共存と両立

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優しい、という性質は手足と同じ。
ゆえに、優しさで苦しむ人に、優しくするのを止めなさいと言うのは、手足を失いなさいと言っているのと大差ない。

同じに、人の命を奪いたい、と思うこともまた性質である。
しかし、だからといって、実際にそれが出来るかどうかはまた千差万別の話。

なぜ殺したいのか?

理由があろうがなかろうが、人を殺したいと思った時点で罪を感じるものはいるし、
人を殺したあとでもなんら罪の意識が芽生えない人もいる。

優しさは善、そして人殺しは悪だ。

しかし、人殺しを庇う優しさは悪で、
優しい人間を守るための人殺しは……。
考え出すとキリが無い。

人の命を奪わないものは、人の命を奪える人間に常に狙われている。なにかきっかけがあろうものなら、彼らは悪びれなく他人の命を奪うだろう。

そして、そのきっかけは常にすぐ隣に存在している。
人は簡単に、悪意がなくとも、意識せずとも、人を傷つけられる。相手が悪ければ、いとも簡単に報復される。けれど、人は何故か、自分が強者だと思い込みたがる。自分は相手より上だとマウントをとる。
彼らはなぜ、自分がマウントを取れない人間などいないと思い込んでいるのだろうか?

それは、彼等の周りにいる人間が、優しいからだ。
優しい人間はマウントを取らない。
だから馬鹿が勘違いをする。

身を守るために、優しさを捨てなさい。

人は優しい人間にそう諭す。

しかし、そもそもの前提が違う。
優しさとは、自分と他人とで解釈が全く違うのだから。

人が優しいと評価しても、優しい人は誰かに優しくした覚えは無いものだ。覚えているのは見返りを求めている人間だけ。
ただ、見返りを欲しがることは、悪では無い。何かを得られるから、人から優しいと言われる行動や言動をとろうと思うのだ。
そしえ、それは自覚出来るものではない。
自覚しようとしても、疑問は消えない。

自分が優しい人間であるのだろうか?
これからも、誰かが優しいと思ってくれるような人間を演じるのだろうか?

疑問に思わないのだとしたら、それは優しさではない。

人殺しよりも罪深く、己の心を殺し、人を悪に陥れるだろう。



9/23/2024, 3:46:01 AM