雑穀白米雑炊療養

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地面や建物に大量の水滴が落ちる音、水面に雨が落ちる音、冷えた空気。学校の玄関で傘を忘れたことに気づいた半袖半ズボンの少年は庇の下で立ち往生していた。
家から学校は近くはないが遠すぎるわけでもなく、徒歩で行き来しようと思えば多少時間はかかるにせよ小学生でもできる程度だ。それ故少年はバス代やタクシー代などを持たされていない。少年の両親は共働きで、母は夕方の6時を過ぎなければ家に帰ってこない。必然的に傘を忘れたからといって迎えが来るわけでもない。そして少年の学校には共働きの子供を一時的においておく場所はない。自力で帰る以外手段はないのだ。
しかし仮に学校から家への最短ルートを全力疾走したとしても、この雨とこの気温では風邪を引くは必至だろう。だがそれ以外に手立てがあるわけでもない。
十分近く悩んだ後、少年は意を決して走り出した。庇から出た途端に大量の雨水によって着ている服が冷たく黒くなっていく。学校の玄関先から校門を出る所までで衣服はすべて水を吸いきり冷却機関と化した。全身が水気と風で冷やされていく中、少年は家路を急ぐ。
おおよそ40分程度走り続けたところで少年はやっと家の近辺まで来た。単なる通り雨だったのかその頃には雨は止みかけていた。
それからすこしで少年は漸く家に着く。見上げた空には雲一つ残っておらず、夕刻に差し掛かる前の西日が水気と水溜りの残る住宅街を照らしていた。
散々雨に打たれた後で今更快晴になったのが少年は憎らしかった。


















 快晴

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幼い頃から空と鳥が好きだった。学校からの帰り道はいつも空を見ながら帰っていた。周りを殆ど見ず、足元も見ていなかったので、今にして思えば随分危なっかしい子供だったと思う。
私がパイロットを目指したきっかけは祖父の話だった。祖父は昔複葉機のパイロットをしていたそうで、一度だけその時の話をしてくれた。祖父が初めて飛行機に乗って空を飛んだ時の話だった。祖父の語る空はとても爽やかで開放感に満ち、聞くだけでも胸が踊るようであった。その話をしていた時の祖父はとても楽しそうな、まるで少年のような表情で語っていた。だからこそ話を終え口を閉じた後、どこか傷ついたような物悲しい顔をしていたのが当時の私には不思議だった。その祖父は私が15歳の終わり頃に死んだ。私が軍の航空学校に入学することが決まってすぐだった。
学業は知ることがとても楽しかったので然程難しくはなかった。それより自分は人付き合いに慣れるほうが難しかった。自分は周囲とはどうにも感性がズレていたのか、小さい頃から仲の良い友達というのが殆どいなかった。それ故他者との距離感が掴みづらく、年齢が上がれば上がる程苦手意識が増していた。それでも人間関係を上手く出来ないのは、就こうとしている職務上相当な欠点だったので可能な限り努力した。結果として友人は多数とは言えないが数人は出来た。
18になるかどうかといった頃、私は航空学校を成績上位で卒業し軍に入隊。部隊に配属され、初めて飛行機に乗って空を飛んだ。その時の感慨はとても筆舌に尽くしがたい。こんなにも空が近い、空を飛ぶ、あの鳥と同じところに来たのだと。
その1年後に隣国との戦争が起きた。私は航空兵であったので、当然作戦にあたり出撃した。その後それほどしないうちに敵軍の飛行隊とかち合った。私は敵機もいくつも撃墜した。敵を撃ち墜としたことについては、当時は何を思うこともなかったか、或いは何も思わないようにしていた。
その戦争は6年続いた。最初の一年か二年ほどは戦争の空気も強くはなかった。街中はそれまでと然程変わらず賑わっていたし、その頃は快進撃という様だったので皆大して戦争の先行きを悲観していなかった。しかし三年目の一つの作戦を境に戦況が悪化し始めた。それまでの快進撃により戦線を大いに広げた結果、防衛するに必要な兵力が分散。そのうえ今となっては私ですら失策と断言しえる無謀な攻略戦を開始し、その作戦は大敗を喫した。五年目の半ばを過ぎる頃には兵站は枯渇し、戦線は本土の目前と言えるところまで下がり、その年の暮には本土の一部を喪失した。私が飛行機の操縦席から降りることになったのはその頃のことだった。
戦闘中、不思議なことに私は聞こえるはずのない断末魔を聞いた。その断末魔はひどく壮絶としか言いようがないもので、瞬間的に私の心に埋めようの無い風穴を開け、私はそれに不運にも気づいてしまった。断末魔に取り乱した私は操縦を誤り、左翼に被弾。機体は制御を失い墜落した。
奇跡的に私は死ななかった。だが私はその時の怪我で視力が落ちた。視力の低下によりパイロットには不適合になったと知った時、私は安堵と同時に愕然とした。何があってももう飛ばない、もう飛べないのだと。視力の良さは軍に限らず、すべての航空操縦士の必須能力だった。
6年間戦場で飛行機に乗り続け、生き残った私は相当幸運だった。しかし死に際の断末魔に取り乱してしまった私は、おそらくそもそも軍人には向いていなかったのだろう。
間もなく私は仕事中の事故で重傷を負い、左半身が完全とまではいかないにせよ不自由になった。だが末期戦で人手不足だったためか本土での勤務に切り替わるだけですぐには除隊にはならなかった。
それから少しして国は終戦を迎えた。首都防衛戦とまではいかずとも、国土の大部分を喪失した状態での終戦だった。
それから私は後処理のもので一部任された仕事を終え除隊し、故郷に帰った。親は私が生きて帰ってきたことを喜んでくれた。それから私は公務員職についた。左半身の問題があったので書類関係の仕事だ。元からその類の仕事が得意だったのもある。2年後には良い縁があって結婚、翌年には子供も生まれた。
仕事や子供やで忙しくしているうちに随分と時間が経った。子供が成人した頃、私の父親が死んだ。それから半年たたず後を追うように母も死んだ。その後両親の遺品を整理する中で祖父の遺品類を見つけ、いくつか見た。その中に書かれていたこと、あったもの、そして私自身のの経験から、昔見た祖父の物悲しげな顔の理由がわかった気がした。



 遠くの空へ
お題更新までに書ききれなかったため供養がてら抱き合わせ候

4/13/2024, 12:41:26 PM