩みが零れる。
傘を差すのを諦めると、制服は濡れたが少し気持ちが収まった。俺はようやく帰ろうと決心がつき立ち上がる。
何も出来なくてごめんなと心のうちで謝った。
そんな俺とは対照に、憧れの眼差しで子猫は鳴いた。
天高く爽やかな風そよぐ日に2人で丘を登った。
頂上に着くと彼女は慌てたように走り出し、崖の縁に座って水筒のカップにお茶を注ぎ始めた。
僕は、もう走ると危ないよなんて笑いながらその後を追いかける。
お気楽な様子で一番に一息ついていた彼女の後ろにかがんで、柔らかい茶色の髪をすくめるてやると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。
三つ編みにしてあげるよ。
そう言うと、彼女はカップのお茶が零れるほどに強く頷いた。
端を軽く止め終えたので、僕も彼女の隣に座った。
眼前の清らな紅葉をそっちのけに、二人で夢中になって話した。と言っても、僕は大抵聞き役だったけど。
学校の友達、水泳クラブ、近所の子猫のみーちゃん、ランドセルの色。
順番なんかない奔放な話題にかき乱されて楽しかった。ああ、そう。そうなんだ。へぇ。それで。
何となくで相槌を打ってやるとますます彼女は加速した。
すっかり日が暮れた頃、話つかれたのか突然沈黙が訪れた。そのついでに、何となく、ただ何となくこの先のことを思って母さんの事よろしくなと呟いた。
うんともすんとも返さないので隣を見ると、
彼女は真ん丸な目をこちらに向けていた。
「にいに、死んじゃうの?」
涙声で聞かれて俺は驚いた。そんなわけないじゃんと大笑いして返す。ちょっと旅に出るんだよと付け加える。
「じゃあ、あたしも行く」
大声で返されて、だろうなと思った。
もっと大人になってからな。
そう言って彼女の頭を撫でたが、ついに泣き出してしまった。
慰めようにも声が通らないので困る。
ちょうど食欲をくすぐる、香りの強い秋風が吹いた。
彼女の小さな三つ編みがゆらゆら揺れた。
ああ、なんかお腹すいたなぁ。
「やっぱり嘘だよ。もう今日は帰ろっか。」
涙の止まらない彼女だったが、意外と素直におぶられた。そのうち寝息が聞こえてくる。
その帰り道、風は夜のものになり少し冷たかったが、背中越しの彼女の体温はひどく心地よかった。
カーテンを開けて寝るようにしている。
日光を浴びると起きれるようになると誰かに聞いたからだ。
爆音のアラームも1分おきのスヌーズも、異常なくらい早く寝るのも試したけど、全部ダメだった。
全くもって生活リズムは変わらなかったのだ。
いつだって目覚めると長針は真上を指していた。
高校の時、学校に行かなくなったのがきっかけだった。始まりはなんとなくでも、だんだん何もかもを
やる気力が失せていったのだ。
2年をかけて、受かった職場もわずか数ヶ月で辞めてしまった。
心も生活も宙に浮いたまま、寝ることと起きることを繰り返している。
睡眠の質が悪いのかもしれない。
いつからか夜が怖くなって、いまだに眠りにつく時も豆電球を消せないでいる。
もう諦めてもいいし、そうしてしまいたけど、まだ死なない。
私にも、暖かい布団の中ですやすやと眠れる日がいつかは来るだろうか。
もし来たら、きっとその時には、あの時頑張ってカーテンを開け続けて良かったと自分を褒められるかもしれないな。
空にはぽつりぽつりと星が浮かぶ時間だった。
住宅地と大きな河川の間の小道を1人歩いていた。
さりげない水の音を聞きながら歩くことさえ、ここ最近の生きがいだった。
早朝から自習室に篭もっていたので、まだ足が痺れている。
通りがかった白い家からカレーライスの匂いがして思わず足を速める。
お腹空いたなぁ。
空気が冷えて、体が小さく震える。
そうか、これから夜になるんだと当たり前のことを思って、胸がまた沈んだ。
今はまだ長い長い夜の時間だから、と自分に言い聞かせる。
ちょうど帰り着く頃には完全に日が落ちていて、大きな星座が見えていた。
玄関のドアノブに手を掛けながら、どうか私の受験の夜明けにも大きな星座が残っていますようにと願って、また家に籠るのだった。