花が咲く野原を二人の子供が走り回っている。片方は自分でもう片方は幼馴染の女の子だ。楽しそうにじゃれ合いながら原を駆ける。今はもう朧げでよく思い出せなくなった足音と笑い声が、無音でありながらも響く。二人は花が咲いているように笑っている。
ずっと帰りたかった。帰れるわけもないのに。
―
鉛色の曇天が再生の始まった街を覆っている。春先の風は冷たく、上がり始めた気温もまだ肌寒さを覚える程度だ。敗戦から一年程度しか経っていない街には未だ重暗さが漂い、街を歩く人間の空気も軽いものはほぼ無い。戦争では数え切れない程の死者が出た。夫をなくした、親兄弟や子をなくしたものもいれば帰還してきて見たものが瓦礫か殆ど更地と化した家だった者もいる。行方を探しに聞き回るものが一時は多かった。道の脇や路地裏から表を見る、一際薄汚れた格好の大小複数の人影は通りを行く者たちの様子を伺っている。一部は通りを見ることもなく項垂れ、そのうちの一人二人は既に生きてはいないように見える。
自分がこの街に帰ってきた時、多くの者と同じく家に帰ろうとした。多くの建物が損壊、崩壊し、どこがどうであったか分かりづらい街を記憶と建築物の特徴、道の作りから推測しながらなんとかたどり着いた家はひどい有り様だった。もともとあった二階部分はほぼ無くなり、一階は損傷こそすれ構造そのものはおおよそ無事だったが、一部には焼けた痕跡があった。家具や貴重品の類は逃げる際に持ち出したか、あるいは素材か売買ためとして持ち去られたか殆ど何もなかった。酷かったのは一番奥の部屋だ。その部屋には死体があった。自分の弟妹、一番末の二人。どちらにも酷い暴力の痕があった。血の臭いと鼻に張り付くぬめりとした青臭さ。腐敗の兆候はほぼ無く、臭いもあまり時間経過があった訳では無さそうだった所からして、季節を加味してもそれほど前に死んだわけではなかったのだろう。一番奥の部屋にいたのは偶然いたのか逃げ込んだのか。
見つけた後に自分がどうしたのかはよく覚えていない。気づけば埋葬を終えていた。死体を拭いたのか携帯していたハンカチは使えないものになり、服も一部汚れていた。両親や上の兄姉、末弟たちより少し上の弟たちの行方は今もわからない。
一年経っても全身が冷えていくような感じがする。
そこまでで自分は思い返すのをやめ、仕事に間に合うよう道を急ぐことにした。道端には春一番に咲いてくる花が蕾の状態で在った。
「誰よりもずっと。誰よりもって具体的にどんな誰でどのくらいのことだ?ずっとってなぜそう言える?」
なかなか自分の目を見てくれない黒い長衣の痩身は最近たまに自分に問いを投げる。喜ばしい変化だが投げられるのは大概捻くれた質問だ。あまり考えず印象をストレートに返すのでは返答に対し大体不満げにするか、その返答を鼻にも引っ掛けない。内容はだいぶ意地が悪く、詳しく突き詰めて考えるもなかなか難しい、一概には言えないというものが多い。今回も回りくどいと言うか面倒くささのある質問だ。考えることがと言うより考えることによって見える部分が面倒くさいと言おうか。しかし返さなければ返さないで長衣は機嫌を悪くするのだ。
「上手くできないと想定する、される自分が『誰』で、無根拠の自己承認が『ずっと』じゃないか?」
うまく言えないがなんとか言語に起こして返す。少なくとも今の自分にとっては一番自信のある答えだ。長衣はすぐには答えず黙って内容を反芻している。相手が黙っている間、自分はもう一度問いについて考える。
誰よりもというのは比較する言葉だ。誰よりも強いとか誰よりも優しいということが多いか。しかし〜〜よりもと語られる際は根拠に乏しい飾り言葉であることが多い。思考が固定化されている、あるいはそのように誘導しようとする際にも出やすいだろうか。ずっとというのは長くそうである、あったという意味や、前後の言葉を強調する単語だ。深さを表現する言葉とも言えるか。誰よりもずっととつなげた場合修飾性が高い。他者を下ろすニュアンスもある。修飾というのは歴史的に他者から侮られないようにするものだった。しかしそれは裏返せば、それがなければ侮られるという認識にもつながるだろうか。だとするとそこにあるのは理想か?理想は現実に多少なりとも足らずがなければ出ないものだったか。
