「かぁーっ、生きてるって感じする!」
勢いよく飲み干した麦酒の喉越しは最高だった。頭の芯まで爽やかな風味が抜けていくようだし、身体中に水分が行き渡るような心地がする。
これだから運動後の一杯は止められない。それが勝利の後ならなおのことだ。
この食堂はこんな時間でもどんな客にでも酒を提供してくれる穴場だ。だから私はいつもこの店を利用している。
「信じられません」
それなのに相棒であるシルキーは、呆れた視線を横手からこちらへと向ける。
「まずは水を摂るべきです。そんなんではいつか脱水で倒れますよ」
「へーきへーき。こう見えてやわじゃないのはシルキーが一番知ってるでしょ?」
私がどでかいグラスをテーブルへと乗せれば、シルキーはやれやれとばかりに頭を振った。頭が固いシルキーはいつもこうだ。年寄りでもないのに、やたらと説教が多い。
まあシルキーにはわからないのだから仕方ないか。依頼をこなし、ささやかながらも手に入れた金で麦酒と肉をいただく。これに勝る贅沢なんてないないのに。
「やわとかタフの問題ではありません。人間の体の問題です」
と、ぴしゃりとシルキーはそう言う。これはさらなるお小言が始まる予感だ。私はそれを適当に聞き流す心づもりをしながら、フォークを肉へと突きつけた。
「あなたには長生きしてほしいんです」
なのに突然神妙な声が届いたものだから、私は思わずシルキーの方を振り向いた。シルキーの大きな胡桃色の瞳は、じっとこちらを見据えている。
「それはこっちの台詞なんだけど」
「私は機械ですから」
「アンドロイドの方が寿命は短いでしょ? それくらい馬鹿な私でも知ってるって」
「私は修理を繰り返せば半永久的に動くことができます。あなたたちとは違うんですよ」
またこれだ。最近のシルキーは、何故だか私の健康のことを心配する。そりゃあ昔よりは体力も落ちた。剣を振り回せる時間も短くなった。それでもまだまだ若い者たちに負けるつもりはない。今日の依頼だって難なくこなしているというのに。
「あなたがいなければ、私が生きている意味なんてないんです」
そうしてシルキーの常套句が飛び出す。これを言えば私が黙るとわかっていて囁くシルキーは、実に性格が悪い。
いつからこうなったのだろう。ああ、私の真似か。そう気づくと何だかおかしくなった。何年の付き合いになるのかもう忘れたくらいには、シルキーと共に依頼をこなしている。
「わかったわかった」
そうして私は手をひらひらと振る。いつも折れるのは私だ。そこは年上の矜持というべきところだろうし、口喧嘩している間に肉が冷めるのももったいない。美味しいものは美味しいうちにだ。
私は満面の笑みでフォークを持ち上げて、肉へとかぶりつく。溢れ出した汁が滴って、白い皿へと落ちる。
私だってあんたがいない未来なんて想像できやしない。そんな風に言ってやらない私は、シルキー以上に性悪だった。
このケーキを食べるべきか否か。
帰宅するなり「ケーキ買っておいたから」という一言が聞こえて、私の心はぐらぐらと揺れた。
成績が良かった時のご褒美はケーキ。それは昔からの約束だったから、お母さんは何も考えずに買ってきたんだろう。もしかしたら、先月からの私のダイエット宣言なんて、もう忘れてるのかもしれない。
テーブルの上にはケーキの箱。それを開けるべきかどうか。決められない私はただじっと箱を見つめる。
今日くらい食べたっていいさと、悪魔が囁く。
日々の積み重ねが大事なんですと、天使が私を諭そうとする。
どうしよう。頭の中で天使と悪魔が言い争う。まずは制服を脱ぐべきだって天使が言う。スカートがキツくなってきたから焦ったんだっけ。そうだよなぁ、食べちゃ駄目だよなぁ。
でもせっかくお母さんが買ってきたのに? あのケーキ屋のおじさんが丹精込めて作ってくれたのに? 悪魔がそう主張する。どちらの言い分も正しい。そこに善悪なんてない。だから私には決められない。
そうやって立ち尽くしてどれだけ経ったのか。
ぺたぺたという足音が聞こえたと思ったら、すっと横から小さな手が伸びてきた。
「お姉ちゃんダイエット中でしょう? 私が食べてあげる」
「駄目っ!」
意地悪げなミホの声に、私は反射的にそう叫んでいた。
ダイエットは大事だ。日々の努力が結果を出すのもわかる。テストの成績が良かったのもそのおかげだ。でもこの図々しい妹に取られるのだけは、それだけは許せない。
「えぇー?」
それまで動けなかったのが嘘みたいに、私の手が箱へと伸びた。
「これは私のだから!」
「どうか地球に落ちないでください」
パンっと手を打った少年を、私は横目に見た。
固く目を瞑って手を合わせているその先には、何があるわけでもない。もちろんここは神社でもない。もぬけの殻になった学校の、そのグラウンドの端っこだ。抜けるような青空がいい心地のお昼すぎ。お腹が空く時間だ。
——無駄だよ。
