腹有詩書氣自華

Open App
3/23/2025, 10:53:18 AM

《曇り》

鉛を溶かしたような色が空を覆い、風は湿り気を孕む。
日は遠く、薄絹の向こうに滲むばかり。

男は、橋の上に立ち、手摺に片手を添え、もう一方の手には、古びた煙管を握っている。
火はない。吸うこともない。ただ、指で転がしているだけ。

 「降るかな」

 小さく呟く。

 「降らぬさ」

 隣で、女が笑った。

 黒髪を結い、紫陽花のような簪を挿している。
 裾の長い単衣に、朱の帯を緩く結んでいた。

 「降りそうな曇りは、そう易々とは雨にならぬものよ」

 男は煙管を回す。

 「……ならば、晴れるか?」

 「さてな。曇りは、曇りのままかもしれぬ」

 女が、橋の下を覗き込む。

 川面は濁り、流れは緩い。
 陽のない世界を映し、深く、冷たく澱んでいた。

 「なあ」

 男は、ふと問いかける。

 「人の心は、晴れることがあるのか」

 女は目を細め、ひとつ微笑んだ。

 「曇ったままの空を、誰が気にする?」

 「……?」

 「長く生きれば、曇りの日も慣れるものさ。晴れねばならぬ理由も、さほどなかろう?」

 男は煙管を止める。

 「……晴れずともよい、か」

 「そうとも。曇りは曇り。時折、薄日が差せば、それでよい」

 女が、橋の欄干に手をつく。

 爪先が、わずかに浮いた。

 男の指が、煙管を強く握る。

 「なあ」

 「なんだ?」

 「雲が晴れぬなら」

 「うん?」

 「雨も降らぬなら」

 女は振り返らなかった。

 「……いっそ、飛んでみようか」

 風が吹いた。

 空は曇りのまま。

 けれど、川面がかすかに揺れた。

(了)

3/21/2025, 12:50:23 PM

最終電車が来るまで、あと三分。
もう少しで、膝にいる袋の中のこの子たちともお別れだ。
俺たちは、無人駅のホームに並んで立っていた。

「……なぁ、水魚の交わりって言葉、国語の授業でやったじゃんさ。あれ、なんだっけ」

君が、何気ないふうを装いながら呟く。

「水と魚のように、親しく離れがたい間柄、な」

「よく覚えてるねぇ」

「テスト範囲って言われてたろ」

「……でももう、受ける必要ないから、いいじゃん? ……ね?」

君は笑う。

 ホームの白線ぎりぎりに立ち、夜の闇を見つめながら。

 袋の中で、金魚が尾を揺らした。

***

 最終電車の灯りが見えた。

 遠くで、ゆっくりと近づいてくる光。

 「結局、俺たちは魚だったのかな」

 「……どういう意味だよ」

 「金魚はさ、あんなに綺麗なのに、水の外に出れば生きていけない。俺たちも同じだったのかもなって」

 「……違う」

 俺は否定した。

 「俺たちは魚じゃない。水だよ」

 「水?」

 「水は、形がない。でも、魚がいなきゃ、その存在すら気づかれない。俺とお前はずっとそうだったろ? お前がいたから、俺は俺だったし、俺がいたから、お前はお前だった」

 君は、少しだけ驚いたような顔をして、ふっと微笑んだ。

 「じゃあ、水魚の交わりじゃなくて……水と水、か」

 「そういうこと」

 俺たちは、繋いだ手を強く握りしめた。

 ごおおおおおおおおおおん。

 電車が、ホームに滑り込んでくる。

 光が、俺たちを照らす。

 風が、夜を裂く。

 俺たちは、ただ一歩を踏み出すだけだった。

***

 翌朝、無人駅のホームには、破れたビニール袋がひとつ落ちていた。

 その傍らで、朱い金魚が尾を震わせ、微かに口を開いた。

 ――しかし、それもやがて静かに動かなくなった。

3/20/2025, 10:16:19 AM

少女が手を求めたのは、夕暮れの水辺であった。
空は仄赤く、波の影は長い。葦が風にさざめくたび、岸辺の翳が揺らめいた。

――手を、つないで

声は、薄くひび割れていた。
見ると、女の指は雪のように白い。しんと冷えた肌が、ゆるやかにこちらへ伸びてくる。
その指の先にあるのは、花びらか、それとも骨か。

手をつないで

まるで、祈るような声音であった。
指が触れる。ひたり、と濡れていた。
冷ややかに、粘るような感触が、指先に絡みつく。

その瞬間、足元の川面がふいに揺らぎ、水の底に灯が浮かんだ。

世界が凪ぐ。
ひとたび耳を傾ければ、まどろみに溶けゆくごとく、意識はゆるりと手繰られる。

あなたも、沈んで

すっと腕を引かれると、足元がふわりと宙に溶けた。

 ――ああ、これは、落ちてゆく音 だ。

かすかに嗅ぐは、沈丁花か、はたまた膚に滲む血の香か。
やがて、ひたり と響く水音。
その瞬間、川面の月が紅に染まり、夜は、閉ざされた。

***

翌朝、村人が川のほとりで男の笠を見つけたそうな

けれど、たどるべき影はどこにもなく、ただ、揺るる水面に紅ひとつ、咲きて流るるのみであったという

3/15/2025, 10:17:57 AM

どうせ、ワタシなんか。

そんな言葉が、胸の奥で何度も反響する。

あなたがワタシを見て微笑むたびに、どうしようもない期待が膨らんで、けれど、すぐに冷たく打ち消される。ワタシなんかが、そんなものを抱いていいはずがない。

だから、見ないで。優しくしないで。期待なんかしたくない。

けれど、あなたが彼奴と話しているのを見かけると、心の奥で何かが軋む。

そんなはずない、そんなはずない、そんなはずねぇ——

なのに、このざわめきは、"俺"の意思とは関係なく、勝手に大きくなっていく。

……もう、全部壊れてしまえばいいのに。

──────題.心のざわめき──────

3/14/2025, 11:38:09 AM

ずっとスマホを見ていた。
何度も画面を開いては閉じ、また開いては閉じた。
何かの通知が来るたびに心が跳ね上がり、
それが違うとわかるたびに、少しずつ落ちていく。

指がまたスマホへ伸びる。

君からの言葉は、どこにもなかった。

だから僕は、君を探した。
でも今日の僕には、何もない。

夜の静寂は、こんなにも冷たかっただろうか。

誕生日の終わりを告げる時計の針が、次の日へと進む。その瞬間、僕はスマホを裏返して机に置いた。

「しょうがない」

誰に言うでもなく、呟いた。

でも、本当はまだ、探していた。

──────題.君を探して──────

Next