あやや

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 石レンガの塀が長く続いていく。その塀の向こうには、なんの変哲もない、なんの特徴もありはしない民家が続いていき、闇の中に溶けていった。
 住宅街であるので、大した街灯などはなく、ここから数駅先の街と比べればこんな街などは真っ暗闇と言っていいほどだろう。
 それでも、先を見通せるかどうか、ギリギリの間隔で配置された灯り程度ならばある。彼はなんとはなしに、その下を意識して歩いて進む。
 ひゅうと吹きつけた風は生ぬるくて、二の腕の半ばほどにあるシャツの袖をひらひら揺らす。先まで乗っていた電車の中は心地の良い冷風が吹いていて、その中で汗が乾いてしまったからか、外に出てからは皮膚は汗によって冷えることもなく、蒸した暑さを享受せざるを得ないのだ。
 仕事からの帰路は憂鬱で、だけれど日常的にすぎて憂鬱さの感覚など麻痺していく。1人の道は孤独であるけれど、その孤独も仕方がないと割り切れてしまう。
 そうして彼はいつも歩き始めると、くだらないことを思案し始める。例えば、今じわじわと皮膚の表面に浮かび出した汗が、とても強い酸性を持ったとして、そして彼の体はその酸に耐えられるようにできているとして、汗が地面に落ちるとその地面はどのように溶けるのだろうか。ずうっと立ち止まって、ポタポタ汗が垂れていけば、もしかしたらコンクリートの道は溶け切って、地層に行き着くのではないだろうか。……でも、そこまでたどり着いてどうするんだろう?彼はそんなことを思った。まあだけれどこれは、生産性のないくだらない想像であるから、そんなに真剣に考えることなどないのだ。
 彼は上に書いたみたいなくだらない想像を数回繰り広げてはやめて、やめては繰り広げた。
 その妄想を続けて、彼は闇の静けさを進んだ。そうしてしばらくたち、彼がふととある街灯の下で足を止めると、その途端彼は全てがイヤになった。
 妄想で終わる一日。暗い中を街灯頼りに進む道。ぬめついたような風。全てがイヤになった。彼を取り巻く人々、働く職場、明日の予定全てを唾棄し、踏んづけてやりたくなった。嫌悪が彼の中に満ち、全てを投げ出し自身を酸で溶かし尽くしたいような気分になった。
 だけれど彼は横を見やった。彼のアパートがそこにある。いつの間にやらそこに着いてしまっていた。
 彼は衝動的なイヤを全て諦めた。イヤを諦めて、アパートの彼の部屋に入って、そしてイヤを諦めてしまった自分に今日もため息を吐き、やはり自分のこともイヤになった。
 外で仄暗く電灯が道を照らす。それは明るいのに暗く、先行きの見えない道はひどく不安を掻き立てるもので。今だけは、彼はその電灯に縋りつきたくなるのだった。一時的な安寧でしかないそれに、縋りつきたくなる自分がやはり、イヤなのであった。

“街の灯り”

7/8/2023, 7:26:08 PM