あなたは私を打った。成人の角ばった大きな手で、私の頭など一掴みにできるような手で、私の頬を目一杯打った。その表情はとても人に暴力を働くようなものではなく、凪ぎ、静かな海さえ思わせる。薄い唇は浅く弧を描き、優しげな少し垂れた目は、安穏を思わせる青だ。
そしてあなたは私の腹を殴った。私の喉は滑稽な音を立て、男性の膂力に怯えた腹から胃液が逆流する。饐えた臭いが鼻をつき、口と鼻から痛みを伴い逆流した液体が流れ出す。肋骨が折れたようで、肉に刺さるような強い痛みを感じ、のたうちまわり、私はベッドの上で汚く呻き声を出した。
私は分かっている。あなたはそれを許さない。私の汚い声を許さない。勿論あなたは私の口を片手で塞ぎ、もう一度、腹に拳を叩きつけた。
残り滓のような胃液が手の隙間から溢れ出し、出てこれなかったものが喉に戻る。生理的嫌悪を齎すその痛みと胸糞悪さがまた嘔吐を誘ったが、私はそれを喉奥でぐ、と堪えた。また嘔吐すれば、手から耐えきれない呻きがこぼれるだろう。
あなたは満足げな様子も、不満げな様子も見せないけれど、やはりあなたはそれに多少の満足を覚えているのだろう。この行為全てが、私とあなたの愛を証明するものだから。
あなたがやはり微笑みかけるので、頬の痛みも口の裂傷も、舌の気色悪さも喉奥の吐き気も全て構わなくなってしまって、私はそれに微笑み返したのだった。
【細君が語ること】
わたしは、母親でした。あの子の母親で、あの人の細君でした。わたしがあの人の隣で小さなあの子を胸に抱いた時、それは覆らぬ、不動のものであると、信じておりました。
ですけれど、それは思い込みに過ぎなかった。
あの人はあの子を愛していたはずでした。毎年、誕生日には大輪の花を送り、美しい衣服を送り、額にキスを送り、そして愛を送りました。
だというのに、あの子が物心つき、その聡明さが露わになり、わたしも家の者も皆喜ぶその中で、あの2人だけは違ったようでした。
ええ、あの子は恐ろしいほどに聡明でした。その聡明さは、わたしの想定を遥かに超えたもので——ある日、あの子の声が、あの人の部屋から聞こえてきたのです。しかも、それは苦痛に耐えかねたような、悲惨な声でした。
わたしは驚きました。何かの間違いではないかと、そう思って、何日もずっと、時間があればあの人の部屋に耳をそばだてていました。
それでも、あの子は夜になるとあの人の部屋に入り、その中で悲惨に声を上げるのです。
そうして、あの人の暴力が明らかになったその後で、わたしはどうするべきなのか、何もわからなくなってしまった。わたしがこれを誰かに言えば、あの子の苦しみは無くなるのかもしれないけれど、それは家族を壊すのです。あの人はいつもあの子に優しかったから、どうしてもその暴虐が信じられなかったのです。
幾日も幾日も迷いました。だけれど、あの子を腕に抱いた時の暖かさを思えば、わたしはいくらでも、勇気が出る気がしたのです。あの子を守ることこそ、わたしの全てだと。
でも……でも、それは……それでさえもわたしの思い違いで。
あの子を守るなどと息巻いて、あの部屋の扉を開けたわたしは、あの悲惨な光景を見て悲鳴をあげそうになって、それで堪えて。傷だらけのあの子に駆け寄ったのです。だけれどあの子は、わたしを不思議そうに見て、にこりと微笑みさえしました。
「お母様、お母様の目には少し毒でしょう。血は、恐ろしいですもの。ああ、これもお母様に悟らせてしまった私がいけませんね。だけれどお母様、ご安心くださいませ。お母様を怯えさせることなど、明日からはありません。もっと静かに、お母様にご迷惑などおかけしません」
わたしは恐ろしかった。あの子の目は、まるで誕生日を祝ってもらった時のような嬉しさに光をたたえ、嘘偽りなど一つもないような声色で、わたしにそう言ったのです。あの子の背後にいたあの人も、その瞳に獣の如き暴力性など一つも宿さず、ただ穏やかな目で、あの子を見つめていたのです。わたしを詰るわけでも、そも敵意を見せるわけでもない。その間に辛苦など一つもない。
だからわたしは、逃げ出しました。そのあまりの恐ろしさに、言葉さえ失って。
