箱がひとつ、ぽつんとあったのです
ああ、ぽつん、と、まるで夜のなかの白い残月のように
か しゃり――ふたをあけると、
あの蝉の声がしました。
ひゅう、と風が鳴いて、ぼくの頬をひとすじ撫でてゆく
ぼくはそれをひとの気配と思い、
ぼくはそれを自分のなきがらと思い、
かたん、と閉じる。
箱は黙つてしまう
その沈黙のうちに、ぼくのおさない心臓がころがります
ころころ ころころ
――わらっていたのはだれだろう?
めそめそ めそめそ
───なみだをきらっていたのは
ぼくだったろうか?
世界のはずれで、ひとつの箱が鳴っています。
ちりん、ちりん
――硝子のような鈴の音で
からん 、からん
──西瓜と共にあるビー玉目当てのラムネの様に
その音が、夜をそうめんのようにやわらかく縫いあわせて 、箱をひらかないようにしたのです
【題.秘密の箱】
砂の音が止まる前に、名を呼びなさい。
時間は二度と息をしないから。
━━━━━━━━━━━━━━━題.砂時計の時間
sunrise
とくとく、そんな音がする
かわらない はずなのに どこか あたらしい
いつもと おんなじ
窓には わずかに残った しいる跡
なんでだろうな ほほが 波みたい
湯気の立つ茶碗を手に取る。箸をつけた瞬間、ふわりと香る出汁の香り。頬が緩む。
それは、言葉にしないぬくもり。
春の陽を背に受ける。肌に染み込む温もりに目を細め、瞼の裏に広がる橙色の静寂に浸る。
それは、触れずとも沁みる光。
扉を開けると、ふと耳に届く馴染みの旋律。肩の力が抜ける。日々の喧騒から、そっと解放される瞬間。
それは、名前のない安らぎ。
気づかれなくても、そこにあるもの。
触れられなくても、確かにあるもの。
どれも、名を持たぬ「小さな幸せ」。
《春爛漫》
夜風に、咲き乱れる花の香が満ちている。
薄曇る月の光が、川面に滲んで揺らめいていた。
仄白い桜の花が、枝に連なり、川に映り、風に舞い――まるで天地の境さえ曖昧になったかのようだ。
「まるで、夢のようだね」
私の言葉に、隣の人影は微笑んだ。
「夢ならば、醒めることのないように」
声はそよ風に溶け、髪を撫でる指先は、ひどく優しかった。
桜吹雪の中、艶やかに、ふわりと舞う蝶を見つけた。
光と影の狭間で、ひとひらの花弁が翅に触れる。
――今宵限りの、儚い舞。
それでも蝶は、ひるむことなく宙を舞った。
愛おしむように、恋い焦がれるように、夜闇に咲き誇る華のように。
幾星霜を越え、幾度となく巡る春。
だが、このひと夜、この瞬間は、二度と訪れぬもの。
ならば、せめて――。
私は手を伸ばし、隣の温もりを確かめる。
繋いだ指先の向こうに、風に散る桜。
夜を彩る薄紅の華が、舞いながら、月影に溶けていく。
(了)