最近足元がおぼつかないような感覚がする。気味の悪い浮遊感がある。
どうも人の気配の掴めない、山奥のこの屋敷は自分の家だ。現在居る部屋は書斎で、この部屋は広さに対してあまり明るくない。照明は最低限、窓はやや大きめの枠のものが一つで、最近は照明もつけられず、その窓から入る光だけが頼りだ。その死角は必然的に暗くなる。そんな暗い部屋の隅の方で学友が蔵書を漁っている。少し前に予知、予言者のバイタル、心理分析と統計がどうとか言っていたので恐らくその手の本を物色しているのだろう。学友は時折本の背表紙を払うような動きをしている。
自分はこの家の人間には避けられ気味で、時折家に来るこの学友以外とはふたりきりで居ることは殆ど無い。仲の良い他者の動きがある空間は割と良いものだなと思う。
「お前は未来を見たいと思うか」
唐突に長く続いた静寂を破られ、嫌に淡々とした空気で問いかけられた。
「急に何だよ」
「気になって」
突然の話に考えあぐねる。自分は特段未来というのに興味はない。ただ未来の事を考えても知りたいことを知れるわけでも、美味い飯が食えるわけでもないので、将来を見越した利害の話以外では余り考えたことはない。未来を見るというのも考えなかった。
やや考える。
そもそも未来は神と同程度に不確定で、考えたとて詰まることが無いような気がする。そうとも言えるような未来を見るとすると、一つ言えるのは、極めて稀有なことに集中の一点の身の上でありながら通常より多くただ一つの自身、その死を経験ないし傍観できることだろうか。それはそれで面白そうな気がする。それが見える時点で一点から逸脱しているかもしれないが。
「死を探すなら見るかもしれない」
やや考えてぼんやり思ったことを言った。余り褒められたことではない。元来自分はあれこれ考えるよりも直観的に思ったことの方が多く出る質だった。
「探そうと思うのか」
さっきから妙に平坦な声色だ。部屋の暗さもいや増しているような気がする。
「探すっていうなら未来を見たらだめじゃないか?」
お前のものだし、と学友は続ける。
「そもそも死って探すものか?最初から持ってるだろう」
いつも聞く声よりも少しトーンが低い。違和感、自分の内に少しばかり困惑があるような気がする。なにか落ち着かない。
「探す、死を探すって言うより自分を探すのか。なんでここに居るのか解らないからか」
困惑は己の脳に混乱をにじませた。何度も同じことをしている気がする。
「俺は随分お前を探した。ここに居るとは思わなかったが」
探す。そこまで探されるほどのことはここ最近はなかった。レポート提出のために情報、意見交換をするため頻繁に顔を合わせている筈だ。それに提出期限にもまだ余裕はある。
ここに居るとは思わなかったと、確かにこの書斎に入るのはほぼ無いが、この屋敷は自分の暮らす家だ、居ると思わない訳はないのではないか。
「もう30年だ。ここに人間がいなくなってからは10年」
学友はいつの間にか中年のような姿になっていた。部屋は長く手入れされていないが如く劣化も甚だしく、本棚の本は疎らになっている。
「聞いた話だと、お前は街に用事足しに行くと言って出たっきり帰ってこなかったそうだ。誘拐か遭難かもはっきりしていない」
確かに家の清掃を任せられていた使用人に外出の旨を伝え屋敷を出た。その後の道中で突然意識を失った。誘拐でも遭難でもない。
「最初からここに居る」
自分は道中の林道で後ろから鈍器で殴られ、頭蓋が陥没し、脳が損傷した。やったのは直接面識のない同級生だった。その同級生は外出を伝えた使用人の息子だ。もう死んでいる、自殺だった。
「自分はこの下にいる」
学友は自分が指し示した所を静かに見た。己の視界が白む。
「わかった」
返事の声を聞いたところで、自分の意識は緩やかに沈んだ。
心とはなんだろうか。夢を見るとはなんだろうか。どうすれば自分は生きる覚悟をもてただろうか。
長らく点けっぱなしのテレビから、人道に非ざる行いと半ば焼け焦げた子供を囲み見せつつ糾弾する複数の蛙の音声を聞く。口にたまりきった唾液はヘドロのようなエグみを訴え、薄く開いた口元からこぼれだす。己の眼窩が腐り落ちる様を見る。隣の己は手足を短くして耳を塞いだ。まだ大丈夫だ。人道に非ざると復唱する。
昨日の自分は斧を持った。今日の自分は手を失くした。明後日の自分は耳を削ぐ。
