「私は、そんなに弱く見えます?」
こちらを振り返った彼女は、どこか寂しそうに微笑んだ。そこにあるのは確かに悲しみだった。いや、悔しさだろうか。首を横に振った彼は、しかし言葉を継げずに黙り込む。
彼女は強い。強く、聡明で、優しい。そんなことは彼が誰よりも知っている。彼がどれだけ努力しても追いつけないほどに、彼女は素晴らしい人間だ。妬まれ、時に忌避されることさえある彼女は、いつだって彼の目標だ。
「違う」
だからこれは彼の依怗だ。
「そうじゃない」
彼女を守りたいと思ってしまうのは、彼の問題だ。傷つく彼女を見たくなくて、その顔が曇るのを見たくなくて、先回りして悪意の芽を摘んでしまうのは、彼に問題があるからだ。
「お前は弱くはない」
せめてそれだけは伝えなければと、彼は必死に口を開く。
「弱くない」
そう、弱いのは彼だ。彼女を信じきれぬ彼が駄目なのだ。それはわかっているのに止められないのは、そうすることでしか彼女の傍にいられないと感じているがためで……。
彼が再び口を閉ざせば、彼女の瞳が揺れる。二人の間を満たす空気が、嘆きの色に染まる。
今彼女を傷つけているのは、他ならぬ彼自身。だがそれでも彼は、どうしても、彼女を守りたかった。そうすることしか、できなかった。
あなたが誰かに優しくする度に、私の心に雫が落ちる。
黒々としたそれは器の水と混じり合って、そうしていつしか見えなくなる。
でも決して消えたわけじゃない。私の心は少しずつ、少しずつ、そうして濁っていく。
一滴、また一滴と落とされる雫の、その色はその度に違う。それでも濁ることには変わりがない。混ざり合った色はいつしかどぶ色へと近づくのだろう。こんな私にはお似合いだ。
それなのに、そんな私なのに、あなたは優しくしてくれる。
私の心に、雫がまた一つ。
あなたの一挙一動が、私の心に波紋を作る。
このままいけば、いつしか何かが溢れ出す。器に収まりきらなくなったものが、きっと溢れてしまう。
その瞬間をただただ恐れているのに、なのにあなたから離れることができないなんて。
愚かな私は、今日も心を揺らす。
ほら一滴。また、雫が落ちた。
嘘ばっかり吐く人間の戯言なんて、相手にしない。
「君がいれば、他には何もいらないんだ!」
それなのに、彼は今日も笑顔でこの店に来る。そうして花束やら何やらを突き出してくる。生物は駄目だと言っても理解できないのだろうか。彼の口はよく回るけれど、耳の機能は悪いらしい。
「私はしがない店員なので」
そう冷たく言い捨てても、彼が諦めるそぶりはない。本当にどうかしてる。こんな容姿の、真面目だけが取り柄の私に、しつこく言い寄るなんて。
「店が終わったら?」
「真っ直ぐ帰ります」
「ちょっとくらい」
「できません。寄り道しないようにと言われていますから」
この言葉も何度目だろう。でも彼は懲りずに誘ってくる。私のことをなんだと思ってるのか。
「そこをなんとか」
日焼けした手をこちらへと向けてくる彼に、私は首を横に振ってみせた。
「無理です。私は機械ですから」
ロボット。人間は私をそう呼ぶ。名前なんてない。便宜上番号がついてるだけの、ただの機械だ。美しいアンドロイドとは違う。そんな私の一体どこがいいと言うのか。
「でも君がいいんだ!」
それなのに彼は繰り返し言う。融通の効かない真面目なだけの私が、一所懸命に見える私がいいのだと。理解し難い感情だ。
私の方が寿命は短いのに。必ず置いていってしまうのに。なのに欲するなんて。
「申し訳ありませんが」
だから今日も私はすげなく断る。私のこの寿命が尽きる前に、彼が諦めるように。それさえ叶えば、もう何もいらないから。
色とりどりの花が咲く世界に、いつしか私はたたずんでいた。赤、青、黄色、白……数え上げればキリがないほどの、一面の花畑だ。
最後に見たのは病院の天井であったはずなのに。はて、ここはもしや天国か?