今でもわたしは忘れられません。あそこに漂っていた異常。あの暴虐を受けてなお、あの2人は互いのことだけしか見えていなかった。“私だけ”と、そう言っていた。
わたしはそれが、今でも恐ろしくてならないのです。
思えばあなたは、昔から難しい言葉を使う人でした。片田舎の、辺鄙な村に住んでいた私が、王国の使者から勇者だと告げられた時も、あなたがスキルなしの無能であると詰られた時も、あなたは不思議なことに落ち着いて、全てを分かっていたかのような顔をしていたものです。もうずいぶん前のことだわ。
私は昔からの幼馴染のあなたと無理矢理引き離されて、国のために戦えなどと言われて剣をふるい、何匹もの魔物を殺しました。剣が獣の首元に入り込み、血を伴い肉と骨を断つ時までも、私はずっとあなたのことを考えていた。なのにあなたはいつまで経っても私の元には姿を現しませんでしたね。そのことを少し、私は恨んでいます。
私があの村を離れる時、あなたにあげたペンダント。本当はその時に返して欲しかったのです。いつも難しい言葉を冷静な顔で話しては、私より一歩前に立っていたあなた。あなたがどこかに行ってしまったら私は進むべき道もわからなくなってしまいます。だからあなたのことを繋ぎ止めようと私は、あのペンダントを返せと言ったのです。次に会う時に、必ず返せと。
なのにあなたは、期待する少女の心をほっといたままでなんの音沙汰もなしで、結局ペンダントを渡す意味もなかった。
あなたはやっぱり、これを予期していたのでしょうか?そうなら、私はまたしもあなたを恨むことしかできない。私の血に染まった両手が、一生私の心から離れないだろうこと、あなたは知っていたのでしょうか。
これが最後の戦いだと挑んだ勝負。そして、私の聖剣が断ち切った首。その首からこぼれ落ちた、ロケットペンダント。
私とあなたの遠い記憶が詰まったペンダント。何故こうなってしまったのか、わからないけれど、私は恨むしかない。あなたを殺してしまった私を。
「君ってやつはしょうがないやつだなあ」
失礼な。あれが最善だったと思うが?
「どこが最善なんだ。彼女、一生引き摺るぜ?」
そんなことあるものか。最後に会ったのも、もう10年も前の話だ。忘れているだろうさ。
「いやいや、鈍いというのもここまで来ると酷いもんだ。君をそんな馬鹿だと思って転生させてやったわけじゃないんだがな」
させてやった、か。お前が勝手にやったことだ。確かにありがたく乗じさせてはもらったが。
「僕はね、君を助けてやるためにこんなことまでしたんだけど。あの勇者の小娘を助けてやれなかったとか言って自殺したのだから、もいっかいやり直せば彼女も助けて君も生存すると思ったんだぞ」
仕方ない。魔王を倒したらそいつが次の魔王になるだとか馬鹿な話にあいつが巻き込まれないためには、先に俺がなるしかない。それができたのはあの魔王だけで、俺が成り代わればそんなことは起こらないんだから。
「だからって彼女に倒させてどうする。そうならない道もあったんじゃないのか」
それが一番効率的だったんだ。
「……………………はー………………」
なんだその長い間は。ため息は。
「仕方ないな。もう一回やり直し。今度は幸せになってこい」
はあ!?ま、待て、さっきのもかなり苦労したんだ。もう一回なんて————
「やだね。やってきな。うまく行ったら僕も呼べばいい」
うわ、穴!?どこに繋がって……ぎゃぁああああああああ………
「……ふう、全くどうしようもない馬鹿。僕が神様になってもこの有様。どうすればいいんだ一体。神様に生まれ変わるのだって一筋縄じゃないんだぞ。ていうかめちゃくちゃ大変だったのに」
「制約を課して無理矢理神様になった身だから、あいつだけにしか干渉できないのも面倒な話だね。それでも、ほとんど不老不死の身で人智を超えたことができるこの身はありがたい……」
「あーあ、あっちの私が羨ましいよ、あいつにあそこまで想ってもらえるなんて。僕なんて正体すら気付かれないままかれこれ数千年はここにいるんだぞ」
「いつまで続くんだろうな、こんなことも。この変な口調にも慣れてしまって。前の面影全くなしだ」
「私、いつまでペンダントを待ってればいいの?辛いわね、恋する少女って」
「君は、何がしたかった」
