開け放した窓から、そろりと冷えた風が侵入して来た。つられて窓を見てみれば、空は茜色に染まっていた。
地平線に沈んで行こうとしている夕日のなんと彩やかな事か。二階に位置するこの自室からはそれがよく見える。
気づけば床で寝ていたはずの親友の白城孝高も体を起こし窓の外の夕空を眺めていた。
ふと、樋口太一は幼馴染みであり親友であるこの男と見て来た景色について考えを巡らせていた。
もしかすると血の繋がった親や弟、過去に交際した女性の誰よりも自分と同じ景色を目にして来たのかもしれない。
遊びに行くのも悪さをするのも一緒で、叱られる時でさえ一緒だった。思い出と呼べる景色の記憶のほぼ全てに孝高がいた。
そして十中八九、今までの恋人に振られて来た理由が孝高の存在なのである。
あざやかな夕焼けを眺める部屋にはただ二人としじまだけがあった。
回顧に余念のないはずだった太一の無意識が突然に声を上げた。「夕日めっちゃ美味そう」と。
具体的に言えば黄身がとろりと流れる茹で卵が食べたかった。いや熱々の茹で卵にマヨネーズをかけて食べられるなら黄身の硬さなど些細な事かもしれない。
目は夕日をとらえたが、太一の心をとらえたのは茹で卵であった。
「太一、お前今茹で卵の事考えてただろ」
「おお、正解。ドンピシャ」
「空中でイマジナリー茹で卵の殻割ってたぞ」
「しようぜ茹で卵祭り」
「断る。俺は人参をしこたま入れたシチューを作って食う」
「じゃあ買い物行くか」
孝高の返事を待たずに立ち上がる。財布と家の鍵をポケットにねじ込み部屋を出れば、背後で孝高が動く気配がした。振り返る事無く階段を下りてから違和感に気づく。孝高の足音が止まった。
「孝高?」
振り返った先の光景に太一は言葉を失った。
階段の壁と壁の間に胸板がつっかえて身動きを取れなくなっている孝高の姿がそこにあった。
「だから!二階じゃなくて一階にしようって毎回頼んでただろうが!」
太一の無言の視線に堪えかねた孝高は気まずさと気恥しさを振り払おうとするかの様に声を荒らげた。
樋口家の二階へ続く階段はとにかく非常に狭く、中肉中背の太一でさえ体を斜めにして上り下りしている中、肩幅も胸板の厚さもご立派な孝高は体を横にしても毎度壁に体を擦らせねばならない状態だった。
「いやぁ、とうとう挟まったか」
「いいから助けてくれ!」
「いつか挟まりそうだなとは思ってたんだよな。ちなみにずっと秘密にしてたけど、うち別に普通の幅の階段あるんだよね」
「馬鹿が!ほんと馬鹿だなお前!」
「もしかしてまた筋肉ついた?筋肉が無ければ挟まりはしなかっただろうに…雉も鳴かずば撃たれまい」
「おい!おい待て!この状態で置いて行くな!」
親友の悲鳴と懇願に手をひらひらと振りながら、太一は躊躇う事無く家の外へと躍り出た。
さすがにこの面白おかしい光景は自分だけのものであろう。えも言われぬ満足感を覚え歩くその足取りはとても軽かった。
空を見上げてみれば、久しぶりに独りで見る夕暮れの色が濃くなり始めた空があった。
「馬鹿が。もう一度言うぞ。馬鹿が、馬鹿のてっぺんだこの馬鹿が。馬鹿キング。キングオブ馬鹿。恥を知れよ馬鹿野郎」
「お前にはオレを罵る権利が多分にあるさ。でもあまり言われるとこちらとしても反省の気持ちと同時に腹立たしさも覚えるわけよ」
「覚える権利ないんだよお前は」
己を睨む親友の目は見るからに怒りに燃えている。顔が赤いのは酒を飲んだからだけではないだろう。親友という間柄故、怒りを示す態度にはこれっぽっちの遠慮もない。
