あやや

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 小太郎は、その名の通り子供であるからか体躯が小さく、すばしっこい子供であった。そのくせ力は異様に強く、彼に掴まれればどんなものも逃げ出すことは叶わなかった。そして彼は他に慈悲をほとんどかけることなどなく、他も彼に慈悲をかけることはなかった。おそらく、世界でさえも。
 彼に慈悲をかけたのは、親なしである小太郎を拾い育てた物好きの爺だけであった。それも、数年前に遠くの場所へお別れをしてしまったけれど。
 その怪力で、そして慈悲を見せぬ氷の如き顔で彼は傷つけられもせぬ、しかし近寄られもせぬ、住んでいる村でも特異なモノになってしまった。

 彼は、人を求めていた。

 人の体温を知らぬわけではない。しわがれた声、しわくちゃの手を、自分より低いその体温を失っていても、彼は覚えているのだから、それを求めることなど人間に当然の欲求であった。
 しかし彼は、それを村の人々に求めない。村の人々は、小太郎が一度近づけば大袈裟に怯えてみせ、話しかければ心底嫌悪を顔に浮かべた。
 だから小太郎は、その温もりの希望を、海に求める。村すぐ近くの森に入って、誰も気づかない目印の近く、そこにある隠し道を通って歩く。するとそこに、延々と青が広がっているのだ。それを美しいと思うことはないのだけれど、目に見えてわかるその広大さは、彼に一縷の望みを抱かせる。この青はいつか、小太郎に温もりをもたらすかもしれないと。
 彼は砂辺に座り込み、今日も空と海の狭間を見つめる。何者かが運ばれてこないのかと。それが体温を持つ、生き物であれば良いのに。
 その祈りが通じたのであろうか、ゆっくりと、何かの声を伴い、小舟が横から流れてきた。小太郎は目を凝らし、その舟を見る。
 人の声。その小舟には、2人、人が乗っている。見覚えがあった。珍しいが、村の人間であった。
 随分と賑やかに騒いでいる。小太郎にはその感覚はわからぬが、友人同士の掛け合いだとか、日常の気兼ねない会話だろうか?

——あ、……ああ……んだ
——……だ、も……!、!

 違う。小太郎は認識を改める。それは掛け合いなどと楽しいものではない。この声は、悲鳴だ。ぎゃあと何かに怯える声。それも、生半可なものではない。命の危機が目の前に示され、顔も背けられぬような、そんなおそろしい声。
 小太郎はじっとそれを見る。至って冷静である彼は、それを助けに行こうともかえって自分諸共死に行くものだと気づいていた。しかし、一体何がその2人の命を奪おうとして 。
「!」
 海面から、ぬろりと手が出てくる。なまっちろく、ほっそりとした手だ。それが小舟の縁を掴んだ。2人はそれを見てさらに大きく悲鳴をあげ、その手を無理矢理にでも引き剥がそうとし、……しかし、その前に小舟が大きな揺れを伴って、転覆した。
 それは全く持って奇妙な光景であった。女のような手が一本、それだけで2人乗った小舟をひっくり返した。その上、その手は未だ小太郎の前にその正体を見せていない。もう、小太郎がその一連を見始めてから十分は優に過ぎているというのに。
 小太郎はじっと、小舟のみが残された海面を見続けた。彼の胸には密かな確信がある。これは、自身の何かを決定的に変えうるものであると。
 そうして数分が過ぎ、海面が少し揺らいでから——その青に、血が混じった。その血は次第に広がり、大きく円をなす。
 そうしてそいつは現れた。
 なまっちろい手は、否その姿は血に塗れていたが、それを全て帳消しにしても良いほど美しい姿。長い黒髪は濡れてしっとりとしている。腰はなだらかな曲線を描き引き締まっている。その腰からは、そう、それは人のものではない。
 魚だ。鈍い七色の鱗が光を弾き眩しく輝く。その全容は伺えないが、そのヒレは一部見ただけでも相当大きなものだと分かった。
 そいつは海面から一瞬飛び出し、空中で舞ったかと思うと……そのまま海面へと身を潜らせ、もう出てくることはなかった。

 小太郎はそいつが消えた海面をやはり見つめ、心に決める。次は捥いでやろう。あの白い手、足、ヒレ、鱗、なんでも良い。あの化生を次見た時は、その体の一部をちぎり、自分のものとしてやろう。それは小太郎の孤独を癒すはずだ。あの美しい生き物は、小太郎を癒すはずだと、小太郎は反復して考えた。


7/15/2023, 8:00:40 AM