共存と両立

Open App
9/28/2024, 3:14:58 AM

早く死にたい。
幸せになったら死にたく無くなるから幸せになりたくない。

死んだ時に誰かが喜んだり、悲しんだり、恨んだり、感情的になられるのは嫌だ。

一人で死にたいのに、人間の本能で、人の暖かい場所に引き寄せられてしまう。そこに執着してしまう。

人間の本能、
食欲、睡眠欲、性欲、すべて邪魔だ。

最後の砦は生存欲求。
私はきっと罪人だ。罪を償うまで死ぬことを許されない。
私が知るべきは罪の内容ではなく償いの内容だ。

私はもはや、文章を書くことしかできない。
きっとそれが償いなのだろう。

私が罪人ならば、賞賛されてはならない。
私が罪人ならば、他人への賞賛すらもおこがましい。

人の温かさは、もう求めない。

9/24/2024, 6:12:59 AM

あの時も、あの時もあの時も、
私は大切な何かを守りたかった。
だけど実際、それがなんだったのか、今でも分からない。

もしかしたら奇跡が起こるかもしれない、そう思って裏切られてきた。
この場所さえ守れば、その奇跡はいつだって起こり得ると、そう思って、雨の日も、風の日も、ひたすらその場所で待っていた。

傘を差しのべてくれる人は沢山居たけど、一緒に待ってくれる人は居なかった。

心配だから、もう待つのを辞めたら?と誰かがか言う。
待ってても無駄だよ、時間がもったいない、と誰かが言う。

何も言わずに私を見ている人もいた。呆れ果ててものも言えないのだろうか。

私はいつだって置いていかれる方でいる。
私は、それを自分で選んでいる。

必要なら突き放すことだってできる。

私はここから動かないけれど、誰かの枷にだってなりたくない。

私がいるから大丈夫。ほんとうは一人は寂しいけれど、誰かの帰る場所でありたい。
私にも帰る場所はあるけど、帰りたいと思えるわけじゃない。
それが酷く寒くて冷たくて、苦しかった。

行ってらっしゃいと、おかえりが言いたい。
私は、その言葉を、もう随分と聞いてない。
いいえ、聞いていたとしても、それは私の望む音ではなかった。

だって、そこは私の帰りたい場所じゃないのだから。







9/23/2024, 3:46:01 AM

優しい、という性質は手足と同じ。
ゆえに、優しさで苦しむ人に、優しくするのを止めなさいと言うのは、手足を失いなさいと言っているのと大差ない。

同じに、人の命を奪いたい、と思うこともまた性質である。
しかし、だからといって、実際にそれが出来るかどうかはまた千差万別の話。

なぜ殺したいのか?

理由があろうがなかろうが、人を殺したいと思った時点で罪を感じるものはいるし、
人を殺したあとでもなんら罪の意識が芽生えない人もいる。

優しさは善、そして人殺しは悪だ。

しかし、人殺しを庇う優しさは悪で、
優しい人間を守るための人殺しは……。
考え出すとキリが無い。

人の命を奪わないものは、人の命を奪える人間に常に狙われている。なにかきっかけがあろうものなら、彼らは悪びれなく他人の命を奪うだろう。

そして、そのきっかけは常にすぐ隣に存在している。
人は簡単に、悪意がなくとも、意識せずとも、人を傷つけられる。相手が悪ければ、いとも簡単に報復される。けれど、人は何故か、自分が強者だと思い込みたがる。自分は相手より上だとマウントをとる。
彼らはなぜ、自分がマウントを取れない人間などいないと思い込んでいるのだろうか?

それは、彼等の周りにいる人間が、優しいからだ。
優しい人間はマウントを取らない。
だから馬鹿が勘違いをする。

身を守るために、優しさを捨てなさい。

人は優しい人間にそう諭す。

しかし、そもそもの前提が違う。
優しさとは、自分と他人とで解釈が全く違うのだから。

人が優しいと評価しても、優しい人は誰かに優しくした覚えは無いものだ。覚えているのは見返りを求めている人間だけ。
ただ、見返りを欲しがることは、悪では無い。何かを得られるから、人から優しいと言われる行動や言動をとろうと思うのだ。
そしえ、それは自覚出来るものではない。
自覚しようとしても、疑問は消えない。

自分が優しい人間であるのだろうか?
これからも、誰かが優しいと思ってくれるような人間を演じるのだろうか?

