彼等は人の罪悪感を煽って他人をコントロールする。
それは大概、悪意を持って行われる。
だから我々は、マインドコントロールるから逃れた時、悪意あるその行為を呪うのだ。
しかし多くの場合、彼等は悪意なしに罪悪感を煽って他人をコントロールする。
彼らに他人をコントロールしている自覚は無い。
けれど元来罪悪感を覚えやすい精神状態の人間は、そんな彼等にコントロールされることを無意識下で望んでいる。
なぜなら、自発的な行動による罪悪感よりも、他発的な罪悪感のほうが、遥かに気が楽だからだ。
自責の念に苦しんでいるのなら尚更、他人のせいでこうなったという言い訳は救いである。
精神状態が悪いと、我々は楽な方に流されることを望んでしまう。
けれど、頭のいい我々人間は、彼等のマインドコントロールを受け入れたのは自分であることに気づくだろう。
その精神状態に自分を追い込んだのも自分である。
ただ、結局、自責に戻ってきてしまうのは、自我があるからだ。
自我、魂、心、意識。
自分は自分であり、自分だけのもの。
誰かにコントロールされたくないもの。
誰にも侵すことのできない領域。
ゆえに、我々は自分に原因を求める。
世界は自分が中心に回っていることは、誰にとってもそうである。
ならば自分の中に原因を求めるときは、別のところにも原因がある可能性を頭の隅に置いておくべきだ。
でなければ我々は、他人に操られた自我に飲み込まれる。最悪は、その事実から逃れるために自らの命を絶つことを選ぶ。
原因を究明出来ないとき、消去法で自分に原因があると思い込んでしまうのは、世界が自分中心に回っているからだ。
完成されたゲームをプレイして、行き詰まった時、我々は己が何を間違えていたのかを探し始める。
完璧な状態で提供されたものに、ミスがあるわけがないからだ。
しかし現実は、ゲームのように完璧ではない。
不完全な世界の中心に、我々はいる。
もし、ゲームの登場人物のように、全ての原因はおまえにあると言い切る人間が現れた時、その人間の中には自我がない。
己の中に原因を見つけることのできない愚か者。己が間違っているとしても、それを認めるどころか、知覚することができない哀れな存在。
その人間が、完璧な人間であるとすれば、その完璧な人間に間違いを指摘されることは、恐ろしいことだろう。
けれど、完璧な人間がいるとすれば、それはAIのような魂のない人間だ。なにひとつ間違えない完璧な人間はこの世に存在しない。存在するとするなら、彼らに言い訳や、情を訴えることは無駄である。
どちらにしても、彼らに自我は、魂は、心は、意識は、存在しないだろう。
つまり、彼らに気を使うのは無駄だということだ。
あなたも私も完璧では無い。
ならば原因はどこにあるか。
原因の追求は、人間が進歩するために必要な思考である。
二度と間違いを起こしてはならない事柄ならなおさら、
安易に自分のせい、他人のせいと決めつけることは愚かである。
わからない、その答えを相手と共有すること。
そして、自責の念に駆られるのなら、じぶんのどのようなところに原因があったのか、相手と意見を出し合うこと。
その時に、どちらに罪の比重があったのかと比べてはいけない。
私のほうが罪が軽い、重い。
相手のほうが罪が重い、軽い。
それを思っても口に出さないことが、思いやりだ。
間違ってもお前のせいだとは口にしてはいけない。
それは、自分の自我を、魂を、心を、意識を、放棄したのと同じこと。
果たしてコントロールされているのはどちらか。
罪悪感で人をコントロールする人間はいる。
けれど、それは必ずしも悪意を持った行動では無い。
彼らは己のコントロールを手放すことで、体の奥底に、己というものを閉じ込めて、厳重に守っている。
けれど、そこから出てくることはできるだろうか?
悪意があったとする方が正しく見えてくるほどに、彼等は我々が思うより重い、自責の念に駆られるだろう。
その地獄を乗り越えられる精神を持っているのなら、
最初から問題の原因を他人のせいになどしないのだから。
極悪人の罪すらも軽くなる世の中で、引きこもらざるを得なくなった私にどうやって罰を与えるつもりなの?
与えられるつもりでいるの?
