雨に降られてしなしなになったダンボールの中に1匹に子猫が渦を巻いていた。
連れては帰れないがせめてもの気持ちで自分の傘を差し出し、俺は1人猫に声をかけていた。
気が滅入る毎日、最近は特に。
人間関係も荒れているし、運も悪い。
そして何より自分の感情を上手くコントロール出来ない。怒りも悲しみも。
自分の失敗を素直に認められない。
一昨日の試合だってそうだった。
それがまた周りとのズレを広げた。
小雨が傘の中に入って肩を濡らしてイライラした。
大通りを歩く恋人を見つけて余計に腹が立った。
小さなことの繰り返しなのだ。
小さな幸せをみつけようなんて言う慰めがあるが、
それよりも小さい障害につまづいてしまう。
もっと鈍感でありたかった、とつくづく思う。
ついぞ誰にも打ち明けることの出来なかった悩みが零れる。
傘を差すのを諦めると、制服は濡れたが少し気持ちが収まった。俺はようやく帰ろうと決心がつき立ち上がる。
何も出来なくてごめんなと心のうちで謝った。
そんな俺とは対照に、憧れの眼差しで子猫は鳴いた。
天高く爽やかな風そよぐ日に2人で丘を登った。
頂上に着くと彼女は慌てたように走り出し、崖の縁に座って水筒のカップにお茶を注ぎ始めた。
僕は、もう走ると危ないよなんて笑いながらその後を追いかける。
お気楽な様子で一番に一息ついていた彼女の後ろにかがんで、柔らかい茶色の髪をすくめるてやると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。
三つ編みにしてあげるよ。
そう言うと、彼女はカップのお茶が零れるほどに強く頷いた。
端を軽く止め終えたので、僕も彼女の隣に座った。
眼前の清らな紅葉をそっちのけに、二人で夢中になって話した。と言っても、僕は大抵聞き役だったけど。
学校の友達、水泳クラブ、近所の子猫のみーちゃん、ランドセルの色。
順番なんかない奔放な話題にかき乱されて楽しかった。ああ、そう。そうなんだ。へぇ。それで。
何となくで相槌を打ってやるとますます彼女は加速した。
すっかり日が暮れた頃、話つかれたのか突然沈黙が訪れた。そのついでに、何となく、ただ何となくこの先のことを思って母さんの事よろしくなと呟いた。
うんともすんとも返さないので隣を見ると、
彼女は真ん丸な目をこちらに向けていた。
「にいに、死んじゃうの?」
涙声で聞かれて俺は驚いた。そんなわけないじゃんと大笑いして返す。ちょっと旅に出るんだよと付け加える。
「じゃあ、あたしも行く」
大声で返されて、だろうなと思った。
もっと大人になってからな。
そう言って彼女の頭を撫でたが、ついに泣き出してしまった。
慰めようにも声が通らないので困る。
ちょうど食欲をくすぐる、香りの強い秋風が吹いた。
彼女の小さな三つ編みがゆらゆら揺れた。
ああ、なんかお腹すいたなぁ。
「やっぱり嘘だよ。もう今日は帰ろっか。」
涙の止まらない彼女だったが、意外と素直におぶられた。そのうち寝息が聞こえてくる。
その帰り道、風は夜のものになり少し冷たかったが、背中越しの彼女の体温はひどく心地よかった。
カーテンを開けて寝るようにしている。
日光を浴びると起きれるようになると誰かに聞いたからだ。
爆音のアラームも1分おきのスヌーズも、異常なくらい早く寝るのも試したけど、全部ダメだった。
全くもって生活リズムは変わらなかったのだ。
いつだって目覚めると長針は真上を指していた。
高校の時、学校に行かなくなったのがきっかけだった。始まりはなんとなくでも、だんだん何もかもを
やる気力が失せていったのだ。
2年をかけて、受かった職場もわずか数ヶ月で辞めてしまった。
