自分の正しさのために、誰かの間違いを指摘してはいけない。
結果的に、その誰かが否定されたと責めてくる時は、
その人は自分の過ちに気がついている証拠なのだ。
気がついているけれど、それを認められない証拠。
自分の信じてきた概念、解釈が歪んでいると気づいた時、
それを認めるには勇気がいる。痛みを伴う。
私は正しくない。正論を振りかざしたくない。
しかし、私の理論は正しくて、正論で、友人だと思っていたものを思いがけず傷つける。
彼等は己の心を守るために暴言を吐き捨てる。
哀れな生き物。ほとんどの人間はそうだ。
私が彼等に正しさを説けば、彼等は手のひらを返したように、私を排除するために動くだろう。なぜなら人は、嫌な現実から目を逸らす生き物なのだから。
私は必ずしも、自分が正しいとは思わない。
けれど、目の前で起こる事象の全てが、私の行動の正しさを裏付ける。
起こると思っていたことが、避けようとしても起こるのだから。私は自分の行動はコントロール出来ても、愚かな友人の行動をコントロールできるわけじゃない。
私は、友人が欲しいと望んだ。
必要もなければ欲しくもない友人を求めて、執着した。
彼らを守ろうと思った。
彼等は私がひとりぼっちでいたことなんて知らない。私は、彼等が思うより、彼等に執着し、大切にしていた。
彼等には隠していた。私のこれが、彼等にとって足枷になることを知っていた。
私は誰よりも自由だ。
ひとつの所に留まれない。
ただ、ほんの少し離れがたくて、守りたくて、執着してしまった。お別れの時が来た。
それだけの話。
10/4/2024, 4:23:22 PM