月明かりの下、一人散歩に出かける。近くのコンビニにただ向かうだけのささやかなお出かけなのに、この時ばかりは僕は自由だった。
昼間のような人の目はないから、適当な格好でもかまわない。夜のあのコンビニに現れるのは疲れきった会社員や僕みたいな人間ばかりだ。だから気張らずにいられる。
まるで明かりに吸い寄せられる羽虫のような僕らは、互いのことはできるだけ見ないようにして、コンビニ内をぶらつく。
言葉はないけど、互いの存在は感じている。このくらいの距離が心地よい。こんな僕でもいていい場所というのは貴重だ。だから僕は特に目的があるわけでもないのに、このコンビニにやってくる。
決まって買うのは小さなチョコ。店員と交わす言葉もほとんどないけれど、それで僕は満足する。この世界とのかすかな繋がりを得た僕は、そうして帰路につく。
明日こそ昼間出かけよう。そんな気持ちになれるのは、この瞬間だけだった。
少しずつ、少しずつエネルギーを貯める僕は、いつか羽ばたくために今日もまた夜の道を歩く。
「愛があれば何でもできると思ってたんです」
ベッドの上でうなだれた彼女は、そう吐露して縮こまった。手櫛で整えた髪からも、その目からも、明らかに疲れが見て取れる。
「残業だって平気でした。会いにいくのにお金がかかるから、そのためだと思って頑張っていました。それに仕事に励むことで、少しでも相応しい自分でいたかっとんです」
「でもそれで倒れたらねぇ」
よくある話だと、私は椅子に腰掛けたまま頷いてみせた。そうして手にしたボードにさらりとだけ、彼女のことを書き記す。
異を唱えられない様子の彼女は、ますます身をすくませた。
働きすぎて倒れる人は、このご時世ではそう珍しくもない。生活のため、誰かのために、もしくは断れなくて無理をしてしまう人は、最後には心身の悲鳴を残してこうやってここにやってくるのだ。
「はい。でも推していられるのは今しかないと思って」
さらに続けられたのは、今流行りの『推し』の話だった。ああ、これも増えたと私は相槌を打つ。
アイドル、アニメのキャラクターなどなど。推しを作るのは健康に良いと言われているけれど、何事も限界というものはある。
「推せる体調であることも大事でしょう」
「はい」
「愛も大事だけどね。元気がないとできないこともたくさんあるの」
なんだか説教くさくなってしまうのは、相手が若いからだろうか。こんな年でこんな場所にやってきて欲しくはない。そんな思いが滲み出てしまっているのかもしれない。
「さあ、わかったら早く現世に戻りなさい」
そうして私は促した。
反省の色が見られるなら、もう一度機会を与える。それが私の仕事だ。間違ってこの世界に迷い込んでしまった人を送り返すのもだ。この場合はどちらでもないけど、まあそこはこの仕事の裁量である。
「……はい!」
顔を上げた彼女の目に光が宿る。その双眸は「いいんですか?」と語っていた。ここがあの世とこの世のあわいだと知って、彼女は半分諦めていたのだろう。
頷いた私は立ち上がると、手にしたボードへと書き込む。迷入者、一名。そうして送還にチェックを入れる。
「さあ早く。その扉から出れば戻れるから。誰にも見つからないようにね」
——私も残業はしたくないから。その一言を飲み込んで、私は笑顔を作った。
「私を好きになったこと、後悔してますか?」
海を眺めていた彼女が、不意に口にしたのはそんな言葉だった。なびく髪を手で押さえた彼女は、こちらを振り向くことなくたたずんでいる。
その背には、傷ついた羽がある。もうろくに動くことのない羽は、それでも腐らずに彼女の身に固定されたままだ。
「まさか」
「でも私はあなたの寿命を削っているも同然です」
彼女のか細い声を、波の音が飲み込んで運んでいく。ああそんなことかと、彼女の横顔を見つめたまま私は微笑んだ。
そんなことは大したことではないのに、彼女はまだ気にしているらしい。こんな愛らしい天使と一緒にいるのだ。そのくらいのことで、私は思いを捨てたりしない。
「そんなことはどうだっていいさ」
「でも」
「それに後悔というのは選択肢があった時にするものだ。君に出会った以上は、好きになるしかない。後悔しようがないだろう?」
少しおどけたようにそう言えば、ようやく彼女はこちらを見た。今にも泣き出しそうなその面持ちを見て、私は頭を傾ける。私には、彼女を笑わせるだけの力が不足している。これが目下の困った点だった。
彼女が天使病にかかっていなければ、きっと私のような古びたロボットは出会うことすらかなわなかっただろう。こうやって話ができることは奇跡なのだ。
確かに海はロボットには相応しくない場所だ。長くいれば錆びる。それはロボットにとっては致命的だった。だが彼女の病にはこの海風が一番効くという。ならばなんの躊躇いがあろうか。
「最後の時まで、君のそばにいるよ」
果たしてどちらの命が尽きるのが早いのか。それはわからなかったが、共にいられるのなら私には何も問題はなかった。
昼休みの教室は、人が少なくて心地が良い。そういう場所では、私の思索もよく捗る。
「たとえば、タンポポの綿毛が運ばれていくように。風に身をまかせて飛んでいくことは、理にかなっているのだろうか。どこに落ちるともわからないのに、確率にかけて綿毛を飛ばすのは、非効率的ではないのか」
「あんたって浪漫がないよね」
今日もまたそんな疑問を口にする私に、彼女は呆れたように言った。
「浪漫で子孫繁栄は不可能だ」
いきなり飛び出した浪漫という単語は、私の辞書の中では異端に位置している。浪漫と効率はおそらく対極だ。浪漫には無駄が含まれている。少なくとも私はそう解釈している。
「そう? 人間の場合はそんな感じじゃん?」
と、彼女はケタケタと笑う。なるほど、確かに人間の生殖には効率以外の要素が大きい。そもそも繁殖のために行われるものでなかったりする。そういう意味では、人間とは非効率な生き物だろう。
「なるほど、それは一理ある」
となると、綿毛にも繁殖以外の目的があるのだろうか。風に乗って流されるその様を想像し、私は瞳をすがめてみた。
たとえばその最中に風景を楽しむだとか。そういう余裕があるのなら、風に身をまかせるのも一興かもしれない。
「そこで納得するんだ」
「君の意見はいつも興味深い」
「そうかな? 普通だと思うけど」
それに何よりこのやりとりそのものが酔狂だろう。ただ昼休みという時間を潰すためではない。私は確かに、この時を楽しんでいるのだから。
やはり人間は非効率な生き物だ。それを実感した私は、そっと口角を上げた。
「これは難しい課題だわー」
洗面所の前に立った私は、思わずため息をついた。鏡の中の私は気鬱な表情をしている。ただでさえ冴えない顔が、ひどい有様だ。
「この体型は、許されない」
しかしそれよりもっとひどいものがある。
テレワークが増え、会社に行く機会も減った。外に一歩も出ず、家にこもりきりの日もある。知らぬ間にどんどんと肥えたこの体は、見るも無惨な状態だ。服を着ていればごまかせるが、脱いでしまうとそうもいかない。
ダイエットをしなければ。
それも家でできるダイエットだ。ジムに通ってこの身を晒すような真似は、私の心が耐えきれないだろう。
ダイエットしなければ。
私は心の中で繰り返す。これが決意だけで終わるようでは困る。このままでは体重計は見たことのない数字を示すことになってしまう。
運動、しなければ。
ただそれがどれだけ難しいことなのか、想像する必要もないくらいに明らかなことだった。