夢を見ている。曖昧な視界、意識のなか、色彩が混じり溶けて、そして分離する。その色彩は情景を映し出し、記憶にあるようなものの形を取ってみせる。
それを彼は、疑問も抱かず見つめ、揺蕩っている。
ぼやけた視界は次第に形を取り戻し、描かれた風景は名称のある物に変化していく。音が聞こえる、そんな勘違いとも事実ともつかぬことを考え、彼はまっすぐ前を見据えた。
「君がここに来るのも何回目かな」
そうして少女が現れた。色彩はプラチナブロンドに変わり、白に限りなく近い肌色の上に立ち現れ、靡いている。肌色の上には何色もの青を散りばめた丸が二つ現れ、長い睫毛がそれを縁取る。細くひかれた線は弧を描き、笑う。理想的に舞う水色が彼女の体を覆い、それは腰を引き絞ったワンピースとして形を成す。そして汚れひとつない白が足に覆い被さり、硬質な音を立てるパンプスへと生まれ変わった。
それは、彼の理想の造形。理想を模す少女。
「来ているんじゃない。お前が現れ、俺は元々からここにいる。そうだろう?ここは俺の夢なんだから」
「君も頑なだね。来ているのさ、私の居場所に。ここは君の夢じゃあない」
鼻を鳴らして彼女が言う。これはいつものやりとりだ。凡そ一年ほど前から毎晩、彼女と彼は色彩取り巻く夢の中で出会う。その最初のやり取りから以来、彼らは毎度この夢の所有権を主張しあっては、馬鹿らしさに結局一瞬の沈黙が湧く。
今のこれも、その沈黙だ。色彩は騒がしいが、2人が口を閉じれば聴覚は何をも拾うことはない。
「で?今日はなぜこんなお昼間に。まだ授業中なんじゃあないのかな?」
そして、やはりその沈黙は一瞬のものでしかない。彼女はそう問いかけると、にまりといやらしい笑みを浮かべる。その目はこう言いたげだ。“おやおや、君はおサボりさんかな?”
「お前が思っているのとは違うな。今日は単なる病欠だ」
「君ほどの優等生が珍しいね」
「それは関係ないだろ」
別に免疫が強いわけでもない彼は、流行風邪にうっかりかかってしまったので、今日は昼から床に伏せている。彼はそれを聞いてなお面白がる少女を嫌そうに見て、ふいと顔を背けた。
「そうか、もしかしたらお目当てのあの子も来ていたかもしれないよ?」
「……そうなったら悔やんでも悔やみきれないかもな……」
「いやあ、君のその執着もある意味恐ろしいね。なんだっけ?入学式で新入生代表挨拶の代理をやらされたんだったか、」
——君が。
口端がまた吊り上がった。彼は少女の性格の悪さを痛感しながら、彼女が提示した可能性に対して思いを巡らせる。
彼は、自身の頭脳に自信がある。それを裏付ける実力も、事実ある。だから彼は、あの入学式の日、内心怒りを覚えながら壇上に上がった。新入生代表挨拶をやるべき主席は紛れもなく“あの子”であり、しかしその当人といえば大病で床に伏せる身であり、そして2位だったらしい彼はその挨拶を押し付けられた。
「君はその子に会って、何を言うつもりなんだ?不思議だね、私だったら会いたくないよ」
その言葉に、彼は少々言葉を選ぶ。逡巡し、数秒黙ってから答えを返す。
「俺は……負けっぱなしは嫌なんだ。だから次会ったら、次は勝つと言ってやる。そして病院にでも家にでも無理矢理試験を届けに行って、堂々と勝ってやるのさ」
「……君な。多分その子、入院生活なら勉強なんて碌にできないだろ」
「いいや、きっとやってるさ」
あまりにも自信たっぷりだ。彼は自信たっぷりに言葉を紡いで、色彩の中に寝転がった。
「その心は?」
謎かけでもやるように彼女は尋ねる。その口元はもう弧を描いておらず、目に疑問を露わにするのみだった。
「俺に勝ったんだ。入院してようがなんだろうがやるぐらいの勉強バカじゃないと無理」
「……はぁー……君はなんと言うか、たまに馬鹿だな」
馬鹿!?そう言いたげに目を吊り上げ、彼はその言葉に食ってかかろうとした。
