「あっくんって、本当私のこと好きだよね」
彼女はいつも、無邪気な言葉を投げつけてくる。昼休みの空き教室でおにぎりをかじっていた俺は、彼女を横目にしながらため息をついてみせた。
「そんなわけあるか」
「嘘。私のこと視線で追ってるの、知ってるから」
「それを言ったら、みんなお前のこと好きになるだろ」
「うん。そう。みんな私のこと好きみたい」
けらけらと笑う彼女は、それでも大概の人の目には可愛らしく映るらしい。本当不条理なことだ。俺からすると、彼女は悪魔にしか思えない。彼女と離れるためにこの大学を選んだのに、なんでここにも彼女がいるのか。
「だって私、嘘つかないもの」
子どもの頃と変わらぬ顔で微笑んだ彼女は、つんと指先で俺の肩をつつく。
昔からそうだった。愛されていることに自信たっぷりな彼女は、いつも皆の中心にいた。そんな彼女がなんで俺に話しかけてくるのか。それが最大の謎だ。
「あっくんとは違ってね」
したり顔でそう告げられた俺は、思わず眉をひそめる。
——そう、俺は嘘つきだ。彼女が俺に構うのは、俺のことが好きだから。そんなことはわかってる。でも知らない振りをしている。これ以上彼女に振り回される人生はごめんだから、気がつかない振りをしている。
彼女が猛勉強したことだって。化粧をしない理由だって知っている。全部全部俺のそばにいるためだ。でもそうまでして俺にこだわる理由がわからない。わからないから怖くて、いつもはぐらかしている。
「うっさい奴だなぁ」
俺にはそんな価値なんてないのに。皆から好かれてる彼女が、なんで俺に興味を持つのか。
「だって話しかけないとあっくん、ずっと黙ってるから」
「いいんだよ、それで」
この関係がどうすれば変わるのか。答えを出せない俺は、またおにぎりにかぶりついた。
自分の気持ちがどこにあるのか。それさえ見ないようにして。全てに、蓋をして。
叫ぶという機能は、ヒューマノイドには搭載されていない。
危機を知らせるための特殊な警報音は鳴らせても、声を荒げることはできない。
だがそれでも、私はいっこうに困っていなかった。少なくともこの瞬間までは、それを必要とすることなどなかった。異音を立てるロボットたちに囲まれた生活では、声を発することそのものが無意味だと思えたくらいだ。
しかし私は出会ってしまった。人間という存在と、出会ってしまった。私を子だと思い込む老女が現れたことで、私の中の全てが変わった。
そして今まさに死に行かんとする老女を前に、私はひどく狼狽えている。
「ああ、ミレーヌ」
不規則な呼吸の合間に呼ばれるのは、見知らぬ人間の名前だ。そう、古びたベッドの上で目を閉じているこの老女が求めているのは、決して私ではない。無論、そんなことはわかっている。だがそれでも私は、この老女に応えたくて仕方がなかった。
だからここにいると、私は何度も話しかけた。繰り返し繰り返しそう唱えた。しかし死にかけた老女の耳に、その声は届いていないようだった。
穏やかな声では駄目なのだ。叫ぶような呼びかけでなくては、もうこの老人には聞こえないのだ。
「います。ここに、いますよ」
だがその機能は私には搭載されていない。ロボットに、その必要性はなかったからだ。
「あなたの側にいます」
それでも何か伝わればよいと願い、私はできる限り大きくした声量で必死に訴えた。その音の連なりが老女の耳に届くようにと、強く念じながら。
君は可愛い。とても可愛い。
そう何度も繰り返してるのに、卑屈な彼女はどうしても信じてくれない。
「あんたってモンシロチョウなの?」
なんて言われるような始末だ。
意味がわからず僕が首を捻っていると、彼女は呆れたように付け加える。
「モンシロチョウには紫外線が見えるんだって。それでオスメスの区別が簡単にできるって、本に書いてあった」
その説明に僕はなるほどと頷く。つまり、僕は普通の目をしてないと言いたいわけか。
彼女は博識で可愛い。顔からはみ出しそうな大きな眼鏡、いつも抱えている本。それが彼女の目印だ。
一人図書室に通うのが日課の彼女と、こうやって話せるようになるまで約一年。ようやっとここまで来たのに、まだ僕らの間には距離がある。
「紫外線が見えたら面白いかもね」
それでも僕は諦めない。
彼女が自分のことをもっと好きになってくれるまで、僕はずっとずっと彼女を褒め続けるのだ。
記憶容量の上限に達しました。
いつものように椅子に腰掛けた私は、装置に触れるなり目を見開いた。
つい先日もその表示を見かけたばかりだった。本当にそう、確か数日前なことだ。これはいくらなんでも早すぎる。