一年前の自分は男の首を落とした。落ちた雁の首は革命の英雄だった。十二8つの目が僕を見る。煌やく明日は誰のためにも為らずと囁いた。俺の世界は変わっていった。
人道に非ざると復唱する。
僕は溶けたマーブルの空を練り歩く。俺の頭が抜け落ちて電球が割れた。割れたガラスに僕のウランが解けた。沢山の自分の頭が融合する。万華鏡を覗き込んだら目が焼けた。
人道に非ざると復唱せよ。
僕の部屋は暗かった。目の前の自分の指先も見えないほどに。
俺は自分を正当化しようとした。僕が僕であるための罪。お母さん、お母さん、お母さん。
俺は、俺はそこにいない。歩く。
ドロドロと滞留する、音には成らない喧騒が沼地のように足を取り、己の頭はその叫喚を聴く。忘れ去った自分の傷の根を探す。俺はまだ夢を見ている、心を見れずにいる。
ぼんやりとした、眠りという休息を不快感なく取るにはどうにも淀みすぎていて、あっても吐き気がするだけな眠気と疲労感、嫌悪感がずっとある。
自分は何かをするにしても、何を見聞きするにしても、いつも何か恐れている。自分のしていることは本当にしていて良いことなのか、目の前の相手が本当に何の打算も悪意もなく自分と接しているのか、自分の考えがそう考えていて良いものなのか、自分の見て聞いているものは本当に幻ではないのか。自分の存在、心の確実性なんていうのは考えるだけ無駄だと強く思ってから見えなくなった。おそらく未だ抱えている他のこともそのうち同じようになるのだろうが、まだ遠い話のような気がする。少なくとも今は何の疑問もなく自らの全てを信頼できるほど物を解ってはいない。
自分は殺されるのが怖い。ただ物理的に殺されるだけならば、死ぬまでの痛覚をある程度恐れはしても死ぬことそのものにはそれほど怖さはない。自分は死ねない殺され方が怖い。全て踏み躙られ貶められるのが、自分の無力が。それ以外の選べた筈の択を取らなかった自分が嫌いで、意思も力も無くその程度でしかない無価値。そうではないのはわかっていてもそう思ってしまう。
長く蹲っていた所から上半身を上げる。己が下敷きにしている、自分の片割れである白服は暫く前から微動だにせず、ただ自分を見ている。その目にはいつものような焼けるが如くの明るさはない。先に自分が絞めた白服の首には痕の一つも残っていなかった。ここでは事象それそのものを個々がそれぞれ自身に反映しようとしなければ何の影響も現さないので当然だった。自分の首には痕がある。
自身の行動の根本的な決定権は自身以外持ち得ないと考るのなら、神とは他ならぬ自分自身なのかもしれない。己が望みそのように動かなければ救いも無い。だからこそ、昔まだ神に祈ることをしていた頃、救われるなぞということも、安らぎを得られることも、一度たりとてなかったのだ。
目尻が妙に冷たい。自分はただ顔を覆う、この己を見られたくなかった。
「君は穢くないし醜くもない。でも真面目が過ぎる。君はほんの小さな子供だった。殺すのはだめだ」
白服がそう言った。自分は何を言えるわけでもなく黙る。
神様へなんていう言葉も祈りも疾うの昔に失くした。母とともに祈る己も死んだ。
「まだ何も信じられなくてもいい。気が済むまで泣こう。ここなら誰も君が泣くのを止めないから」
ただ黒いのだと思った己は黒くしただけだった。ただ白いのだと思った片割れは白いのではなかった。
地面や建物に大量の水滴が落ちる音、水面に雨が落ちる音、冷えた空気。学校の玄関で傘を忘れたことに気づいた半袖半ズボンの少年は庇の下で立ち往生していた。
家から学校は近くはないが遠すぎるわけでもなく、徒歩で行き来しようと思えば多少時間はかかるにせよ小学生でもできる程度だ。それ故少年はバス代やタクシー代などを持たされていない。少年の両親は共働きで、母は夕方の6時を過ぎなければ家に帰ってこない。必然的に傘を忘れたからといって迎えが来るわけでもない。そして少年の学校には共働きの子供を一時的においておく場所はない。自力で帰る以外手段はないのだ。
しかし仮に学校から家への最短ルートを全力疾走したとしても、この雨とこの気温では風邪を引くは必至だろう。だがそれ以外に手立てがあるわけでもない。