しかし、その顔が一瞬歪み、ああ仕方ないなと言うふうにため息を吐く。
「おや、行くのかな?」
「病人の眠りは浅いんだよ」
彼は寝転がっていたのを立ち上がった。起きれば水でも飲んで、その時には体調が良くなっていればいい。どうせお腹はすかないのだけれど、食べなければ治るものも治らないというし、それを思うと少し億劫だ。彼は頭をかくと、彼女を振り返り、「またな」と告げる。
目が覚める時は、夢に入る時の感覚を遡ったように、だんだん曖昧になっていく。彼の視界の色彩は混じり、しかしながら汚い色にはならない。手を振る彼女の顔も、目も体も衣服も全て色彩に変換され、くちゃりと混ざる。
目を覚ますと————
彼は色彩に混ざり、溶けて消えていった。彼女はそれを見て、ため息を吐く。
「やはり君は、時折ひどく馬鹿だね。誰がどう言おうときっとそうだな」
顔を手で覆う。
「君の思うあの子は、今日もいなかったさ」
目を閉じる。
「だって今日は、病室から一歩も出てないもの」
思考を遮りたいけれど、それには失敗した。
「そいつは明日、死んじゃうのに」
もう、彼女は目覚めない。じくじく蝕んだ病が結局彼女を喰らい尽くすのだ。昏睡して、微かに目覚めるだけの生活ももう終わり。
気づくのだろうか、君は。馬鹿だけど、賢いから。そうじゃなければ良いのに。
「ありきたりな悲劇で終わればいいのに」
“目が覚めると”
「私の当たり前はみんなにとっては異端なのかもしれないと、私は凡そ小学生の頃あたりに気づいたのだけれど、あなたはそんな経験はある?」
部長はそう言いながら、取り組んでいる課題にカリカリとペン先を走らせた。僕はその音を聞き、彼女の言葉にどうにか答えようと思いを巡らせた。
「パッと思いつかないんなら、きっとないのよ。その気づきは人生を変えてしまうぐらい大きいのだから、忘れられない爪痕になるに違いないもの」
巡らせた思考はその言葉で無為に還り、僕はそれを寂しく思いながら、半ば無意識にスマホでSNSを流し見する。
「あなたは普通よ」
「そうですか?」
「ええ、多分ね」
普通。普通か。それはいい響きとは言えない、と僕は思う。普通はあまり好ましくない。それは凡庸と言われているようで、寧ろ不快ささえ心にもたらした。
「部長もあまり変わってるとは思いませんよ、僕は」
「そう見せているのよ」
「ふうん……」
それが、普通から逸脱したい少女の強がりからくるセリフなのか、事実彼女はそういう過程を経て今ここにいるのか、正直僕には判断しかねる。彼女は僕の部長であったが、ただそれだけだ。仲がいいかと言われればそうでもなく、悪いわけでもない。
「部長、でもね、僕たちの関係はきっと普通の関係ですよ」
そう、つまり普通の距離感。部長と部員が作る普通の距離感だ。
「それさえも私がそうしたいからそうしたのだと言えば?」
「そんなのどうしようもありません」
「でしょうね」
沈黙が場に現れ、僕は数秒彼女の顔を見つめ、ふうと息を吐いてやはりスマホに目を落とした。彼女はやはりペンを走らせ、課題に追われているようだった。
「まあ」
「?」
彼女は数分の沈黙の後に口を開いた。
「嘘よ。私は別に自分が普通に外れてるなんて思ったことはないしね」
「……そうですか」
おかしげに笑った彼女の顔を見て、僕はまた息を吐き、スマホを見続けることにした。
僕は、あなたがそういう嘘をついて、それをこともなげに暴露してしまうので、やはりあなたの当たり前は少し異端なのかもしれないと、考えてみたりするのだが。
“私の当たり前”
石レンガの塀が長く続いていく。その塀の向こうには、なんの変哲もない、なんの特徴もありはしない民家が続いていき、闇の中に溶けていった。
住宅街であるので、大した街灯などはなく、ここから数駅先の街と比べればこんな街などは真っ暗闇と言っていいほどだろう。
それでも、先を見通せるかどうか、ギリギリの間隔で配置された灯り程度ならばある。彼はなんとはなしに、その下を意識して歩いて進む。