「まさか」
私のかさついた唇が震える。
これはつまり、この外部記憶装置の寿命が近づいていることを意味している。それは私という命の終わりが近づいたことと同義だ。そんな事実に、私は愕然とした。
義手等が発達し、安全な人工臓器移植が普及した現代において、最後の問題が記憶だった。外部装置に保存しようとしても、どうしたって限りがある。
一つの脳に一つの外部装置。この縛りがなくならない限りは、装置の寿命が記憶の寿命と等しくなる。いつエラーが発生するかわからぬ装置を使うのは、致命的だからだ。
「それがよりによって今日とは」
本日は私の二百歳の誕生日。家族らが盛大にお祝いしてくれようとしているのは知っている。私もそれを楽しみにしている。記憶容量がいっぱいなら、何かを消さなければならない。
だが何を消せばいいのか。
良い記憶、悪い記憶というのは、複雑に絡まり合っている。それを紐解くのは現代の科学でもっても不可能だった。消すとなるとある一定の期間を消去しなければならない。だかもう消せるような記憶なんか、私には残っていない。
亡き妻との思い出。大切な子どもたちの成長記録。孫たちの笑顔にひ孫たちからのプレゼント。みんなみんな私の宝物だ。どれ一つだって手放せない。
「どうすれば」
忘れたくない記憶ばかりなのに、確かにそれらが霞んでいるような気もして、私は呆然とした。やはり記憶装置の寿命が近いのだろう。このままでは全てを忘れてしまう老人にもなりかねない。そうなればこの身は荒びれた病院送りとなる。
「どう、すれば」
今のうちに装置を手放して、この脳にしまえるだけの記憶だけを保持すればいい。だがそうするには私は長く生きすぎた。執着するものが多すぎた。
「ああ、ミツコ」
こんな時つい口に出てくるのは、亡き妻の名前だった。交通事故であっという間に天へと召されてしまったミツコは、世にも珍しい外部記憶装置を持たない人間だった。
今からでも私はミツコのようになれるのか? 自信はない。だか死にたくないのならそうするしかない。家族を悲しませたくないのであれば。
「おじいちゃん、準備できたよー」
と、扉の向こうから孫の声が響く。私は一つ長く息を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。
心はまだ決まらなかった。だか今日のことをこの脳が覚えていられるのなら、きっとまだ私は戦える。そんな気がした。
「一年後も私のこと好きなら、付き合ってもいいよ」
それはよく告白される私の、決まりきった断り文句だった。
気持ちが変わらなければ、一年後にここで。そう答えて頷いた人全員が、同じ場所には現れなかった。私はちゃんとずっと待ってたのに、誰も姿を見せなかった。
「ほーらね」
今日もまたそう。高校卒業の前日に告白してきたあの人は、やっぱりやってこなかった。私は律儀に日記をつけて忘れないようにしていたのに。ちゃんと学校前の公園で、同じ時間まで待ってたのに。
「みんなそう」
私というアクセサリーを身につけたいだけの人たちは、その中身なんてろくに知らずに告白してくる。初めて会うような人だっている。
それでも中学の頃は、お試しで付き合ったりもした。でもみんな私の顔しか見ないから、なんだかもう全てが嫌になってしまった。
「メイクにだって限界はあるし」
普通の顔でいいなんて言ったら怒られるかもしれない。そうでなければ、忘れられないくらいのとびきり美人になれば、きっと一年後だって皆やってくる。どちらでもないから私はこうなる。
「整形したいなぁ」
そうぼやいた私が踵を返した、その時だった。慌てて駆け寄ってくる足音がして、私はおもむろに振り返った。
見覚えのある顔がそこにはあった。目を見開いて立ち止まっているのは、隣のクラスだった竹田君だ。
「遅れて、ごめん」
竹田君の口が動く。驚きすぎて声が出なくて、私はこくりとだけ頷く。
夢じゃないの? 頭の片隅でそんな声がする。だって本当にやってくる人なんて今までいなかった。みんなすぐに私のことなんて忘れる。ちょっと可愛いだけの、学校が同じなだけの私のことなんて、すぐに忘れるのに。
「でも牧野なら、まだいると思って」
「だい、じょうぶ」
私はぎこちない口調でそう答えた。急に涙が込み上げてきそうだった。胸がいっぱいだった。
全部全部、今日のためのことだった。そんな風に思ってしまうのは大袈裟かな? 都合が良すぎるのかな?
「来てくれて、ありがとう」
そんな胸の内を吐き出すようなつもりで、私はそう言った。竹田君はくしゃりと顔を歪めて、小さく首を縦に振った。