芽吹きのとき
むずむず、そわそわ、うずうず。最近どうにも落ち着かない。
ずっと冷たかった頭の上の方が、なんだかじんわりとあたたかいんだ。
周りの生き物たちも、ガサゴソとせわしなく何かの準備を始めている。
その時、遠くから誰かの話し声が聞こえた。
もうすぐだね
いよいよだね
たのしみだね
そして僕は理解した。
芽吹きのときが来たらしい。
僕は嫌だな、と思った。
だって怖いんだもの。
うわさによると、外の世界はすごく広くて明るくて、危険もいっぱいなんだって。
ここは確かに暗いけど安全で、いつだって僕を包み込んでくれるのに。
だけど日が経つごとにあたたかさは増して、それにつられるように僕の体は上へ上へと伸びていった。
下手くそなうぐいすがケキョ、と鳴いたある朝。ついにその時は来た。
頭の先が何かを突き破るような感覚。そして
──まぶしい!!
衝撃とともに、僕は初めて外の世界に出た。
心地よい風が「ようこそ」と僕を撫でながら吹き抜けていく。
外の世界は明るくて、広くて。
空気が気持ちよくて、朝露が色々な場所でキラキラと光っていて、美しかった。
本当に美しかった。
気付けば二本足の大きな生き物が近くに来て、僕をじっと見て、
「ああ、もう出てきたのか。春だね」
僕のことを春と呼んだ。
7年前の今日に、娘を産んだ。
妊娠も出産も、人より順調にいかないタイプの私には、正直苦しくて痛くて辛いばっかりの思い出だ。
あの日のお天気だとか空の色だとかも、全然覚えていない。
手術室から病室へ戻りわけがわからないまま腕に抱いた娘は、ぐんにゃりとしてほかほかと温かくしかし弱々しく、落としてしまわないか、ちゃんと息をしているのか、ただただ不安だった。
気付けばあの日の温もりが家中を走り回り、文字を読んだり、ピアノを弾いたりしている。不思議なものだ。
喉元過ぎればなんとやら、にはならないし、生まれてきてくれてありがとう、みたいな感傷にひたるタイプでもないけれど。
今からハンバーグを作って、ケーキに飾り付けをするのだ。
春の日差しが、今日を寿いでいる。
cute!
かわいいね!その一言が言えなくて僕は唇を
噛み締めた。
青い浴衣姿のあの子は、いつもの部活のジャージ姿とは別人みたいだ。
「いやマジでかわいいね!」
隣で僕が言いたかった言葉をいとも簡単に口に出来る友人が羨ましい、いや妬ましい。
「かわいいってさ、君達この間スポンジボブがかわいいって言ってなかった?そういう意味の方でしょ」
「違うって!So cute!の方だって!」
「どうだかなあ(笑)」
そんな風に楽しそうにやり取りする二人を、曖昧に笑って見ているしか出来なかった。
君と花火が綺麗だった、18の夏。
私たちは記録していく。
子どもの丸い頬を、ぐんにゃりと溶けたポーズの猫を、芸術品のようなパフェを、帰り道に山を赤く照らした夕焼けを。
カメラで、スマホで、SNSに綴る言葉で、なんとか残そうと毎日足掻いている。
そんなのはとても儚いものなのに。
データが壊れたら、アカウントが凍結されたら、SNSを辞めたら途端に全て消えてしまうものなのに。
まるで一夜の夢のよう。
まるで空を吹き抜けていく風のよう。
だけど、私たちはやめられないのだ。
写真に撮り、文字で綴ることを。
何故?──それはきっと。
一瞬の夢が、時には心の支えになることを知っているから。
吹き抜ける風が飛ばした種が、どこかで芽吹くことを知っているから。
今日も私たちは記録していく。
子どもの言い間違いを、毛布と一体化した猫を、いい色に揚がった唐揚げを、空に落書きしたみたいなかすれた雲を。
膨大な記録に背中を押されながら、人生を歩いていく。
さぁ冒険だ
海を前にして、そのあまりの大きさに呆然としたことはないだろうか。
私はある。エネルギーが押し寄せるような波の動きに飲まれ、どんなに目を凝らしても向こうが見えないスケール感に畏怖し、毎回呆然と立ちすくんでしまう。
そしてその度に、人間にとってはあまりに広大な海へと繰り出した、かつての冒険者たちに想いを馳せるのだ。
冒険者──それらはたとえば遣隋使だとかヴァスコダガマだとか、教科書に載っていたり偉人と呼ばれるような人物に限らない。
人類の歴史の記されるずっと前から、あそこに見える島へと渡ってみよう、その先にも何かがあるかを見てみよう、更にその果ての海の向こうへと、小さな船で漕ぎ出した市井の人々がたくさん、私が想像するよりもはるかにたくさんいるはずなのだ。
エンジンもない、地図も羅針盤もない時代の航海。きっと多くの船と人が海に沈んだのだろう。
それでもそのような人々がいたから繋がった歴史や文化がきっとある。
海を前に立つ。計り知れない質量に飲み込まれそうで私は呆然と立ちすくむ。
海は大き過ぎて怖い。
そんな臆病な私の耳に、波の音、海風の音に紛れてかつての冒険者たちの声が聞こえる気がした。
「さぁ冒険だ」と。