ひゅうと吹きつけた風は生ぬるくて、二の腕の半ばほどにあるシャツの袖をひらひら揺らす。先まで乗っていた電車の中は心地の良い冷風が吹いていて、その中で汗が乾いてしまったからか、外に出てからは皮膚は汗によって冷えることもなく、蒸した暑さを享受せざるを得ないのだ。
仕事からの帰路は憂鬱で、だけれど日常的にすぎて憂鬱さの感覚など麻痺していく。1人の道は孤独であるけれど、その孤独も仕方がないと割り切れてしまう。
そうして彼はいつも歩き始めると、くだらないことを思案し始める。例えば、今じわじわと皮膚の表面に浮かび出した汗が、とても強い酸性を持ったとして、そして彼の体はその酸に耐えられるようにできているとして、汗が地面に落ちるとその地面はどのように溶けるのだろうか。ずうっと立ち止まって、ポタポタ汗が垂れていけば、もしかしたらコンクリートの道は溶け切って、地層に行き着くのではないだろうか。……でも、そこまでたどり着いてどうするんだろう?彼はそんなことを思った。まあだけれどこれは、生産性のないくだらない想像であるから、そんなに真剣に考えることなどないのだ。
彼は上に書いたみたいなくだらない想像を数回繰り広げてはやめて、やめては繰り広げた。
その妄想を続けて、彼は闇の静けさを進んだ。そうしてしばらくたち、彼がふととある街灯の下で足を止めると、その途端彼は全てがイヤになった。
妄想で終わる一日。暗い中を街灯頼りに進む道。ぬめついたような風。全てがイヤになった。彼を取り巻く人々、働く職場、明日の予定全てを唾棄し、踏んづけてやりたくなった。嫌悪が彼の中に満ち、全てを投げ出し自身を酸で溶かし尽くしたいような気分になった。
だけれど彼は横を見やった。彼のアパートがそこにある。いつの間にやらそこに着いてしまっていた。
彼は衝動的なイヤを全て諦めた。イヤを諦めて、アパートの彼の部屋に入って、そしてイヤを諦めてしまった自分に今日もため息を吐き、やはり自分のこともイヤになった。
外で仄暗く電灯が道を照らす。それは明るいのに暗く、先行きの見えない道はひどく不安を掻き立てるもので。今だけは、彼はその電灯に縋りつきたくなるのだった。一時的な安寧でしかないそれに、縋りつきたくなる自分がやはり、イヤなのであった。
“街の灯り”
大人になったら、何をねがうんだろう、と君がいう。
もうねがうことなんてないぐらい、楽しいんじゃないか、と期待に胸をはせるボクはいう。
そんなことないよ。キミは冷たく言い放つ。
暑さが増す夏の夜。体は蒸されてじっとり汗をかいているのに、ボクの心はその一言で氷を当てられたようになった。
そんなことないよ。だって、わたしのママはいつも変な男のヒトにありがとうございますっていっぱいあたまさげて、私を冷たい風呂に入れて変なはっぱを入れて、あなたは愛された子よって言うの。それで、おねがいします、おねがいしますって、いっぱい叫ぶの。紙が棒についたやつをバサバサふって、髪もバサバサになるまで、おねがいします!おねがいします!って。
キミは色の悪いくちびるをかんで、冷たい言葉の後にそう続けた。
フキンシンだっただろうか。フキンシンっていうのをこんなところに使うのかわから、ないけど、これはとてもフキンシンだったんじゃないかな。ボクはちょっと前の自分の言葉を反省して、でも反省してもどうすればいいかわからなくてキョロキョロ目だけ動かした。
もうヤダなあ、とキミはいうのだけれど、ボクは全くイヤじゃない。ボクは、好きな女の子と2人きりで、七夕の日にお出かけして、その最後に暗くなった公園で2人で星を眺めているのだった。それはあまりにロマンチックで、ボクは全身の血がもえるような、それでいて逆に凍ったように落ち着いているような、変な感じを体験した。
