最後の桜が散った。
もうこの木は死にかけている。そう樹医に言われていた桜が開花してから丸一年。まるで時が止まったかのように咲き続けていた花が、昨夜の嵐に耐えかねて散った。
きっともうこの木で花が咲くことはないだろうと、今朝方木を見た樹医は告げる。
だが本当にそうだろうか。
散った花びらが浮く川面を見つめながら、私は思う。最後の一本となったこの木が、そう簡単に死ぬのだろうか。この塵にまみれた世界で悠然と立つこの木が、そう簡単に命を終えるのか。ろくに日も差さぬこの世界で生き残った樹木なのだ。
人間などよりよほど強いのではないか。私なんかよりはきっと、この木は長生きするだろう。
「競争だな」
桜色の川を眺めながら私は笑う。
私はきっと来年もこの桜を見る。そしてあの樹医に言ってやるのだ。藪医者め、と。
空耳だってみんなは言うけれど、絶対に違う。
私の耳は、異世界の音を拾うんだ。たとえばそれば歌であったり、誰かの叫びだったり。ここではないどこかで誰かの奏でた音が、私にははっきりと聞こえる。
今日は子守唄。どこかの優しいお母さんが子どもに聞かせている、穏やかで温かな音色。ついつい私も微睡みそうになって慌てる。吊り革に捕まる手から力が抜けそうになる。
昨日は寂しそうな独り言だったから、私も悲しい気持ちになった。一人で泣きそうになって、必死に涙を堪えていた。それと比べれば今日はいい日だ。
毎日毎日、特に帰りの電車では、一番はっこり聞こえる。もしかしたらこの電車はどこかで異世界に繋がっているのかもしれない。なんて考えて、退屈な毎日の彩りにしてみる。
ねえ、もし今日このまま寝過ごしたら、私をどこかへ連れて行ってくれる?
私は天井へとちらと視線をくれて、そう心の中で囁いてみた。
もちろん誰も何も答えてはくれないけれど、その代わりと言わんばかりに子守唄が大きくなる。満足した私は目を閉じて、規則的な揺れへと身を任せた。
——好きなんです。
届かないとわかっているからこそ独りごちた言葉は、一体どこへ運ばれていくのだろう。
目指す道にこの思いは邪魔だから封じたのに。なのに溢れそうになったものは、音にならない言葉となって虚空へと消えていく。
伝えたくない。困らせたくもない。しかし抱えきれない。いっそ捨ててしまえたらよいのに。
そうどんなに願っても思いが絶えることはなく。体の芯の方で確かに何かが燻っている。
——好きでした。
だから私は胸の内で叫ぶ。あなたに届かぬようにと、祈るような気持ちで叫ぶ。いつか耐えきれずにこぼすことがないように。今日も必死に、愚かに。
いつかこの気持ちが消えてなくなるまで。
祈ったところで無駄だ。
幼い頃からそう言われて育ってきた。祈る暇があるなら腕を磨けと、そう叩き込まれてきた。
だから人一倍努力した。拾ってくれたその恩返しがしたいと、必死に銃を構えた。
神なんていない。助けてくれたのはファザーだけ。道端で呻いていた私の手を取ったのは、ファザーだけだった。
でも今、私はその教えを捨てようとしている。
「神様、どうか」
いもしない神を思い、薄汚れた手術室の前で、手を組んで震えている。
「ファザーを助けて」
医者にかかる金はあった。でも医者は首を横に振った。成功の保証はない、と。
無力な私に残されたのは、ただ祈ることだけだ。
愚かな私はなんでもできる気でいた。本当に何もわかっていなかったのだ。できることをし尽くした後はただ、祈るしかないと知らなかった。
「助けてください」
目を覚ましたファザーは怒るだろうか。でもそれでいい。呆れて捨てられたっていい。もう一度ファザーと会えるのだったら、どうなってもかまわなかった。
「また朝焼けが見たいねぇ」
それはばあちゃんが毎朝口にする言葉だった。
窓から空を見上げてはそうぼやくばあちゃんの言う朝焼けを、俺は本でしか見たことがない。
システムによってコントロールされたドーム内は、いつだって規則正しく天気が移り変わる。だけどその中から朝焼けと夕焼けはこぼれ落ちてしまった。
きっと無意味だからだろう。豊穣の雨や光とは違って、それらは植物の育成にだって役に立たない。限られた能力を無駄なものに費やす余裕なんて、俺たちの世界にはなかった。
「うん、そうだね」
でもベット横に立つ俺には、頷くしかなかった。もうすぐ世界から見放されてしまうばあちゃんに、そんな現実を突きつけても仕方がない。仕方がないんだ。
「俺も見てみたいよ」
そう答えればばあちゃんは満足そうに微笑んで眠りにつく。それを見届けた俺は規則正しい生活を送るべく、あの青空の下を目指して扉へと向かうのだ。