死にたい死にたい。
そんなことを一晩中考えたって、死ぬ勇気は湧いてこない。
そのくせ、ごくたまにくる、楽しい嬉しいという感情を恥だと感じる。
それはおよそ死にたいやつが持っていていい感情じゃない。
相反する気持ちがぶつかり合って、私の情緒は萎んでいく。
死にたいも、生きたいも、楽しいも、悲しいも、何も感じたくない。その事柄について考えることは酷く疲れる。体力を奪われる。
部屋に引きこもって、そんなことばかり呟いていると、動いてないくせになにを馬鹿なことを、と私の頭に罵倒が流れる。
誰かにはっきり言われたわけじゃない。他の誰でもない、私自身がそう感じるのだ。
いっそ誰かに罵倒されたかった。
そうしたら、私のこの語彙を尽くして、百倍にして言い返してやれる。
けれど、実際私の中に言葉は生まれても、口から出ていくことはないのだろう。
私の言葉は、他の誰でもない、私自身にだけ響く。外に出る必要はない。もし、ここから出ていくことがあるとすれば、それは、私を理解してくれようとする人へ。私が理解して欲しいと思う人にだけ、届くのかもしれない。
本当に欲しいのは罵倒じゃない。
ただ、聞いて欲しいだけ。
私が今までどんなことを考えて、苦しんで来たのか。
どうして人は傷つけあうのか。
理解し合わないのか。
たったそれだけのことを、ひたすら悩み続けた。
小さなことだと笑うだろうか。
芽吹いた雑草の下、その地面に、幾重にも枝分かれした根がビッシリと張っている。若い芽を引き抜けば、簡単にちぎれてしまう細い細い根っこ。地面から完全には抜けていないことを、分からないとは言わせない。
けれど、みんな、見て見ぬふりをする。
雑草はまた生えてくる。引きちぎって解決?
いいえ、私はもう二度と、ここに雑草を生やしたくない。
そんな無駄な願いを、人はわがままだと呆れるだろう。
雑草だって命だなんて嘯いて。そのくせその靴裏で踏み潰していくくせに。私が大切に育てた花の苗との区別もつかぬのだろう。
私がそのことばかり考えている間に、ひとはみな幸せそうに笑って生きている。
羨ましいと思うこともあるけれど、ふと、考える。
幸せそうな笑顔の裏には、不幸はないのだろうか?
死にたいと考えてばかりの不幸な私でさえ、たまにみつける喜びについ口元が綻んでしまうというのに。
笑っている自覚をした瞬間、自戒する。
けれど、笑うことが許されないのは果たして私だけだろうか。
私を傷つけた人々は、まるで私の存在などなかったかのように笑っている。
彼らは自戒しない。
忘れた振りをしているのか、はたまた自分の記憶を改善しているのか。自分を許しているとは思えない。きっと彼等は地獄に落ちる。
では、私は?
死んだ先が地獄であると思わずに、私は死にたいと口にする。
死んだ先に地獄があると、疑っていないくせに。
自分はそこには行かないと思っている?
いいえ、地獄に落ちる可能性があるから、私は死にたくても死ぬ勇気が持てない。
けれど、地獄に落ちるだろう彼らと違って、自戒ができている私は、なぜ地獄に落ちるだろう。
喜びも受け入れられないこの世界こそが、もはや地獄であるはずで、それを理解出来てない彼らこそ、憐れに見える。
そうして、また無がやってくる。
ああ、死にたい。
9/19/2024, 3:43:36 PM