十分近く悩んだ後、少年は意を決して走り出した。庇から出た途端に大量の雨水によって着ている服が冷たく黒くなっていく。学校の玄関先から校門を出る所までで衣服はすべて水を吸いきり冷却機関と化した。全身が水気と風で冷やされていく中、少年は家路を急ぐ。
おおよそ40分程度走り続けたところで少年はやっと家の近辺まで来た。単なる通り雨だったのかその頃には雨は止みかけていた。
それからすこしで少年は漸く家に着く。見上げた空には雲一つ残っておらず、夕刻に差し掛かる前の西日が水気と水溜りの残る住宅街を照らしていた。
散々雨に打たれた後で今更快晴になったのが少年は憎らしかった。
快晴
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幼い頃から空と鳥が好きだった。学校からの帰り道はいつも空を見ながら帰っていた。周りを殆ど見ず、足元も見ていなかったので、今にして思えば随分危なっかしい子供だったと思う。
私がパイロットを目指したきっかけは祖父の話だった。祖父は昔複葉機のパイロットをしていたそうで、一度だけその時の話をしてくれた。祖父が初めて飛行機に乗って空を飛んだ時の話だった。祖父の語る空はとても爽やかで開放感に満ち、聞くだけでも胸が踊るようであった。その話をしていた時の祖父はとても楽しそうな、まるで少年のような表情で語っていた。だからこそ話を終え口を閉じた後、どこか傷ついたような物悲しい顔をしていたのが当時の私には不思議だった。その祖父は私が15歳の終わり頃に死んだ。私が軍の航空学校に入学することが決まってすぐだった。
学業は知ることがとても楽しかったので然程難しくはなかった。それより自分は人付き合いに慣れるほうが難しかった。自分は周囲とはどうにも感性がズレていたのか、小さい頃から仲の良い友達というのが殆どいなかった。それ故他者との距離感が掴みづらく、年齢が上がれば上がる程苦手意識が増していた。それでも人間関係を上手く出来ないのは、就こうとしている職務上相当な欠点だったので可能な限り努力した。結果として友人は多数とは言えないが数人は出来た。
18になるかどうかといった頃、私は航空学校を成績上位で卒業し軍に入隊。部隊に配属され、初めて飛行機に乗って空を飛んだ。その時の感慨はとても筆舌に尽くしがたい。こんなにも空が近い、空を飛ぶ、あの鳥と同じところに来たのだと。
その1年後に隣国との戦争が起きた。私は航空兵であったので、当然作戦にあたり出撃した。その後それほどしないうちに敵軍の飛行隊とかち合った。私は敵機もいくつも撃墜した。敵を撃ち墜としたことについては、当時は何を思うこともなかったか、或いは何も思わないようにしていた。
その戦争は6年続いた。最初の一年か二年ほどは戦争の空気も強くはなかった。街中はそれまでと然程変わらず賑わっていたし、その頃は快進撃という様だったので皆大して戦争の先行きを悲観していなかった。しかし三年目の一つの作戦を境に戦況が悪化し始めた。それまでの快進撃により戦線を大いに広げた結果、防衛するに必要な兵力が分散。そのうえ今となっては私ですら失策と断言しえる無謀な攻略戦を開始し、その作戦は大敗を喫した。五年目の半ばを過ぎる頃には兵站は枯渇し、戦線は本土の目前と言えるところまで下がり、その年の暮には本土の一部を喪失した。私が飛行機の操縦席から降りることになったのはその頃のことだった。
戦闘中、不思議なことに私は聞こえるはずのない断末魔を聞いた。その断末魔はひどく壮絶としか言いようがないもので、瞬間的に私の心に埋めようの無い風穴を開け、私はそれに不運にも気づいてしまった。断末魔に取り乱した私は操縦を誤り、左翼に被弾。機体は制御を失い墜落した。
奇跡的に私は死ななかった。だが私はその時の怪我で視力が落ちた。視力の低下によりパイロットには不適合になったと知った時、私は安堵と同時に愕然とした。何があってももう飛ばない、もう飛べないのだと。視力の良さは軍に限らず、すべての航空操縦士の必須能力だった。
6年間戦場で飛行機に乗り続け、生き残った私は相当幸運だった。しかし死に際の断末魔に取り乱してしまった私は、おそらくそもそも軍人には向いていなかったのだろう。
間もなく私は仕事中の事故で重傷を負い、左半身が完全とまではいかないにせよ不自由になった。だが末期戦で人手不足だったためか本土での勤務に切り替わるだけですぐには除隊にはならなかった。