私は心の中で呟く。どんなに祈ったところで、隕石とやらが軌道を変えてくれるわけがない。あちらは無機物。こちらの心なんて伝わるはずもなかった。
大きな隕石が地球に落ちる。そう報道されたのは一ヶ月前だ。有識者とやらがいつからそのことを知っていたのかはわからないけれど、私たちにとっては寝耳に水だった。
お母さんはいまだにデマだと言って、近所の人たちに吹聴している。お父さんはニュースなんか知らないという顔で会社に行っている。学校に送り出された私は、こうして暇を持て余している。
「みんな旅行とか行ってるのになぁ」
思わずぼやいたのは、今朝方りっちゃんから写真が送られてきたからだ。北海道だって。美味しいもの食べて、楽しいことして、そうして死ねたらいいよね。私もそう思う。
隕石が落ちたらそれどころじゃなくなる。どこに落ちても世界は塵に覆われるんだそうで。
「お願いします!」
と、少年の声が一際大きくなった。その必死な様子に、私は何故だか苛々した。祈ればいいだなんて、なんて純粋なんだろう。私もそう思えたら少しは楽になれるのかな。
「お願いします!」
繰り返した少年は空を見る。そうして今度は私の方を見る。そのどこか縋るような眼差しに、私ははっとした。——そうだ。この少年だって、誰もいないこんなところで一人過ごすような子なんだ。何も思っていないはずがないのに。それなのに何で私は、こんなことで苛立ったのか。
沈黙が、私たちの間に横たわる。反応を求められてるのはわかる。こちらの方が年上なんだから、何か言わなきゃ。でも何を言えばいい? ただやさぐれているだけの私が。
「願い事は、三回唱えるんだよ」
私の震える唇が、そんな言葉を放つ。したり顔で、そんなことを口にする。
何故だか無駄だとは言えなかった。まだ遠くにいる隕石に祈ったって、意味がないとも言えなかった。
ああ、そうか。私もお母さんたちと同じなのか。今さらながらそう気づく。
「わかった」
少年が頷く。そうしてまたパンっと手を叩く。小気味の良い音が、空へと吸い込まれていく。
何もすることがないなら、私も神頼みでもしてみようか。空を見上げた私は、そっと目を閉じてみた。
愛してはいけないものを愛した時、人の真価が問われる。
そんな言葉を信じるのだとすれば、きっと私は愚か者だろう。
アンドロイドを愛してはいけない。そんなことは子どもだって知っている。彼、彼女らは見目麗しく、聡明だ。その頭脳には、どうすれば人が喜ぶのかというパターンが、幾万も組み込まれている。そして感情がないからこそ、その規則に従って振る舞うことができる。だから人がアンドロイドに惹かれるのは当然なのだ、と。
わかっている。そんなことはわかっている。だが目の前にいるこの年老いたアンドロイドに、私は手を差し出さずにはいられなかった。
見目麗しくもなく、返答も遅く、頼りない足取りで歩くこのアンドロイドが、祖母のように思えてならなかった。
何のためにそう作られたのかわからぬこのアンドロイドを、私は愛しているのだ。
そのつぶらな瞳が私を捉え、名を呼ぶ。たったそれだけのことで、目頭が熱くなる。亡き祖母とは似ても似つかぬこの機械に、何故思いを重ねてしまうのか。
わからない。わかるのは、私が愚かであることだけだ。
私はきっといつかこのアンドロイドを所持することになるだろう。そうして周囲から笑われながら、幸せ者となる。その確信だけが、この胸にはあった。
『明日のあなたの心模様。曇り、のち、雨。午後は六十パーセントの確率で雨でしょう』
乳母ットが、またもや変な天気予報をうたう。その姿を横目に、私は思わずため息を吐いた。
長年一緒にいるこの鳥型の乳母ット——チルは、いつの日からか天気予報ではなく、私の心模様を予報するようになった。
「しかもよく当たるし」
その硬い羽を指でつつくと、チチチと甲高い声で鳴かれる。昔は「止めてください」って言ってたのに。これもいつからこうなのか、よく覚えていない。
「明日は面接なの」
それでも修理窓口へと連れて行かなかったのは、その方が都合がいいからだ。私はもう子どもじゃないから、小言なんて必要ないし。何でも自分の端末で検索できるし。それでも親を心配させないために連れてきたチルは、今では私の愚痴の聞き役だ。
「私あがり症だから心配なんだ」
机の上のチルへと、私は呼びかける。不安な時、困った時ずっとそうしていたから、もうこれは癖になっている。何て言われるかも予想がつく。「緊張しない人間なんていません」って、チルならそう答える。
「まあ圧迫面接だったらこっちから願い下げだもんね。それ確かめに行くくらいの気持ちでいいか」
そう、チルだったらそう言って励ましてくれる。だから今のチルは聞いてくれるだけで十分だ。まともな答えなんて期待してない。それでも寂しくなんてない。
「だから明日の予報はハズレだよ」
もう勝手に動くこともしないチルの羽を、私はもう一度指先でつついた。すると少しだけ首を傾げたチルは、またチチチと甲高く鳴いた。