ああ、与えようなんて意識すらしていないのだろう。
私の精神を追い詰めて、金さえ払えばなんとかなると思わせられたらおまえたちの勝ち。
だけど私には失うものはない。
命もお金ももういらない。
奪えるものがないところを執拗に脅迫したところで、おまえたちの罪が増えるだけ。私は、世界がそれらを正しく罪と認識できているのかを、ただ見ている。
誰も私の罪を説明できやしない。
なのに、誰もが私を悪だと言う。
しかし、私はどんなにこの世界が呪わしくても、行動を起こさなかったし、口を閉ざした。誰も救わない代わりに、誰も傷つけなかった。
行動してみようとしたし、救ってみようとしたけれど、
私が人のためになにかしたいと思い続けることは叶わなかった。私の出会う人々はみな私利私欲のために他人を利用したがるものばかり。
私の考えを否定し、無力な私を罪と断じるのなら、早々に死刑にしてみせて。私は自殺などする気は無いけれど、私を殺す罪をおまえたちに与えるだろう。
おまえたちが手を汚さないなら、おまえたちの代わりに手を汚した何者かには恨まれるだろう。
私を殺す者は、罪悪感で死ぬかもしれない。
語れない罪などないも同然。まともな人間なら罪の意識には耐えられない。
私が正しいと思う世界が、現実のものであるならば、滅びるのは誰か。
もう結末は決まっている。
私は殺されてもなお、おまえたちを呪う。それは私の意思とは関係なくプログラムされている。
私はすでに罰を受けている。
この世の全てが苦痛だから。
この世界が狂っていることで私腹を肥やしているおまえたちには、もうすぐ因果応報が訪れる。
私は言葉を扱う。
これは私が作ったものではなく、先人たちが作り出したもの。
最近の人間が、珍しい言葉を話したとて、それは先人たちが既に用意していたものを見つけただけのこと。
だけど私達はなぜか、まるで新しいものを発見したかのように、彼等の発した言葉を賞賛する。
どこかで聞いた事のあるような言葉であっても、そのことは誰も口にはしない。
人々が素晴らしいと賞賛する言葉を、私は空虚な思いで聞いている。
それを、誰かは嫉妬と呼ぶだろう。負け惜しみだというだろう。
そうかもしれないけれど、私はその言葉を聞きたくないから、口を閉ざす。あたかも、どこかで聞いた言葉を紡いで、賞賛されるのを望んでいるようで吐き気がする。
せっかく先人たちが作ってきた美しい音をした言葉たち。
それらは改良の余地が無いほどに完成されている。
にも関わらず、それを超えるどころか、人間はそれらを上手く使えない。
拙い言葉を振り回し、あろうことか他人に嘘を教え、騙す。
しかも人は、その言葉を簡単に信じた。
結果、疑心暗鬼に陥り、心を病み、自分の本当の言葉を忘れる。
愚かで愛しい人たち。
他人の言葉は、聞かなくていい。
疑うのは、自分の言葉。
自分が他人に発する言葉こそ、それは自分に向けられた真実の言葉。
他人を賞賛するなら、それは自分にも返ってくる。
他人を罵倒するなら、それは自分にも返ってくる。
すべてはそのバランス。
賞賛しかない人生は空虚で、罵倒しかない人生は哀れだ。
けれども、
そんな自分の発する言葉に誰かの言葉が返ってきた時
その時感じる喜びも、悲しみも、怒りも、全てが正しいものとなるだろう。
みんな嘘つき
助けてって言ったところで、そんな力なんてないくせに
酷い内容のニュースなんて見れなかった。
なんの罪のない人が無惨に殺されることや、人の命はおろか、尊厳も未来も全て奪ってもなにも感じない人間がいる。
その存在全てが受け入れられず、気分が悪くなるからだ。
目を背けた先にいたのは、善人の皮を被った、自分のことしか考えられない人々。
一目では、彼らは酷く親切な人に見えたけれど、結局は心無いことを隠しているだけで、凶悪な人間と変わらない心を持っていた。
全ての利己的な人間は、可哀想な生い立ちを経験していた。
未熟な人間の元に生まれた彼等の心は育たない。
けれど育たなかった人生の経験は恐らく魂に刻まれる。
そして、罪を犯してしまったことの因果は精算しなければならない。
人間の司法は、彼らに正しい罰を与えることが出来ない。
だから次に生を受けた時には惨たらしく死ぬ運命が用意されている。
これが、なんの罪もない人が無惨に殺される理由だ。
だれも、この世界を変えられない。
人間が未熟なばかりに、地獄は今も、世界中で現世に顕現している。
私はそれを理解したところで、ただ見ているだけ。
一人、それは間違いだと声をあげたところで、馬鹿にされて終わる。
お金も権力も持たない私の言葉は、どれだけ研鑽を繰り返しても、誰にも届かない。なんて無力。
そんな私は、大した病気も、事故も、怪我もない。放置されても生き延びれる程度の出来事。
物心つく前にあったとしても、私にはその記憶はほとんどない。
今も、大した病気もかからず、部屋に閉じこもっている私は、事故も怪我もない。家に強盗でも来ないかだけビクビクと怯えている。