自分の正しさのために、誰かの間違いを指摘してはいけない。
結果的に、その誰かが否定されたと責めてくる時は、
その人は自分の過ちに気がついている証拠なのだ。
気がついているけれど、それを認められない証拠。
自分の信じてきた概念、解釈が歪んでいると気づいた時、
それを認めるには勇気がいる。痛みを伴う。
私は正しくない。正論を振りかざしたくない。
しかし、私の理論は正しくて、正論で、友人だと思っていたものを思いがけず傷つける。
彼等は己の心を守るために暴言を吐き捨てる。
哀れな生き物。ほとんどの人間はそうだ。
私が彼等に正しさを説けば、彼等は手のひらを返したように、私を排除するために動くだろう。なぜなら人は、嫌な現実から目を逸らす生き物なのだから。
私は必ずしも、自分が正しいとは思わない。
けれど、目の前で起こる事象の全てが、私の行動の正しさを裏付ける。
起こると思っていたことが、避けようとしても起こるのだから。私は自分の行動はコントロール出来ても、愚かな友人の行動をコントロールできるわけじゃない。
私は、友人が欲しいと望んだ。
必要もなければ欲しくもない友人を求めて、執着した。
彼らを守ろうと思った。
彼等は私がひとりぼっちでいたことなんて知らない。私は、彼等が思うより、彼等に執着し、大切にしていた。
彼等には隠していた。私のこれが、彼等にとって足枷になることを知っていた。
私は誰よりも自由だ。
ひとつの所に留まれない。
ただ、ほんの少し離れがたくて、守りたくて、執着してしまった。お別れの時が来た。
それだけの話。
私は心の冷たい人間です。
私はそう思うことにした。
私の正しいと思う優しさや倫理は、誰にも共感されなかった。
されたとしても、それは偽りだった。
時にそれは人によっては直視しがたい現実を目の前に突きつけるもので。私はしばしば人の怒りを買った。
私は騙されて、怒りを買って、罰としてほとんどのものを失った。
それは正しい行いです。自信を持って。
しかし私の心はすり減っていく。
期待や見返りを求めて苦しくならないために、私は感情を殺した。
私は本来、好奇心旺盛な性格で、よく動いて、よく喋る。友人に呆れられるほどに。
けれど、感情を殺す時間が多くなればなるほど、私は元に戻る方法が分からなくなる。
思い出しても、元に戻っていいのか悩む。
感情を殺しておいて、無邪気な私に戻るのは、抵抗があった。
なぜなら、感情を殺している間の私は、自分の心を守るのに手一杯で、相手のことなどなにも考えない冷たい人間なのだから。
それなのに、そんな冷たい人間に、優しくする人が現れる。
冷たい人間からは、人が離れていくのが普通なのだ。
いたとしても、それはみんな詐欺師だった。
ただ、私はもうなにもかも奪い尽くされて、なにも持っていない。
価値のない人。
私には分かっていたのです。
毎日なにかが変化していく中、変化しないものの大切さ。
守りたかった。
変化を受け入れるたびに崩れていった。壊れて行った。
だれも、文句を言えずに、見てるだけ。
それが悲しくて、悔しくて、足掻いたけれど。
誰にも理解して貰えなかった。
なんて、無力。
私が大切にしていたものは、呆気なく崩れ去っていく。
理解されないたびになにかが壊れていく。
私はなんでもないようなフリをして、大切だと思っていたものを忘れていった。
大切にしていたことを忘れてしまえば、壊れた事実はなかったことになった。
けれど、
私は、思い出してしまったのです。
好きだったもの。大切だったもの。
その時、変わりきったその世界を受け入れられなかった。
私が守りたいと思っていたものは、すでに失われていた。
何もかも失った訳では無い。
少しだけ、残っている。
けど、それに期待してはいけない。
その重圧を、誰かに背負わせてはいけない。
けれど、私はここには居られない
人は他者を理解出来る生き物である。
しかし、そのような能力を持っているくせに、人は他者を理解しようとはしない。
他者を理解する前に、自分を理解出来ていないからだ。
しかし、誰かを理解すること、そして誰かを理解することは、人々の喜びでもある。
人しか持ちえない喜怒哀楽の感情表現は、いつだってその為に使われる。
だから人はしばしば、自分を理解して欲しくて癇癪を起こす。
そして、他人を理解したふりをする。
偽りの理解は軋轢を産む。
理解を偽る者は、大抵焦っている。
他者の心は手に入らないと、薄々わかっている時。
誰かを理解出来る能力が、自分にはない時。
喉から手が出るほどに欲しいと願っても、理解のための脳の容量が足りなければ、それは叶わない。
誰のせいでもない。
誰のせいでもないけれど、願いを叶えられなかった人間は心無い言葉を扱う。
まるで、壊れかけたテレビを叩いてなんとかまたその画面に映像を映させようとするかのように。
去るもの追わず、来るもの拒まず、と言う言葉がある。
それの言葉の意味を考える。
これは主体的な言葉でしょうか?
「私たちは、来るものも拒みません、去るものは追いません」
そういうと、傲慢に聞こえる。
「私たちは、来るものを拒めません
(たとえ来て欲しくなくても)、
私たちは去るものも拒めません
(たとえここにいて欲しくても)」
そういうと、とても苦しく聞こえる。
そもそも、去るもの追わず、来るもの拒まず、という言葉は、私たち自身から生まれたものでは無い。言葉を作ってきた先人たちが、我々に言い伝え聞かせてきてくれた言葉だ。
それなのに、私たちはそれをさも自分から溢れてきた言葉のように扱う。
では、先人たちが言いたかったのは、
「来るものを拒んではいけません。
去るものを追ってはいけません」
ということなのでしょうか。
しかしそれも、来て欲しくない、追いかけたい、という己の自由に枷をかけることになってしまう。
来るもの拒まず、去るもの追わず。
私には、居心地のいい場所がありました。
そこに、一人の迷子が入ってきました。
やってきたその子を、私は拒みませんでした。
その子は私に懐いて慕ってくれたけれど、たまに癇癪を起こして暴れてしまいます。
私は耐えてきたけれど、ある日、手に負えなくなりました。居心地がいい場所が地獄のように感じられるようになっていることに気づきました。
そう思ったら、私はその場所から去らずには居られませんでした。その場所には、やってきた迷子以外にも、私の友人や仲間がいました。その人たちと離れるのは耐え難かったけれど、迷子が癇癪を起こすのは、私に対してだけだったのです。
私には行き場がありませんでした。
迷子になっていると、友人の一人が追いかけてきてくれました。
疲れたので、休んでいます、そういうと、友人は、そうですか、と言って離れていきました。私はそれを見送ってから、途方にくれました。
この中で、来るものを拒まず、去るもの追わずを実行出来ていたのは、友人以外の全ての人でした。
けれど、私は、追いかけてきてくれたこの友人に、心が救われたのです。