そう思って振り返った私の視界に、忽然と少女が現れる。まばゆい金の髪に白いワンピース姿。頭に輪っかを乗せた、わかりやすい天使だ。幼い頃に絵本で見た姿そのまんまだったものだから、私は思わず呆けた顔をしてしまった。私は仏教徒だったのだけれども。
「こんにちは、ヤスオさん」
天使はカタコトの日本語でそう挨拶する。私は呆然としたまま、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「これからあなたを天国に連れて行きますね」
にこやかな天使にそう告げられて、私は気のない声を漏らした。では私は本当に死んだらしい。あんな場所から落ちたのだから当然か。痛かったな。そう思い出す。人生で一番痛かった。
「でもその前に、一つだけ」
先ほどよりは滑らかな調子で、天使はそう続けた。
「人助けをしたあなたには、未来の瞬間のある一秒だけ、見ることができます。あなたのいない未来のことです。どうしますか?」
天使は小首を傾げた。そんな制度があるとは初耳である。私は考えた。一秒だけとは難しい。しかも私のいない未来という限定だ。
「どうします?」
繰り返す天使の微笑みを見ているうちに、ふと気がついた。この天使、誰かに似ている。そうだ、娘だ。まだ三歳の娘がもう少し成長したら、こんな感じの顔立ちになるだろう。そう思った私の脳裏に、一つひらめくものがあった。
「娘の花嫁姿が見たい」
そうだ、娘の幸せな姿を最後に見れたら、きっとそれで心置きなく天国とやらに行ける。
「わかりました」
天使は頷いた。そうして私の顔を見上げて口を開いた。
「それならもっと頑張ってください」と。
途端、天使の姿がどんどんと白けていき、急速な目眩を覚える。世界の天と地が逆さまになったみたいだ。天井がぐるぐると回っている。
—-—天井?
「遠藤さん!」
そこで私は目を覚ました。いや、そう気づいたのは、目の前に人の姿を認めた瞬間だった。
「遠藤さん、わかりますか!?」
肩を叩かれた私は、目だけで合図を送ろうとする。ここは病院だ。わかる。私はわかる。私は生きている。そう、ここは天国ではない。
『頑張ってください』
頭の中で、もう一度あの天使の声がする。そうだ、頑張らなくては。まだ小さな娘を残してなんていけない。私はまだ死ねない。
あの時、花嫁姿を見てしまわなくてよかった。満足してしまわなくてよかった。
私は目を見開き、医療者と目線を合わせる。そうして未来を積み重ねるために、必死に喉を震わせた。
「これは眩い光しかない世界を描いた、コレタカ氏の代表作で——」
無色の世界。そう題された作品は、何も描かれていないキャンバスのように見えた。少なくともテレビの画面で見る限りでは、本当に何も描かれていないようだった。
これはあれか、裸の王様みたいなものか。それとも肉眼で見ればわかる何かがあるのか。
僕ならそれを黒く塗り潰す。一色しかない世界には色の区別が必要ないから、それは無色にも等しいと。
有るものが無いって、少し哲学的かな。でもそれを言うなら光だってきっとそうだ。光がなければ色なんてないし。
そんな風に考えているうちに、テレビは次のニュースへと切り替わっている。色とりどりの派手な祭りの賑わいが映し出されて、僕はため息を吐く。切り替えがはやすぎる。
きっと人々はコレタカ氏の絵のことなんてすぐに忘れるのだろう。名をあげてもそうなのだから、僕の作品なんて存在しないも同然だ。
でも、それでも僕は筆を取る。
無から有を生み出すべく。この世界に何かを、爪痕を残すべく。