それは、あんまり大声ではなかった。街の中でそんな声をあげても、本当はきっと誰も気付きはしない。だけれど今日は全てが違って、その街は喧騒を全て取り払い、静寂にその ビル群を全て浸からせていた。
そして、彼の声に少女は振り向く。……否、それは性別などという概念は超越している。他のなにものよりも美しく、美しいという言葉を脳に直接語りかける。
それは返事を返さない。ただ、そこに在るのみである。
彼はその存在の詳細を知らぬ。ただ、それは全てを超越した上位体であり、人智の及ぶものではないことだけを理解している。
「世界は終わるんだろう。君の手で」
また彼は続ける。やはりそいつは答えないのだが、彼はその姿からひとときも目を離すことはなく、ただ見つめるのみである。
空に雲はなく、気持ちのいいほどの快晴で、その空の下においておそらく人類はすでに彼しかいない。それは錯覚なのかもしれなかったが、少なくともこの街にはもう人はいないのだ。
「錯覚ではありません」
ああ、心まで読めるのか。彼はうんざりして息を吐く。
いいやそれは、本当は大した問題ではない。問題は何故彼だけが生きているのかだった。
彼は鬱鬱とした男であった。安アパートで日々を過ごし、薄い壁の向こうから聞こえるアベックの声に苛立ちを覚えた。仕事はもちろん安月給で、色んな費用を切り詰め、なけなしの貯金をした。彼はその人生に飽き飽きとして、世界が終わればいいのにと考えていた。
だから、世界が終わるのならば自身も一緒になくなって仕舞えばいい。なのにこうして1人、誰もいない伽藍堂の庭で放たれ、行く先を失っている。
「君はこの世界に選ばれました」
そいつは続ける。
「人類は地球を滅ぼします。それを憂いた星は新たに再編することをお決めになりました」
そう言った途端、囲まれていたビル群は全て消え去る。地面に敷かれていたアスファルトは消失していき、彼の足元に湿りが現れる。その湿りはだんだん度を増していき、ついにはそこに水が満ちた。
何もなくなったそこに、水のみが姿を現した。
「あなたはアダム」
ならばそいつはイブだとでもいうのか。男は膝をつく。ならば自分は消えられないではないか。
「アダムとイブで世界を再編しましょうか」
そいつはそこで初めて、微笑んでみせた。
小太郎は、その名の通り子供であるからか体躯が小さく、すばしっこい子供であった。そのくせ力は異様に強く、彼に掴まれればどんなものも逃げ出すことは叶わなかった。そして彼は他に慈悲をほとんどかけることなどなく、他も彼に慈悲をかけることはなかった。おそらく、世界でさえも。
彼に慈悲をかけたのは、親なしである小太郎を拾い育てた物好きの爺だけであった。それも、数年前に遠くの場所へお別れをしてしまったけれど。
その怪力で、そして慈悲を見せぬ氷の如き顔で彼は傷つけられもせぬ、しかし近寄られもせぬ、住んでいる村でも特異なモノになってしまった。
彼は、人を求めていた。
人の体温を知らぬわけではない。しわがれた声、しわくちゃの手を、自分より低いその体温を失っていても、彼は覚えているのだから、それを求めることなど人間に当然の欲求であった。
しかし彼は、それを村の人々に求めない。村の人々は、小太郎が一度近づけば大袈裟に怯えてみせ、話しかければ心底嫌悪を顔に浮かべた。
だから小太郎は、その温もりの希望を、海に求める。村すぐ近くの森に入って、誰も気づかない目印の近く、そこにある隠し道を通って歩く。するとそこに、延々と青が広がっているのだ。それを美しいと思うことはないのだけれど、目に見えてわかるその広大さは、彼に一縷の望みを抱かせる。この青はいつか、小太郎に温もりをもたらすかもしれないと。
彼は砂辺に座り込み、今日も空と海の狭間を見つめる。何者かが運ばれてこないのかと。それが体温を持つ、生き物であれば良いのに。
その祈りが通じたのであろうか、ゆっくりと、何かの声を伴い、小舟が横から流れてきた。小太郎は目を凝らし、その舟を見る。
人の声。その小舟には、2人、人が乗っている。見覚えがあった。珍しいが、村の人間であった。
随分と賑やかに騒いでいる。小太郎にはその感覚はわからぬが、友人同士の掛け合いだとか、日常の気兼ねない会話だろうか?
