切れたのだ。今度こそ切れたのだ。終ぞ切れはしなかった我が堪忍袋の緒は満を持して大手を振って怒髪天ついて切れたもうた。
凪いだ水面のごとき心は噴き出す間欠泉の如くどうどうと荒れ狂い、固く引き結んでいた口はぐわと開かれドラゴンの咆哮もかくやと言った叫び声を吐き出している。
「くたばれ!冬休み!」
罵声は炎となって放射され、すぐ横を全速力で駆けて行った男児を人型の炭にした。
◇ ◇ ◇
「ガキが多いと思ったら冬休みか…あ〜うるせえ」
トイレットペーパーを求めて最寄りのスーパーへ訪れてみればこのザマである。自動ドアがご開帳した途端に子供達の悲鳴にも似た鳴き声があちらからもこちらからも向こうからも発生している。
平日の午前中からこの騒ぎ。季節は冬。今は12月。
答えはすぐに導き出された。冬休みなのである。
あちらこちらで駆けっこ追いかけっこ。そちらでは買い物カートを全速力で押し走り。そこらでは我が子の奇行愚行が目に入らぬ、いや奇行愚行と判断する脳のない親御様方が店内を徘徊している。
「この世の地獄かよ」
自動ドアが開くだけでこの不快さ。立ち入りたくはない。しかし己の尻を拭う物を手に入ればならない。
昨晩買い忘れた己が憎い。だが昨晩の己の尻拭いは己でしたければならない。
子供という生き物に罪はないとは理解しつつも、あの甲高い声と意味不明な言動には不快さを覚えずにはいられない。
「まあまあまあ、悪いのは子供じゃなくて頭パーの親だよな。親を憎んで子を憎まず…」
迅速に便所紙を購入し去ればいいだけの事。心頭滅却すれば何とかもまたなんとかなのである。
走り来る子供達を避け、周りを見ずにカートを操る老人を避けどうにか目当ての物を掴みようやく精算を済ませた時の開放感たるや。
あばよ、と自動ドアをくぐろうとした瞬間。
背後、店内で「くたばれ!冬休み!」と女性の怒声が上がった。その異様な叫び声に驚愕しないわけもなく、思わず足を止めてみると突然レジが並ぶ通路の傍で何度も何度も赤い炎が吹き上がるのが見えた。
数泊の間に老若男女の悲鳴が伝染してして行く。
「…好奇心は猫をも殺す!」
こんなものもう、逃げる以外の選択肢はないのである。
足早に店外に脱して振り返って見れば、ガラス張りの壁から店内の様子がちらほらと見て取れた。
年若い女性の口から吐き出された炎が子供達やその親らしき人々を次々と焦がして行く。
つい先程まで人間だったそれはてんでよく焼かれているようで、絶命し動きを止めると床に倒れ込む。
それは倒れ込んだ衝撃でばらばらに砕け、人間であった面影を無くしてしまうのだった。
女性は的確に子供とその親を選び判断しているようで、遅れて店外に逃げ出して来た客の中には少なくとも子供と呼べる齢の子はいなかった。
人々は警察へ通報するのも忘れ、その異様な光景に呆然と見入っていた。
全ての親子達が炭の塊と成り果てた頃、件の火吹き女が落ち着いた様子で店外へと出てきた。
遠巻きに自分を見る人々に向けてだろう。女性は地面に視線を向けたまま「…辰年だから!」と叫ぶと脇目も振らず走り去ってしまった。
女性を追いかける勇気のある者などひとりもいなかった。
「…冬休みってこええなぁ」
窓を開けると、寒冷地の澄んだ冷気が酒気で火照った体を撫でながら部屋に満ちて行く。
ほう、と息を吐けばほんのわずかな間ではあったが息が凍った。
そよそよと窓から吹き込む冷たい風が一際強く吹いたかと思うと、一緒になって牡丹雪が侵入して来た。
「ホワイトクリスマスかあ」
独り言に返してくれる者はなし。ひとりぼっちで美味い飯を食いながらクリスマス特番や配信を観る。それが自分のクリスマスの過ごし方だった。
愛する恋人や家族と過ごせず、ひとりぼっちでクリスマスという特別な日を終える人間を世の中がどういった目で見るかくらいは知っている。
だが美味い飯を食い、美味い酒を飲み、愉快な映像を観て…そして今頃クリスマスという特別な日を愛する人達と過ごし幸せを享受する、顔も知らない誰か達がいるのだと思うと楽しくて仕方がないのだ自分は。
今日は世に幸せが満ちる日、クリスマス。知らない誰かの幸せと笑顔で飯も酒も美味い。
「ぎゃあっ、なんだお前はっ」
窓の外で突然悲鳴が上がる。聞き覚えのある声に記憶の引き出しを掻き回している間にも、どう聞いても暴力によって引き起こされた悲鳴や抵抗の声が聞こえ続ける。
その聞くだけで不快さを覚える汚い悲鳴で思い出した。
「金田家のじいさんか」
成金糞爺と名高い、持っているのは金だけで顔も性格も日頃の行いも全てが悪いと、この地域に住む人間が満場一致で陰口をたたくあのじいさんだ。
体がすっかり冷え、部屋の床が吹き込む牡丹雪で濡れるのも構わずその悲鳴に耳を傾ける。
そういえばあのじいさん、ついこの間酒気帯び運転をしてサッカー少年にぶつかって二度とサッカーなんて出来ない体にしたらしい。あのクソじじいが謝罪などするはずもなく、金を積んで積んでは威圧的に物を申して実質的に泣き寝入りさせたとも聞いた。
一際大きな悲鳴の後、あしが、あしが、と泣きわめくじいさんの悲痛な声が聞こえて来たものだから慌てて部屋のテーブルへと戻りシャンパンとフライドチキンを掴む。急いで窓まで戻ればまだまだじいさんの新鮮で旨みしかない悲鳴は聞こえていた。
「酒と肉がうめえなあ!」
悪人の不幸と悲鳴は普通に美味いのである。
興奮でらんらんと輝く自分の瞳と、フライドチキンの油でてらてらと光る唇は満面の笑みの中にあった。
メリークリスマス!