キミはカワイイ。ボクはキミみたいにカワイイ子に出会ったことがない。キミみたいなカワイイ子が、彦星と織姫みたいに運命っぽく、そして偶然っぽく生まれたのなら、ひとつ何かが違ったらキミはキミじゃなくなってしまうんじゃないかなと思う。だから、ボクは全くイヤじゃない。キミが不幸なのも、かわいそうなのも、ボクはそれがキミを作ったものというのなら、全くイヤじゃないのだ。
でもボクは、それを言えなかった。頭の中ではずーっとそういうながーいキミへの想いが詰まってグルグルしているのだけど、そんな恥ずかしいことは口から出なかった。
ダンマリのボクに我慢できなくなったキミは、ボクをじっと見た。なにかいうのを待っているキミの姿に、ボクは余計気まずくなって何も言えない。ボクらは数分そうして固まって、でも突然キミはボクの手を掴んだ。ボクはびっくりして、どうしたの、と聞いてしまった。キミはそんなボクを無視して————
——キスをした。
ボクのファーストキスだった。キミにあげたいキスだった。キミにあげたキスになった。
ボクはまたびっくりしてしまって、なんにも話せなかった。キミは顔を真っ赤にして、走っていってしまった。数分そうして固まってたボクは、自分をいくじなしだと思った。もっと、カッコよくすればよかったと。
そうしてボクはとてもロマンチックな七夕を過ごして、学校でもポウっと毎日を過ごした。友達にはそれを笑われたり、つまんねーとぶうたれられたりした。それでもボクは浮き足立っていた。あの日以来、キミとは中々話せないけれど、廊下ですれ違うとキミははにかんで手をふってくれる。ボクはそれに毎回1秒ぐらい止まって、固まった表情で手をふり返したりした。
だがボクは友達もいるので毎日どこかに遊びに行っていろんなことをしていた。キミと過ごした後でもそうだった。
オレ今日塾!
ガイショク?しに行くって。
母ちゃんの店の手伝いする……。
でも、今日はいつも仲のいいみんなが用事があって、ボクは1人で帰らないといけなくなった。
仕方ないのでボクは、人が全くいない道を、トボトボ歩いた。ともだちがいないと、ボクは遊びに行くのもできないので、そうやってちみちみ歩くことしかできなかったのだ。
そんなさびしい道の先に、ボクは人カゲがあるのを見た。珍しいな、ココ、誰も通らないのに。ボクは少し不思議に思ったけど、そのまますれ違おうとてくてく歩いた。だけど、その人に近づいてみると、その顔に見覚えがある。
‘’キミ”のお母さんだ。
ボクは固まった。どうしてここにいるんだろう。キミはいつも早くに帰ってしまうから、お母さんはきっとキミといつも過ごしていると思ったのに。
でも、ボクは固まるのも変だと気づいてしまって、キミとキスしてしまったので、バレるわけにはいかないとふつうっぽくその横を通ろうと、近づいた。
ボクの身長だと、キミのお母さんの手が最初に見えた。その手はとても、ブルブル震えていた。そうしてなにやら変だぞ、一体なんなんだと気づいてボクは、お母さんの顔を見上げた。
日の光が背中に当たって、そのせいで顔には光がさしてなかった。キミのお母さんの顔は黒く一部を塗りつぶされたようになって、表情がよくわからなかったけど、ボクははっきりわかることがあった。
……とても、怒っている!
そして、キミのお母さんはブルブル震えていた手に持っていた包丁を力いっぱい振り上げて、固まっているボクのことをさした。
さした。
この!この!あの子を、あの子は大切な子なのよ!
さされた。
かみ様に あいされた子なの!
グサグサさした。
おまえみたいな!きたないこどもに!
なんだか熱い。
こ のごみ が しね し ね しね しね
死ね!
死ぬのかな、と呟いた。つぶやいたつもりだけどなにも声が出ていなかった。
ボクが死んだら、キミはもっとカワイくなりますか。もしカワイくなるんなら、ボクは全くイヤじゃない。ボクはやっぱり全くイヤじゃない。
“七夕”