人は他者を理解出来る生き物である。
しかし、そのような能力を持っているくせに、人は他者を理解しようとはしない。
他者を理解する前に、自分を理解出来ていないからだ。
しかし、誰かを理解すること、そして誰かを理解することは、人々の喜びでもある。
人しか持ちえない喜怒哀楽の感情表現は、いつだってその為に使われる。
だから人はしばしば、自分を理解して欲しくて癇癪を起こす。
そして、他人を理解したふりをする。
偽りの理解は軋轢を産む。
理解を偽る者は、大抵焦っている。
他者の心は手に入らないと、薄々わかっている時。
誰かを理解出来る能力が、自分にはない時。
喉から手が出るほどに欲しいと願っても、理解のための脳の容量が足りなければ、それは叶わない。
誰のせいでもない。
誰のせいでもないけれど、願いを叶えられなかった人間は心無い言葉を扱う。
まるで、壊れかけたテレビを叩いてなんとかまたその画面に映像を映させようとするかのように。
9/30/2024, 7:36:11 AM