太一は己のしでかした、酷くくだらない悪戯を心から悔やんでいた。脳内に浮かんでいた、酒は飲んでも飲まれるなという言葉が酒気で沈む程に飲んだ阿呆の末路だった。
「馬鹿!ど阿呆!どうしてお前はいつもそうなんだ!いい歳こいてやる悪戯か!だからお前はモテないんだよ!」
「酒飲むと楽しくなっちゃうんだよ!長い付き合いで知ってるお前がオレを御さないのが悪い!」
「自制出来ないやつが酒を飲むな馬鹿!」
反省の心はあるものの、親友である孝高の矢継ぎ早の文句に太一は思わず応戦してしまった。
言い合いをしているというのに、二人の右手はしっかりと握手をしている。喧嘩するほど仲がいい…という訳では無い。物理的にくっついているのである。
幼馴染みであり親友である二人は家族か恋人の様な頻度で顔を合わせては、一緒に遊びに出かけたり互いの家で遊んだり酒を飲んだりする間柄である。飽きるとか倦怠期とか、そんな余地などほとほと無い程の仲だった。
だからといって、酔った挙句に床に転がる瞬間接着剤のチューブを見つけて己の右手に絞り出し「シェイクハーンド」などと言い親友の右手を握るという愚行は許されない。親しき仲にも礼儀ありという言葉を百回噛み締めるべきである。
どちらかと言えば厳つい顔に分類される孝高は、なんと首から下も恵まれた厳つい体躯をしている。その孝高の自由な左手の拳は怒りで固く握り締められており、半袖から見える腕の筋肉が盛り上がっている。太一はどうか孝高が右手に力を込めない様にと祈った。
「お前、俺の名前と職業を言ってみろ」
「白城孝高、小説家」
「お前の名前と職業は」
「樋口太一、漫画家」
「俺とお前の利き手は」
「右手です」
「馬鹿が!」
本日最大大音声の馬鹿とともに、孝高の左手が太一の頬を張り倒した。
切れたのだ。今度こそ切れたのだ。終ぞ切れはしなかった我が堪忍袋の緒は満を持して大手を振って怒髪天ついて切れたもうた。
凪いだ水面のごとき心は噴き出す間欠泉の如くどうどうと荒れ狂い、固く引き結んでいた口はぐわと開かれドラゴンの咆哮もかくやと言った叫び声を吐き出している。
「くたばれ!冬休み!」
罵声は炎となって放射され、すぐ横を全速力で駆けて行った男児を人型の炭にした。
◇ ◇ ◇
「ガキが多いと思ったら冬休みか…あ〜うるせえ」
トイレットペーパーを求めて最寄りのスーパーへ訪れてみればこのザマである。自動ドアがご開帳した途端に子供達の悲鳴にも似た鳴き声があちらからもこちらからも向こうからも発生している。
平日の午前中からこの騒ぎ。季節は冬。今は12月。
答えはすぐに導き出された。冬休みなのである。
あちらこちらで駆けっこ追いかけっこ。そちらでは買い物カートを全速力で押し走り。そこらでは我が子の奇行愚行が目に入らぬ、いや奇行愚行と判断する脳のない親御様方が店内を徘徊している。
「この世の地獄かよ」
自動ドアが開くだけでこの不快さ。立ち入りたくはない。しかし己の尻を拭う物を手に入ればならない。
昨晩買い忘れた己が憎い。だが昨晩の己の尻拭いは己でしたければならない。
子供という生き物に罪はないとは理解しつつも、あの甲高い声と意味不明な言動には不快さを覚えずにはいられない。
「まあまあまあ、悪いのは子供じゃなくて頭パーの親だよな。親を憎んで子を憎まず…」
迅速に便所紙を購入し去ればいいだけの事。心頭滅却すれば何とかもまたなんとかなのである。
走り来る子供達を避け、周りを見ずにカートを操る老人を避けどうにか目当ての物を掴みようやく精算を済ませた時の開放感たるや。
あばよ、と自動ドアをくぐろうとした瞬間。
