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司馬園 灯(しばぞの ともる)には前世の記憶がある。
といっても記憶は朧気なもので、ぽつぽつとしたいくつかの情報と強く根付く恐怖の感情が大半を占めており、どういう訳か幸福な記憶はちっともない。

灯が生きた前の世は地球とは全く別の世界だった。地球で言う剣と魔法のファンタジーの世界といった風で、灯はとある長命種族の貴い家の生まれの青年だった。家族の名前も故郷の名前も覚えてはいなかったが。
それだというのに、まるで魂にこびりついているかのような記憶がある。記憶というよりも悪夢に近いそれは物心ついた頃から灯を苦しめていた。

そこは真っ暗な部屋だったかのように思う。どうしてか殆どの時間目隠しをされていた。
手首と足首には常に鉄の枷がはめられていて、枷から伸びた鎖がじゃらじゃらとあちらこちらへぶつかり擦れる音がしていたのを覚えている。
そして最も強烈に染み付いているのが、熱い汗ばんだ手が自分に触れる気持ちの悪さと恐怖と絶望と諦念、そして希死念慮にも似た漠然とした終わりを望む感情だった。

地球の日本に生まれて40年。おかげで灯は未だに自室の照明を消して寝る事が出来ないし、スキンシップや手首や足首にアクセサリーをつけるのが苦手だった。

◇ ◇ ◇

「まあその嫌な前世の記憶のおかげでこうして稼げているわけだが…」

独り言に返してくれる者は居なかった。灯は筆を置いて立ち上がると窓を開け、外の新鮮な空気を吸い込んだ。

灯自身もどうしてこうなったかは分からない。

幼少期から思春期の灯は前世の恐怖の記憶に苛まれ苦しんでいた。
だが己の前世の恐怖と向き合い克服しなければと思い立った。思い立った灯は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉を思い出し、体を鍛える事にした。

マッスルボディは手に入ったが、恐怖を克服するには至らなかった。
次に灯は絵を描いた。あの真っ暗な部屋の絵を。形にする事で恐怖の原因を思い出し理解する事ができるのではないかと考えたのだ。

結果としては何も解決していない。暗い部屋は怖いままで、スキンシップは苦手で手足にアクセサリーをつけるのも緊縛プレイも苦手だった。

「何であんな真っ黒に塗っただけの絵が売れてるんだ…」

気づいた時にはあの真っ暗な部屋の絵は世間に高く評価され、同時に高く買われた。灯は自分でも気づかないうちに「画家」になっていた。

「人生何が起こるかわからないもんだな…」

窓を閉めると、作業机の上の箱に手を伸ばす。中に入っているのは全てファンレターだった。
自分の絵に感動しただとか感銘を受けただとか、大抵はそんな内容が書いてある。

「真っ黒に塗っただけのキャンバスに感動も何もあるかい」

己が救われる為に描いているそれでなぜだか顔も知らない赤の他人達が勝手に救われていく。理不尽である、不満である。
だがお陰様で懐は非常に豊かになった。具体的に言うのははばかられるが、特別仲の良いわけではなかったクラスメイトや知らない親戚からたびたび連絡が来る様になった。つまりはそういう事である。

「なんだこの手紙」

ふと目に入ったのは何の変哲もない白い封筒だった。他と違うのは書かれた宛先が日本語ではない言語で書かれている所だった。その言語の既視感に気づいた瞬間、灯の心臓が縮み上がるような恐怖を覚えた。

開封すると中には一枚の便箋があった。
そして「見つけたよ」という一文のみがあった。

「…やばい、思い出したぞ全部」

たったそれだけが呼び水だった。

「俺は自分ちの使用人のストーカー野郎に誘拐されて監禁されてあんなことやそんなことをされたんだ…長命種だったのに!人生の8割それだった!」

困惑と恐怖が入り交じり、手が震えて止まらなかった。灯の手から便箋が落ちる。裏返しになって落ちた便箋にはまだメッセージが綴られていた。

『喜ばしい事に、僕には少年法という強い味方がいます』

ああ、諦めるしかないらしい。
力なく床に蹲る灯の背後の窓では、今まさに日が暮れようとしていた。

3/26/2025, 8:47:40 AM