心も生活も宙に浮いたまま、寝ることと起きることを繰り返している。
睡眠の質が悪いのかもしれない。
いつからか夜が怖くなって、いまだに眠りにつく時も豆電球を消せないでいる。
もう諦めてもいいし、そうしてしまいたけど、まだ死なない。
私にも、暖かい布団の中ですやすやと眠れる日がいつかは来るだろうか。
もし来たら、きっとその時には、あの時頑張ってカーテンを開け続けて良かったと自分を褒められるかもしれないな。
空にはぽつりぽつりと星が浮かぶ時間だった。
住宅地と大きな河川の間の小道を1人歩いていた。
さりげない水の音を聞きながら歩くことさえ、ここ最近の生きがいだった。
早朝から自習室に篭もっていたので、まだ足が痺れている。
通りがかった白い家からカレーライスの匂いがして思わず足を速める。
お腹空いたなぁ。
空気が冷えて、体が小さく震える。
そうか、これから夜になるんだと当たり前のことを思って、胸がまた沈んだ。
今はまだ長い長い夜の時間だから、と自分に言い聞かせる。
ちょうど帰り着く頃には完全に日が落ちていて、大きな星座が見えていた。
玄関のドアノブに手を掛けながら、どうか私の受験の夜明けにも大きな星座が残っていますようにと願って、また家に籠るのだった。
鮮やかな月光が漣を照らす夜に招待状が届いた。
内容は単純だった。
『次に月が満ちる夜に私と踊りませんか』
日付も時間も場所さえも記載がなかった。
疑いもあったが、近頃はどこかつまらない毎日だったので誘いに乗ることにした。
重たい純白の封筒を丁重に書斎の引き出しにしまう。
壁に掛けられたピア・ハットを深く被り、革靴を履いて私は街へ出掛けた。
"極上のダンスシューズを買おう"
雨の夜も風の夜も、どんな夜もステップを踏んだ。
月が肥えるのにつれて、私の期待も高まった。
祭日の前夜、見覚えのある封筒が届いた。
『赤い鳥落つる城に東の魔女を救いにきて』
洒落た文章だが、意味はさっぱり分からない。
解読は諦めて、今夜はもう寝てしまうことにした。
刻一刻と日没が近づく。
カラスも門限に急ぎ、慌てて飛んでいる。
私は、ただひたすらに東に向かっていた。
1ヶ月を共にした愛用のシューズを抱えて。
随分遠くまで来たが、家ひとつ見つからなかった。
ましてや舞踏会の似合うような大きな館は
尚のこと見あたらなかった。
向かう場が違うのかもしれないし、はなから騙されているかもしれない。
しかし私は焦らなかった。
今日だけは紳士であろうと決めていたから。
遂に、人一人会うことなく森を抜けた。
そこでようやく気づく。
眼前には果てしない海が広がっていたのだ。
とっくに日は暮れており、水面は銀色に揺れていた。
ちょうど招待状が届いたあの夜のように。
風が私を掬って潮の匂いが震撼する。
振り向くとそこには東の魔女に相応しい真赤なドレスの熟女がいた。
彼女は極僅かにも海波を乱さず、整然たる一礼を捧げた。
0,の静寂。
再び前をむいた彼女と目が合って、その唇の紅さに
宵宮は始まった。
投げ出されたダンスシューズを引き返す波が連れ去ってしまいそうだった。
裸足の彼女に合わせて、私はすぐにドレスコードを転換した。
毎晩愛し合った女性より、一夜の高嶺の花に恋惹かれるような気持ちだった。
月の照らす砂浜の上で影は優雅に揺らめいた。
裸足の指を白砂が幾度も洗った。
強くステップを踏むと、フロアは滑らかに崩れた。
時の流れを忘れてしまいそうだった。
潮風の冷たさが心地よくて堪らなかった。
絵画みたいなこの夜に私はどっぷりと浸っていた。
もしや東の魔女に連れ去られてしまうのか。
それでも構わない。
今はただこの紅に溺れていたかった。