——あ、……ああ……んだ
——……だ、も……!、!
違う。小太郎は認識を改める。それは掛け合いなどと楽しいものではない。この声は、悲鳴だ。ぎゃあと何かに怯える声。それも、生半可なものではない。命の危機が目の前に示され、顔も背けられぬような、そんなおそろしい声。
小太郎はじっとそれを見る。至って冷静である彼は、それを助けに行こうともかえって自分諸共死に行くものだと気づいていた。しかし、一体何がその2人の命を奪おうとして 。
「!」
海面から、ぬろりと手が出てくる。なまっちろく、ほっそりとした手だ。それが小舟の縁を掴んだ。2人はそれを見てさらに大きく悲鳴をあげ、その手を無理矢理にでも引き剥がそうとし、……しかし、その前に小舟が大きな揺れを伴って、転覆した。
それは全く持って奇妙な光景であった。女のような手が一本、それだけで2人乗った小舟をひっくり返した。その上、その手は未だ小太郎の前にその正体を見せていない。もう、小太郎がその一連を見始めてから十分は優に過ぎているというのに。
小太郎はじっと、小舟のみが残された海面を見続けた。彼の胸には密かな確信がある。これは、自身の何かを決定的に変えうるものであると。
そうして数分が過ぎ、海面が少し揺らいでから——その青に、血が混じった。その血は次第に広がり、大きく円をなす。
そうしてそいつは現れた。
なまっちろい手は、否その姿は血に塗れていたが、それを全て帳消しにしても良いほど美しい姿。長い黒髪は濡れてしっとりとしている。腰はなだらかな曲線を描き引き締まっている。その腰からは、そう、それは人のものではない。
魚だ。鈍い七色の鱗が光を弾き眩しく輝く。その全容は伺えないが、そのヒレは一部見ただけでも相当大きなものだと分かった。
そいつは海面から一瞬飛び出し、空中で舞ったかと思うと……そのまま海面へと身を潜らせ、もう出てくることはなかった。
小太郎はそいつが消えた海面をやはり見つめ、心に決める。次は捥いでやろう。あの白い手、足、ヒレ、鱗、なんでも良い。あの化生を次見た時は、その体の一部をちぎり、自分のものとしてやろう。それは小太郎の孤独を癒すはずだ。あの美しい生き物は、小太郎を癒すはずだと、小太郎は反復して考えた。
これまでずっと培ってきた何かがぶっ壊れた。それは、浜辺に作られた城が、波にさらわれただの砂の山となるような、悲惨な結末であった。
そして、私の目の前にあるそれは、崩れた砂上の城のように、原型を留めていない。波にさらされたじっとりとした砂のように、そいつを触るとじとりと不快さを運ぶ触感がした。両手で持ってぎゅうと絞ったら、一体床にはどれほど液の溜まりができるだろうか。想像するだけで私はきゅうと喉の奥が閉まる心地になる。
どうするべきか悩んでいた。私は悪くない。そいつは足を滑らせたのか、手を挟み込んだのか、勝手に機械の中に飲み込まれ、挟み込まれ、潰され、こうしてじっとり濡れる羽目になったというのだ。安賃金でこんな工場でやりたくもない仕事をやって、それでも慣れてきたと言うのに、私はそいつを目の前にしてどうすれば良いのか悩みに悩んでいるのだった。
何とは言わないけれど飛び散った破片は惨状をありありと描いているのだが、私はそれでも頭の中に途方もないような危機感を抱いた。それは全く杞憂というやつだろうが、私はどうにも心配性だった。
「こいつを私のせいだとでも疑われたら、最悪」
つまるところはそういうコト。やはり人は自分の身に最も重きを置く生き物なのである。
「うぅむ」
やはりこれまで培ってきた何かが壊れたのだろうか?以前の自分(というか数分前の自分だ)であればもっと違う反応を示したに違いない。
「ま、仕方ないか」
しばらくの逡巡はその一言で幕を閉じる。諦めも、また人間に与えられた権利の一つであるので。とりあえず何を呼ぶか、警察か、先輩か、部門長か、社長か?いや、どうせ全員出張るのか。それなら、一番最初に目についた人で。
そうして逡巡の割に簡潔に決めて、私はとりあえず移動する。誰かに報告したらたちまちこの悲劇に大騒ぎだ。私もこの事件で気分は良くない。
「あーあ、私が殺したかったな」
もしそうしたら悲劇は多分惨劇に早変わりだったろうな。