君に任せておけば安心だ。
そんな上司の一言に浮かれている場合ではなかった。
こんな仕事一刻も早く放り出して逃げるべきだったのに、俺はなんでそうしなかったのか。
いや、わかってる。新しい環境が不安だっただけだ。馴染めるかどうかなんて、命に比べれば軽い悩みだったのに。こんな時になるまで気づかなかった。
『マサル、どうしますか?』
今俺の側にいるのは案内係のロボットだけ。仲間は皆死んだ。目の前にいるこの巨大な狼に、噛み殺された。
何が安全なダンジョンで安定した収入をだ。
そんなうまい話があるものか。
『どうしますか?』
繰り返される無機質な声に、狼の唸り声が重なる。俺は剣を握る手に力を込めた。
どうするも何もない。やるしかない。そうでなければ死が待っている。ただ、それだけだった。
安心と不安
『お知らせいたします。世界の滅亡まであと80時間となりました。時間移動をご希望の方は、早めにお手続きをお願いします』
うんざりするようなアナウンスを聞き流しながら、彼は人気のない道をずんずんと進む。底の擦り減った靴が立てる音は歪で。そんな些細なことさえも、彼の機嫌を損ねるのに役立っていた。
「貧乏人は死ねってことさ」
ついつい悪態を吐いてしまうのも致し方ないだろう。もうほとんどの人間は時間移動を済ませて、いつの時代だかまで戻っているはずだ。
——過去をやり直せます。そんな謳い文句と共にやってきた時間移動という技術に、人々は飛びついた。未来にタイムワープするのは無理でも、過去のある時点なら行ける。それはある種の人間を興奮させるのに、十分な力を持っていた。
その結果、世界が滅ぶと誰が予想しただろうか。
それを知った金のある人間たちは、100年前に時間移動した。
彼のような貧乏人は、有金叩いてもせいぜい一ヶ月前に戻れるかどうかである。それでは何の意味もない。
「くそったれだな」
吐き捨てた言葉が、アスファルトの上で弾けて消えていく。
と、道の向こうに何かが見えた。目を凝らしてみれば、道路に座り込んでいるのは子どものように見えた。
「マジか?」
彼は唖然とした。政府の方針で、子どもは最優先で時間移動させることになったのではないか。
いや、方針はあくまで方針。徹底されるかどうかは別の話ではあるのだが。
よく見れば、子どもの側に誰かが倒れているのがわかる。その子どもの親なのかどうか、ここからではわからない。胸糞悪いものを見てしまったと、彼はつい足を止めた。
無視することはできる。彼にできることなんか何もない。誰も彼を救わなかったように、誰もその子どもを助けなかっただけだろう。世知辛い話だが、仕方がない。そうでなければ世界の滅びをもっと遅らせることができたはずだった。
「クソ喰らえだ」
そう、誰も彼もが自分のことしか考えずに時間移動をしたから、滅亡はどんどん早まった。
己はその仲間入りをするのか? 否。そう思えば、すっと何か心に落ちるものがあった。
このなけなしの金があれば、そな子どもを親だか誰だかのいる世界に返すことができる。
「誰も見てねぇところで英雄気取りとか、笑えるな」
彼は鼻で笑った。だが決して悪い気はしなかった。
目を覚まし、隣に彼がいることを確認して、私はほっと息をこぼす。布団の中でもぞもぞと動くその様は、なんだか小動物を彷彿とさせる。
くすりと笑った私は布団を抜け出して、そうして大きく伸びをした。カーテン越しの光は優しくて温かい。この瞬間が一番穏やかな時間だ。
彼が起きた途端、私の時間はいつも加速する。それは彼が小学生になってからも変わらなかった。体ばかり大きくなってもまだまだ子ども。私の隣で寝たがるんだから、困ったものだ。
「よし」
手櫛で髪を整えつつ、私はぺたぺたと歩き出す。慌ただしい朝が始まる前のこのひと時を、ゆっくりと噛み締めながら。
どうやら失恋したらしい。
彼がお見舞いに来た瞬間に、私はそれを悟った。
「隼君、来てくれたんだ」
思わず漏れた言葉を、彼はどう受け取ったのだろう。へらりと笑った彼に、私はベッドから曖昧な笑みを返すだけだった。
あんなに好きだった彼がわざわざ来てくれたというのに、この心はちっともときめかない。
『目に見えぬ影響が出ている可能性はあります』って主治医の先生は言ってたっけ。これもそのうち?
私はどうやら恋心というものを失ったみたいだ。近づいてくる彼を見上げても、恥ずかしいとも思わないなんて。
「びっくりした。交通事故だって聞いたから」
「うん。全然覚えてないんだけど、運が良かったみたい。骨も折れてなかったって」
「でも意識がなかったって」
「一日ね。次の日には目が覚めてたから。私、思ってたよりも丈夫みたい」
そう答えれば、彼の顔がくしゃりと歪む。心配してくれたのだろう。それがわかっても、私の心は波立たなかった。優しい人なんだなと、思ったくらいだ。
そう、彼は親切で温かくて、そして優柔不断な人だった。皆の間で苦労するのも嫌じゃないような、そんな人だった。そうした記憶はあるのに、私の心には何故か響かない。
「ありがとう、隼君。来てくれて」
それでもお礼は言わなくちゃ。私は精一杯微笑んだ。彼の唇が震えていることからは、あえて目を逸らすことにして。
二人の失恋
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、そのTシャツについてだ。
そんなTシャツどこに売ってるっていうんだ。なんでそれを買ってしまったんだ。それ、値札だろ? しかも半額シール付きって、売れ残った弁当じゃないんだから。
誰がそんなTシャツの奴の隣に立ちたいと思うんだよ。え、待ち合わせでわかりやすいように?
そんな奴に誰が近づきたいってんだ。僕だってごめんだよ。だから間違っても来週のデートには着て行くなよ? 絶対だからな。絶対に!