疑問に思わないのだとしたら、それは優しさではない。

人殺しよりも罪深く、己の心を殺し、人を悪に陥れるだろう。



9/19/2024, 3:43:36 PM

死にたい死にたい。
そんなことを一晩中考えたって、死ぬ勇気は湧いてこない。

そのくせ、ごくたまにくる、楽しい嬉しいという感情を恥だと感じる。

それはおよそ死にたいやつが持っていていい感情じゃない。

相反する気持ちがぶつかり合って、私の情緒は萎んでいく。
死にたいも、生きたいも、楽しいも、悲しいも、何も感じたくない。その事柄について考えることは酷く疲れる。体力を奪われる。

部屋に引きこもって、そんなことばかり呟いていると、動いてないくせになにを馬鹿なことを、と私の頭に罵倒が流れる。
誰かにはっきり言われたわけじゃない。他の誰でもない、私自身がそう感じるのだ。

いっそ誰かに罵倒されたかった。
そうしたら、私のこの語彙を尽くして、百倍にして言い返してやれる。

けれど、実際私の中に言葉は生まれても、口から出ていくことはないのだろう。
私の言葉は、他の誰でもない、私自身にだけ響く。外に出る必要はない。もし、ここから出ていくことがあるとすれば、それは、私を理解してくれようとする人へ。私が理解して欲しいと思う人にだけ、届くのかもしれない。

本当に欲しいのは罵倒じゃない。
ただ、聞いて欲しいだけ。
私が今までどんなことを考えて、苦しんで来たのか。

どうして人は傷つけあうのか。
理解し合わないのか。

たったそれだけのことを、ひたすら悩み続けた。
小さなことだと笑うだろうか。
芽吹いた雑草の下、その地面に、幾重にも枝分かれした根がビッシリと張っている。若い芽を引き抜けば、簡単にちぎれてしまう細い細い根っこ。地面から完全には抜けていないことを、分からないとは言わせない。

けれど、みんな、見て見ぬふりをする。
雑草はまた生えてくる。引きちぎって解決?
いいえ、私はもう二度と、ここに雑草を生やしたくない。

そんな無駄な願いを、人はわがままだと呆れるだろう。
雑草だって命だなんて嘯いて。そのくせその靴裏で踏み潰していくくせに。私が大切に育てた花の苗との区別もつかぬのだろう。

私がそのことばかり考えている間に、ひとはみな幸せそうに笑って生きている。
羨ましいと思うこともあるけれど、ふと、考える。
幸せそうな笑顔の裏には、不幸はないのだろうか?

死にたいと考えてばかりの不幸な私でさえ、たまにみつける喜びについ口元が綻んでしまうというのに。

笑っている自覚をした瞬間、自戒する。
けれど、笑うことが許されないのは果たして私だけだろうか。

私を傷つけた人々は、まるで私の存在などなかったかのように笑っている。

彼らは自戒しない。
忘れた振りをしているのか、はたまた自分の記憶を改善しているのか。自分を許しているとは思えない。きっと彼等は地獄に落ちる。

では、私は?

死んだ先が地獄であると思わずに、私は死にたいと口にする。
死んだ先に地獄があると、疑っていないくせに。
自分はそこには行かないと思っている?
いいえ、地獄に落ちる可能性があるから、私は死にたくても死ぬ勇気が持てない。

けれど、地獄に落ちるだろう彼らと違って、自戒ができている私は、なぜ地獄に落ちるだろう。

喜びも受け入れられないこの世界こそが、もはや地獄であるはずで、それを理解出来てない彼らこそ、憐れに見える。

そうして、また無がやってくる。

ああ、死にたい。



9/12/2024, 10:19:04 AM

家族、友人、恋人。
その人たちとの関係を繋ぎ止める為に、我々はありとあらゆる手段を使う。

助け合い、奪い合い。

この体と、心と、知恵を使って、赤の他人と善悪の区別もつかないまま、共存、あるいは、依存している。

人とは、己の存在価値を見いだせないと生きていけない。
それは、人との関わりがなければ見つけることができない。

自分の価値は自分にしか分からないし、見つけられない。

けれど、人生にはしばしば、他人から価値を与えられることがある。

直接的な言葉と態度で、価値を伝えられることもあれば、
間接的な言葉と態度で、それが価値だと思わされることもある。

自分の価値が分からない、見つけられない人にとって、それは喉から手が出るほど価値のある答えだろう。

それで満足できるなら、それはどんなに幸せなことであろうか。

けれど、そうじゃないことがある。
他人に与えられた価値が、自分の求めていたものじゃない時。

自己が他人に求められること、認められることは重要だ。
出なければ我々は他人とコミュニケーションを取れる性質を持つ意味が無い。
善であり、悪であり、自分の存在を誰かに、世界に知らしめることには、この上ない快楽が発生する。

けれど、それが全てでは無い。
我々は、誰しもが完璧主義者だ。
ただ、完璧主義が己を追い込みすぎてしまうから、みんな5割、8割でも願いが叶っていれば、幸福を感じるようになる。

どのくらいの人間に、どのような自分を認められたいのか。

それは自分が探して、見つけだした答えか。

他人に歪められ、妥協したものではないのか。

どれか一欠片でもパズルがはまってなければ、それやがて大きな不満となって見を滅ぼすだろう。

そして、本当の価値を見出すことが出来たとしても、
他人の理解を得ることは容易ではない。

だけど、我々は地獄を見ようとも、より困難を選ぶだろう。
そして、地獄に耐えるために、それが困難であると認識するのを辞めるのだ。


Next