背後、店内で「くたばれ!冬休み!」と女性の怒声が上がった。その異様な叫び声に驚愕しないわけもなく、思わず足を止めてみると突然レジが並ぶ通路の傍で何度も何度も赤い炎が吹き上がるのが見えた。
数泊の間に老若男女の悲鳴が伝染してして行く。
「…好奇心は猫をも殺す!」
こんなものもう、逃げる以外の選択肢はないのである。
足早に店外に脱して振り返って見れば、ガラス張りの壁から店内の様子がちらほらと見て取れた。
年若い女性の口から吐き出された炎が子供達やその親らしき人々を次々と焦がして行く。
つい先程まで人間だったそれはてんでよく焼かれているようで、絶命し動きを止めると床に倒れ込む。
それは倒れ込んだ衝撃でばらばらに砕け、人間であった面影を無くしてしまうのだった。
女性は的確に子供とその親を選び判断しているようで、遅れて店外に逃げ出して来た客の中には少なくとも子供と呼べる齢の子はいなかった。
人々は警察へ通報するのも忘れ、その異様な光景に呆然と見入っていた。
全ての親子達が炭の塊と成り果てた頃、件の火吹き女が落ち着いた様子で店外へと出てきた。
遠巻きに自分を見る人々に向けてだろう。女性は地面に視線を向けたまま「…辰年だから!」と叫ぶと脇目も振らず走り去ってしまった。
女性を追いかける勇気のある者などひとりもいなかった。
「…冬休みってこええなぁ」
窓を開けると、寒冷地の澄んだ冷気が酒気で火照った体を撫でながら部屋に満ちて行く。
ほう、と息を吐けばほんのわずかな間ではあったが息が凍った。
そよそよと窓から吹き込む冷たい風が一際強く吹いたかと思うと、一緒になって牡丹雪が侵入して来た。
「ホワイトクリスマスかあ」
独り言に返してくれる者はなし。ひとりぼっちで美味い飯を食いながらクリスマス特番や配信を観る。それが自分のクリスマスの過ごし方だった。
愛する恋人や家族と過ごせず、ひとりぼっちでクリスマスという特別な日を終える人間を世の中がどういった目で見るかくらいは知っている。
だが美味い飯を食い、美味い酒を飲み、愉快な映像を観て…そして今頃クリスマスという特別な日を愛する人達と過ごし幸せを享受する、顔も知らない誰か達がいるのだと思うと楽しくて仕方がないのだ自分は。
今日は世に幸せが満ちる日、クリスマス。知らない誰かの幸せと笑顔で飯も酒も美味い。
「ぎゃあっ、なんだお前はっ」
窓の外で突然悲鳴が上がる。聞き覚えのある声に記憶の引き出しを掻き回している間にも、どう聞いても暴力によって引き起こされた悲鳴や抵抗の声が聞こえ続ける。
その聞くだけで不快さを覚える汚い悲鳴で思い出した。
「金田家のじいさんか」
成金糞爺と名高い、持っているのは金だけで顔も性格も日頃の行いも全てが悪いと、この地域に住む人間が満場一致で陰口をたたくあのじいさんだ。
体がすっかり冷え、部屋の床が吹き込む牡丹雪で濡れるのも構わずその悲鳴に耳を傾ける。
そういえばあのじいさん、ついこの間酒気帯び運転をしてサッカー少年にぶつかって二度とサッカーなんて出来ない体にしたらしい。あのクソじじいが謝罪などするはずもなく、金を積んで積んでは威圧的に物を申して実質的に泣き寝入りさせたとも聞いた。
一際大きな悲鳴の後、あしが、あしが、と泣きわめくじいさんの悲痛な声が聞こえて来たものだから慌てて部屋のテーブルへと戻りシャンパンとフライドチキンを掴む。急いで窓まで戻ればまだまだじいさんの新鮮で旨みしかない悲鳴は聞こえていた。
「酒と肉がうめえなあ!」
悪人の不幸と悲鳴は普通に美味いのである。
興奮でらんらんと輝く自分の瞳と、フライドチキンの油でてらてらと光る唇は満面の笑みの中にあった。
メリークリスマス!