大空。大きな空。
空はいい。澄んだ青い空にたゆたう、たおやかに流れる白い雲。視界いっぱいに広がる空を眺めているだけで思考も気持ちも洗われていくようだ。
それに加えて波の音、そして背に感じる砂のぬくもり。
祖父所有の砂浜で寝っ転がって青空を眺めるのが子供の頃から好きだった。所謂プライベートビーチというやつだ。
とは言っても両側にそびえ立つ崖でくり抜かれたようなこの場所はそれほど広くはない。このこぢんまりとしている秘密のスポットにはちょっとした洞窟を抜けて来なければならないのでうちの家族は「我が家の秘境」と呼んでいる。
心地良さにしばし瞼が下がる。眠い訳ではなかったが、日差しもあたたかいので眠ってしまってもいいかもしれない。
「ちょっとごめん」
突然聞こえた声に反射的に目を開ける。瞬間、信じられない光景が視界いっぱいに広がり動けなくなる。
大空いっぱいに人の顔が浮かんでいた。大きいといってもこちらの視界いっぱいに収まる程度ではあるが。それでもとんでもない大きさである事には変わりは無い。
声の感じからしてそれはどうやら男性のようで、額から鼻の下辺りまでが空に浮かんでいる。浮かんでいるというよりは映し出されているのかもしれない。
夢でも見ているのか、それともこれが人生初の心霊現象との遭遇なのか。驚きから思考も体も動かなくなっていた。
「ごめん、ちょっとあの、神なんだけども」
神だった。
神と名乗ったビッグフェイスの表情は額から鼻下までしか見えない事もあり分かりづらい。
「ちょっと今、神の顔が見えちゃってると思うんだけども。なんかね、多分インカメラ?とかいうやつになってしまったみたいで。これどうしたらなおるか知ってたら教えてくれんかな」
「近くにどなたかいないんですか?」
「今ミカエルも息子もおらんのよ。というかバレたら怒られるから。特に息子にさ」
「もしカメラアプリを使っているなら、多分画面のどこかに丸い矢印のマーク…なんかウロボロスみたいなやつがあると思うんですけど」
「あーあー…あるわ。押したらいい?」
「はい」
途端に空のビッグフェイスが消え去り見慣れた青空が広がった…と思った次の瞬間には再び空に広がるビッグフェイス。
「ありがとう〜助かったわ。今度お礼に美味しいパン送るから。うちの息子上手なんだパン焼くの」
「いえ、お気遣いなく」
「いやほんと助かったから。したら今度送るから。ありがとう、じゃあね」
ビッグフェイスが消えると今度はどれ程待とうと、再びあの顔が空に映し出される事はなかった。
おもむろに立ち上がり、充分に手足を伸ばし全力で帰路を走り出した。
それからしばらくというもの、空を見上げる事が怖くて俯くようにして歩くようになってしまった。たとえあの顔が真に神であるとしても、どう考えたってこれは恐怖体験だろう。
そして後日、本当にパンが届いた。そのパンは絶品のひとことで、思わず「開けよパン屋」と独り言ちてしまった。
あれ程奇妙奇天烈な体験をしたにも関わらず、好奇心と食欲には抗えなかった。そんな自分が憎い。
驚きも恐怖も薄れて来た頃、スマートフォンに見知らぬアドレスからメールが届いた。
『何かインターネット見てたら変な画像触って、利用料金が発生したから支払えって言われたんだけど。どうしたらいい?息子に怒られるかもしれん』
こいつからスマートフォン取り上げろよ。
「先輩、頑張ってください!」
喉が痛い、酸欠で頭がくらくらする。自分の大熱唱の声が頭に響いて輪をかけてくらくらする。マイクを握る手にも力が入らなくなってきた。
腹立たしい。非常に腹立たしい。なぜこの様な目に遭わねばならない。
「こんな馬鹿な除霊の仕方があるか!!」
「除霊じゃなくて結界です」
霊能者の弟子とかいう青二才がすかさず訂正を入れる。
「先生は大事な用を済ませてからこちらに向かいます。それまで霊を近づけない為に大熱唱してください。それが結界になります。具体的には90から100デシベルとかそのくらいのやかましさで」
等と言うものだから、言われるがままされるがまま歌い続けている。選曲や間奏や前奏の間にも、クソデカハミングや意味の無い大声を上げるなどしなければならず体力がもう限界に近かった。
「先輩!頑張ってください!あと5曲で交替です!」
「佐林!祠壊したのはお前なのになんで俺がこんな目にあってるんだ!」
「般若心経入れますね」
聞こえないふりをしやがる。つらい。つらい。つらい。早くこの時間が終わってほしい。
霊能者の弟子がおもむろにスマートフォンを手に持つ。
「先生、事務所の鍵閉めに戻るらしいのであと1時間延長お願いできますか」
「くたばれ!!!」
今日一番の腹からの声が出た。