共存と両立

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去るもの追わず、来るもの拒まず、と言う言葉がある。

それの言葉の意味を考える。

これは主体的な言葉でしょうか?

「私たちは、来るものも拒みません、去るものは追いません」
そういうと、傲慢に聞こえる。

「私たちは、来るものを拒めません
(たとえ来て欲しくなくても)、
私たちは去るものも拒めません
(たとえここにいて欲しくても)」
そういうと、とても苦しく聞こえる。

そもそも、去るもの追わず、来るもの拒まず、という言葉は、私たち自身から生まれたものでは無い。言葉を作ってきた先人たちが、我々に言い伝え聞かせてきてくれた言葉だ。
それなのに、私たちはそれをさも自分から溢れてきた言葉のように扱う。

では、先人たちが言いたかったのは、
「来るものを拒んではいけません。
去るものを追ってはいけません」
ということなのでしょうか。

しかしそれも、来て欲しくない、追いかけたい、という己の自由に枷をかけることになってしまう。

来るもの拒まず、去るもの追わず。



私には、居心地のいい場所がありました。
そこに、一人の迷子が入ってきました。
やってきたその子を、私は拒みませんでした。
その子は私に懐いて慕ってくれたけれど、たまに癇癪を起こして暴れてしまいます。
私は耐えてきたけれど、ある日、手に負えなくなりました。居心地がいい場所が地獄のように感じられるようになっていることに気づきました。

そう思ったら、私はその場所から去らずには居られませんでした。その場所には、やってきた迷子以外にも、私の友人や仲間がいました。その人たちと離れるのは耐え難かったけれど、迷子が癇癪を起こすのは、私に対してだけだったのです。

私には行き場がありませんでした。
迷子になっていると、友人の一人が追いかけてきてくれました。

疲れたので、休んでいます、そういうと、友人は、そうですか、と言って離れていきました。私はそれを見送ってから、途方にくれました。

この中で、来るものを拒まず、去るもの追わずを実行出来ていたのは、友人以外の全ての人でした。
けれど、私は、追いかけてきてくれたこの友人に、心が救われたのです。






9/29/2024, 6:32:25 AM