それから少しして国は終戦を迎えた。首都防衛戦とまではいかずとも、国土の大部分を喪失した状態での終戦だった。
それから私は後処理のもので一部任された仕事を終え除隊し、故郷に帰った。親は私が生きて帰ってきたことを喜んでくれた。それから私は公務員職についた。左半身の問題があったので書類関係の仕事だ。元からその類の仕事が得意だったのもある。2年後には良い縁があって結婚、翌年には子供も生まれた。
仕事や子供やで忙しくしているうちに随分と時間が経った。子供が成人した頃、私の父親が死んだ。それから半年たたず後を追うように母も死んだ。その後両親の遺品を整理する中で祖父の遺品類を見つけ、いくつか見た。その中に書かれていたこと、あったもの、そして私自身のの経験から、昔見た祖父の物悲しげな顔の理由がわかった気がした。
遠くの空へ
お題更新までに書ききれなかったため供養がてら抱き合わせ候
「らーらーらー…ららーらー…ことーばにー…できなあい…」
ものすごく聞き覚えのある歌だ。少し前まで唸りながらヘッドバンキングをしていたかと思いきや、急に床に突っ伏し、ややたって今急に気怠げに歌い始めた。暇なんだろうか。確かにここには何もなく、思考することと、今は奇行に走っている白い服のこいつと会話すること以外に何を出来るわけでもないが。だが流石に奇行の連発はやめてほしい。考えたいことに集中できない。ここでは目で捉えなくても何をしているのかは大概認識できる、というか出来てしまうので突然の奇行なんかは一気にこちらの集中力を削ぐのだ。
「うれしくて…うれしくて…ことーばに…できなーい…」
突然耳元で歌い始めた。何のつもりかを確認しようとして横を見た。真顔だ、眉間のあたりに縦線がつきそうな目を見開いた真顔だ。怖い。
「何なんだ」
聞いた途端に歌うのをやめた。
「君が自分を過度に拒絶しなくなったのが感無量で」
「その割には気怠げなようだが?本当にそう思っているのか?」
こいつは時々よくわからない言動をする。基本的に何を考えているかもあまり解らないが。奇行に走った際は輪をかけて解らない。
「君の変化に対して自分は、少なくとも嬉しく思っている」
先程までの怠そうな様子は演技かと思うほど鮮やかにくっきりと笑った。自分の右頬、目元が引きつり、眉間にシワが寄った感覚がする。気色が悪いと、少し拒絶感が戻った。まあ嬉しいというのは元に戻るのに良い状態に近づいているという所からのことだろうが。というかそれ以外であってほしくない、それ以外だった場合吐く。ただでさえ口を開けば自らと自分に肯定的な語りが滝のように出てくるのが常で、そうしている時の目だけでも吐き気がするのに言動まで吐き気を催すようなものだったとしたら殺意が湧く。悪癖とも言えるシュミレートをしてしまい眉間のシワがより深くなったかもしれない。
「自分も戻るために努力はしている」
そも目の前のこいつと自分が互いに両極端なのは、そもそも単独であっては成らないものだからであるし、戻らないということは時間の浪費になる。個人的にも詰まるもののないこの場にいるよりも外界を見たいのは確かだ。しかしあの危機意識の無い、楽天主義と言うかナルシスティックと言うか、どちらも違う気もするがそれ以外に言い表す語彙の見当たらないあの様を自分として受け入れるのは、やはりとても抵抗がある。
白い服のこいつはやや微笑気味の所から瞬きを挟み真顔に戻った。
「君はいつも必要以上に怖がっている」
「わかってる」
反射的に強く発した。そんな事はわかっている。己の心配の半数以上は考える必要も無いような杞憂だ。こいつは嫌いだが自分のことはある程度は分かっているのだろうと考えていたが甘かったか。次の言葉を言おうとしたところで白服は口を開いた。
「君が本当に怖がっているのは己の無力と無価値か」
出そうとしたものはすべて消えた。
「踏みにじられ傷つけられる悔しみ悲しみは、己の不甲斐なさへのものか」
自分は衝動的に白服を倒し、首に手を掛け絞めた。白服も自分も生きてはいないが死んでもいないし死にもしない。白服は表情を変えなかった。
発そうとしたものは言葉にできず、暫くして漸く出たのは掠れ、呻き染みた否定だった。
自分は白服の首から手を離し、馬乗りのまま蹲る。
全てはよく解っていない。まだ何もかも苦しく辛く焼き切れるようで、ただ悲しかった。