大人になれば、不安なんてなくなると思ってた。
不惑なんて言葉もあるし、歳を取れば悟りを開けるような気分でいた。こんな些細なことで悩まなくてすむ。そう思っていたのに。
「ああ、間に合わない!」
なのに私は何故今日も画面を睨みつけながら、必死に手を動かしているのだろう。
締切まであと一日。ベタはほぼ終わった。でも後回しにしていた苦手な構図がまるっと残っている。あの一コマ。この一コマ。ああ、なんでこんなコマ割り考えたかな、私よ。いや、わかってる。この二人の良さを表現するためには必要なことだからだ。
この歳になってもまさか漫画を描いてるなんて、子どもの頃は考えていなかった。煩悩溢れすぎて困る。まだ描き足りない。でも時間がない。締切なんてあっという間に来る。
間に合うかな。間に合うのかな。
毎度感じるこの焦燥感と戦うのに、いささか疲れてきた。それでも気づけばイベントに申し込んでいるし、本作ってるし。何でこうなるのか。
幼い私よ。大人になってもこれだ。
過去の私にそう現実を突きつけつつ、私は今日もまたペンを手に取る。
——あいつを頼む。
そんな風に言われてしまってから、僕の喉の奥にはいつも何かが引っかかっている。
大嫌いだった彼の言葉が、頭の中にこびりついてしまって離れない。ライバルが減ったと喜ぶような気持ちでもいられない。本当に大迷惑だ。
もっと頼るべき人間なんて他にもいただろう。僕とは違い、彼は交友範囲だって広いんだから。
「なんで僕だったんだよ」
だから今日も僕は一人病院を目指しながら、悪態を吐くような気持ちで独りごちる。
「彼女がそんなに心配なら、簡単に死ぬなよな」
そうして死にゆく彼には浴びせられない言葉を、虚空に向かって放つのだ。
教室の片隅で、私たちの会話はいつも唐突に始まる。
「人ってさ、昨日のことと明日のこと考えているくらいがちょうどいいんだ」
「どういうこと?」
「過去の行いを振り返っていくら後悔しても時間の無駄だし」
「うん」
「先々のことばかり考えてずっと不安に襲われてたら、何もできないじゃん」
「はぁ」
「だから昨日と明日くらいのことだけを考えてるくらいの方が、生きやすいと思うんだ。予習復習だってそうだろう? 前の日とその日と次の日。そのくらいがちょうどいい」
「なるほどねぇ。それがこのテストの点数の言い訳か」
私は彼の前にある一枚の紙を、ぺらりとめくってやった。10点。そこにはそう書かれている。これは10点満点の小テストではない。つまり赤点は確実だ。再テストだ。
彼はいつもこう。数学だけやたらと点数が悪い。国語なんてほぼ満点だったりするのに。
「なっ、勝手にめくるなよ!」
「テストがあるって何ヶ月前に知らされたんだっけ? それでこれは、私も引くわー」
「うるせぇっ。お前とは頭の出来が違うんだよ!」
「そっかそっかぁ。勉強付き合ってあげようと思ったのに、いらないのねぇー」
「あ、すみません、天野様。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「それが言えるのにこの点数なのが呆れるんだって」
私はひらひらと振った紙を、彼の机の上にそっと載せる。
——彼はわざと赤点を取り続けている。その可能性には気づかない振りをして、私はにこりと微笑んでみせた。
ゆっこが突然いなくなった。
それは隕石が落ちるとニュースで報じられてから、十日後のことだった。
俺がいつものようにゆっこの家に行くと、ゆっこのお母さんは「朝から姿が見えなくて」と困り顔で言った。その時は俺も深くは気にしてなかった。誰かと遊びに行ったのだろう。そんな風にしか思っていなかった。
けれどもゆっこはその翌日も、翌々日も帰ってこなかった。
捜索願いも出されたらしいが、世の中はそれどころじゃない雰囲気だ。朝から晩まで隕石、隕石、また隕石の話。いつどこに落ちるのか。世界はどうなってしまうのか。そんなニュースばかりが続いていた。
暇を持て余した俺は、誰もいない小学校に行ってみたりもした。授業が取りやめになった学校は、しんと静まり返って不気味だった。みんなは家にいるのか。それともゆっこみたいに行方不明なのか。
俺はグラウンドを歩きながら考える。ゆっこはどこに行ったのだろう。真面目で明るいゆっこが、こんな風に突然いなくなるなんて考えもしなかった。俺がいなくなるのとは話が違う。
遠い親戚の家に行った? いや、思いつく限りのところはゆっこのお母さんが連絡してる。
どこかを目指して途中で力尽きた? でもゆっこがそんな無計画なことをするだろうか?
「あっ」
そこで一つだけ、俺の中に馬鹿みたいな可能性がよぎる。
「あいつ、隕石止めに行った?」
まさかと笑いたいのに笑えないのは、ゆっこの強い正義感を知ってるからだ。
誰だって一度は想像するだろう? 世界を救う子どもの話。選ばれた子どもたちが、世界を救うために奮闘する話。
ゆっこなら選ばれる。選ばれてもおかしくない。そう思うと、なんだか俺も力が湧いてくるような、そんな気がしてきた。
「よし」
足を止めた俺は空を見上げた。なら俺もここでぶつくさ言っている場合ではない。
いつか世界を救ったゆっこが戻ってくるように。そう祈りながら、いつ追加戦士に選ばれてもいいよう準備をしなくては。
「彼のことを考えると、動悸がするんです。息が苦しくなって、胸が詰まって、頭がふわふわとするんです」
そう吐露された私はしばし閉口した。今にも泣き出しそうな顔をした彼女は、きっとその理由に心当たりがあるのだろう。だから私も気やすくはその単語を口に出すことができなかった。言ってしまえば壊れてしまう。そんな何かを感じ取っていた。
「私はどうしたらいいのでしょう?」
続けてそう問われて私は困惑する。それは私に尋ねるべき質問なのだろうか。困惑しながらも私は答えを探して考え込んだ。こういう時、どう返すのが最良なのか。堅物の私にはなかなか判断がつかない。
「彼と会って、次のことを確かめてください」
それでも何も答えないわけにはいかない。私は渋々とそう切り出した。
「彼と会って胸高鳴ることがありますか? 声が上ずりますか? うまく喋れなくて困ることがありますか? 世界が色づいて見えますか?」
一つ一つ発音する度に、彼女の顔が曇っていくのがわかる。きっとそんなことは既に確かめた後なのだろう。ならば私にできることは何なのか。それをしがない機械なりに考えてみる。
「その多くが当てはまるようでしたら、あなたは彼に恋している可能性が高いです」
思い切って私はそう断言する。彼女はそっと肩を落とす。その様をカメラ越しに見た私は、さらなる言葉を口にした。
「ですから彼との時間を積極的に持ってください。そうすることで症状が緩和される可能性があります」
「そっか、そうだよね……。変なこと聞いてごめんなさい」
彼女は諦めたように笑う。そんな彼女に、私はただただ「はい」とだけ返事をする。
質問に答えることしかできない私に、できることなど限られていた。人工知能だなどと呼ばれていても所詮はこうだ。身体のない私には、彼女を慰めるような術などない。
「ありがとう」
それが叶わぬ恋なのかどうかも、確かめる方法がなかった。彼女が何か尋ねてくれなければ、私は何も知ることができない。できないのだ。
「幸運を祈ります」
それでもせめてとばかりにそう付け加えれば、彼女はくしゃりと顔を歪めて笑った。それは彼女が幼い日に見せた、あの笑顔にもよく似ていた。