湯気の立つ茶碗を手に取る。箸をつけた瞬間、ふわりと香る出汁の香り。頬が緩む。
それは、言葉にしないぬくもり。
春の陽を背に受ける。肌に染み込む温もりに目を細め、瞼の裏に広がる橙色の静寂に浸る。
それは、触れずとも沁みる光。
扉を開けると、ふと耳に届く馴染みの旋律。肩の力が抜ける。日々の喧騒から、そっと解放される瞬間。
それは、名前のない安らぎ。
気づかれなくても、そこにあるもの。
触れられなくても、確かにあるもの。
どれも、名を持たぬ「小さな幸せ」。
《春爛漫》
夜風に、咲き乱れる花の香が満ちている。
薄曇る月の光が、川面に滲んで揺らめいていた。
仄白い桜の花が、枝に連なり、川に映り、風に舞い――まるで天地の境さえ曖昧になったかのようだ。
「まるで、夢のようだね」
私の言葉に、隣の人影は微笑んだ。
「夢ならば、醒めることのないように」
声はそよ風に溶け、髪を撫でる指先は、ひどく優しかった。
桜吹雪の中、艶やかに、ふわりと舞う蝶を見つけた。
光と影の狭間で、ひとひらの花弁が翅に触れる。
――今宵限りの、儚い舞。
それでも蝶は、ひるむことなく宙を舞った。
愛おしむように、恋い焦がれるように、夜闇に咲き誇る華のように。
幾星霜を越え、幾度となく巡る春。
だが、このひと夜、この瞬間は、二度と訪れぬもの。
ならば、せめて――。
私は手を伸ばし、隣の温もりを確かめる。
繋いだ指先の向こうに、風に散る桜。
夜を彩る薄紅の華が、舞いながら、月影に溶けていく。
(了)
《七色》
雨上がりの川面に、七つの色が揺れている。
朱、橙、黄金、若草、群青、藍、そして菫。
「綺麗だね」
並んで立つ影のひとつが、ふと呟いた。
「でも、虹はすぐに消えるよ」
「……だから美しいのかもしれないね」
水に映る光は儚く、触れれば滲み、やがて流れ去る。
指先を絡めた手が、ほんのりと温かかった。
この温もりも、七色のように――消えてしまうのだろうか。
(了)
《記憶》
この隣にいる坊主が首を傾げりゃ、どんな國の城でも傾いちまうと言われていた。滴つた項があんまりにも妖艶で、内にあった微かな怯えっていうもんは何処ぞえと翔んでいったようだ。
その色男は此方をみて「いけずな....お人だ」とばかし言って、前のめりになりながらその愛おしい目を静かに閉じた。
刃が美しい首に入ったのは一瞬のことで。
見届けたら直ぐに自分の頭も転がって行った。
この俗世に悔いは無いですよ 死するは貴方の隣だから
この情人の最期の顔を1番近くで記憶に遺せるんだ
又 来世で逢いましょう
又 その項に口付けをさせてくれ
───題.もう二度と
黄水仙、彼誰れに揺るる
月白の水面に、黄の花弁が落つる。
薄霧のたなびく暁闇、風はそよとも鳴らず。
男の袖に、沈香の香が淡く残る。黄の花は、別離の色。
「もう、戻らぬと?」
囁きに応えるものはなく、ただ水仙のみが揺蕩う。
指先を滑る冷えた茎、ほどける結び。
それはまるで、手放した縁のように。
――さらさらと、水音。
やがて波紋に沈み、黄水仙は消えた。
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黄色い水仙の花言葉 : 「もう1度愛してほしい」