大空。大きな空。
空はいい。澄んだ青い空にたゆたう、たおやかに流れる白い雲。視界いっぱいに広がる空を眺めているだけで思考も気持ちも洗われていくようだ。
それに加えて波の音、そして背に感じる砂のぬくもり。
祖父所有の砂浜で寝っ転がって青空を眺めるのが子供の頃から好きだった。所謂プライベートビーチというやつだ。
とは言っても両側にそびえ立つ崖でくり抜かれたようなこの場所はそれほど広くはない。このこぢんまりとしている秘密のスポットにはちょっとした洞窟を抜けて来なければならないのでうちの家族は「我が家の秘境」と呼んでいる。
心地良さにしばし瞼が下がる。眠い訳ではなかったが、日差しもあたたかいので眠ってしまってもいいかもしれない。
「ちょっとごめん」
突然聞こえた声に反射的に目を開ける。瞬間、信じられない光景が視界いっぱいに広がり動けなくなる。
大空いっぱいに人の顔が浮かんでいた。大きいといってもこちらの視界いっぱいに収まる程度ではあるが。それでもとんでもない大きさである事には変わりは無い。
声の感じからしてそれはどうやら男性のようで、額から鼻の下辺りまでが空に浮かんでいる。浮かんでいるというよりは映し出されているのかもしれない。
夢でも見ているのか、それともこれが人生初の心霊現象との遭遇なのか。驚きから思考も体も動かなくなっていた。
「ごめん、ちょっとあの、神なんだけども」
神だった。
神と名乗ったビッグフェイスの表情は額から鼻下までしか見えない事もあり分かりづらい。
「ちょっと今、神の顔が見えちゃってると思うんだけども。なんかね、多分インカメラ?とかいうやつになってしまったみたいで。これどうしたらなおるか知ってたら教えてくれんかな」
「近くにどなたかいないんですか?」
「今ミカエルも息子もおらんのよ。というかバレたら怒られるから。特に息子にさ」
「もしカメラアプリを使っているなら、多分画面のどこかに丸い矢印のマーク…なんかウロボロスみたいなやつがあると思うんですけど」
「あーあー…あるわ。押したらいい?」
「はい」
途端に空のビッグフェイスが消え去り見慣れた青空が広がった…と思った次の瞬間には再び空に広がるビッグフェイス。
「ありがとう〜助かったわ。今度お礼に美味しいパン送るから。うちの息子上手なんだパン焼くの」
「いえ、お気遣いなく」
「いやほんと助かったから。したら今度送るから。ありがとう、じゃあね」
ビッグフェイスが消えると今度はどれ程待とうと、再びあの顔が空に映し出される事はなかった。
おもむろに立ち上がり、充分に手足を伸ばし全力で帰路を走り出した。
それからしばらくというもの、空を見上げる事が怖くて俯くようにして歩くようになってしまった。たとえあの顔が真に神であるとしても、どう考えたってこれは恐怖体験だろう。
そして後日、本当にパンが届いた。そのパンは絶品のひとことで、思わず「開けよパン屋」と独り言ちてしまった。
あれ程奇妙奇天烈な体験をしたにも関わらず、好奇心と食欲には抗えなかった。そんな自分が憎い。
驚きも恐怖も薄れて来た頃、スマートフォンに見知らぬアドレスからメールが届いた。
『何かインターネット見てたら変な画像触って、利用料金が発生したから支払えって言われたんだけど。どうしたらいい?息子に怒られるかもしれん』
こいつからスマートフォン取り上げろよ。