《曇り》
鉛を溶かしたような色が空を覆い、風は湿り気を孕む。
日は遠く、薄絹の向こうに滲むばかり。
男は、橋の上に立ち、手摺に片手を添え、もう一方の手には、古びた煙管を握っている。
火はない。吸うこともない。ただ、指で転がしているだけ。
「降るかな」
小さく呟く。
「降らぬさ」
隣で、女が笑った。
黒髪を結い、紫陽花のような簪を挿している。
裾の長い単衣に、朱の帯を緩く結んでいた。
「降りそうな曇りは、そう易々とは雨にならぬものよ」
男は煙管を回す。
「……ならば、晴れるか?」
「さてな。曇りは、曇りのままかもしれぬ」
女が、橋の下を覗き込む。
川面は濁り、流れは緩い。
陽のない世界を映し、深く、冷たく澱んでいた。
「なあ」
男は、ふと問いかける。
「人の心は、晴れることがあるのか」
女は目を細め、ひとつ微笑んだ。
「曇ったままの空を、誰が気にする?」
「……?」
「長く生きれば、曇りの日も慣れるものさ。晴れねばならぬ理由も、さほどなかろう?」
男は煙管を止める。
「……晴れずともよい、か」
「そうとも。曇りは曇り。時折、薄日が差せば、それでよい」
女が、橋の欄干に手をつく。
爪先が、わずかに浮いた。
男の指が、煙管を強く握る。
「なあ」
「なんだ?」
「雲が晴れぬなら」
「うん?」
「雨も降らぬなら」
女は振り返らなかった。
「……いっそ、飛んでみようか」
風が吹いた。
空は曇りのまま。
けれど、川面がかすかに揺れた。
(了)
3/23/2025, 10:53:18 AM