生憎心理学に詳しいわけではないのでなかなか腑に落ちる考えに至らない。そうこうしているうちに長衣が口を開いた。
「何を指したものだとしても、何かへの否定をもって評価されるのは嫌だな」
不甲斐ない。長衣はそう続けた。
とても長い間兄を待っている。僕の直ぐ側の兄は肉を失って久しい。
僕と兄には親がいなかった。はじめからいなかったわけではないが流行病で早くに死んだと兄が言っていた。僕と兄はそれでもなんとか暮らしていた。そんな中、ある日僕は誘拐された。すぐには殺されず、おそらくかなり長い間玩具にされた上で、僕の行動の何かが気に入らなかったのか殺され、どこかもわからない場所に捨てられた。最初は帰ろうとして藻掻いていたがどうにもそこから動けず、暫くすると藻掻くのもやめてしまった。それからずいぶんたって兄が僕のいる場所に来た。兄は僕を見つけた。相当必死に探したのだろう、兄はやっと見つけたと言って泣き崩れた。身寄りのない身の上でどこに行ったかもわからないものを探し続けることはとても難しかっただろうに、それでも僕を見つけてくれた。僕はやっと兄と同じところに帰れると思った。兄は僕のずいぶん風化した骨をかき集めて抱え込んだまま、何日もそこから動かなかった。そして兄は僕の骨を抱えたまま半ば自殺のような形で死んだ。兄が僕から離れてしまった。
それからずっと僕は兄とまた会えるのを待っている。
自分ならできる、自分にしかできないことがある。
目の前の白い服のこいつはよくそう言う。何を根拠にそう言えるのか。
目の前で喜々として自らを語る者を見る。こいつは自分の双子の兄弟のようなもので『自分』を構成するものの一部、その中の分離した片極で戻るべき状態に戻っていないものだ。それの話は感覚的に1時間近く前から続き、至極丁寧で綺羅々しい語りだ。己の顔は心情を反映しさぞかし機嫌の悪そうな表情を作りだしているだろう。無視しようにも認知に直接割り込んでくる長話は注意を背けるものの存在しないこの場では躱せず、それどころか無視すればするほど語りはエスカレートする。仕方なく話を聞きはするのだが、こいつの存在はどうにも自分の神経に障る。抑揚もくっきりと鮮明で流れるような語り口、さぞかし愉快なのだろう空気、身振り手振り。何より『光量』の多い目。
こいつの目を見ていると吐き気がする。
己と完全に正反対。まるで一切不安心配のなさそうなこの者が自身と自分を同様として扱うことに苛立つ。確かに外を見て不安ばかり並べる自分も、見れば然とある明るさを見ようとしないと言えばそうなので、懸念を一切持ちもしないこいつとある意味同様といえば同様なのかもしれないが。それでも苛立つものは苛立つ。どうにも嫌悪感が湧く。こいつと同じなのは心底嫌だ。
しかしそのような状態ではもとに戻るのは難しい。物事は両方の進行方向が合って初めてまともに進むものなのにもかかわらず、左右が別の方向へ動こうとすれば碌な事にならない。そうはならないように安牌を取った結果『自分』は動けずにいる。すでにこいつは元通りになることに然程抵抗はないらしく、こいつが自分に統合されたとて『自分』には何も問題はないの事は己もわかっているのだが、自分はおかしなプライドがある故に未だ受け入れられずにいる。もともとは同じであったにも関わらず分離してからはどうにも受け入れられない。
今も目の前のそいつの目を見て吐き気を催している。まだ暫く受け入れることはできそうにない。
一つだけ破ってはならない約束があった。燃え盛る炎の中、僕を一人逃す前に最後に母が言ったことだ。
何があっても生きる。僕はその約束を守るためだけに生きてきた。親も家も居場所もない僕が生きるためにしてきたことは人にとっては有害なものだった。それ以外どうすればいいのかわからなかったけれど、それでも約束のためにずっとそうしてきた。それくらい僕にとって母は唯一の存在で、その母との約束はただ一つの縋るものだった。
その約束を破ってしまった。守ることができなかった。今まで僕はそのために人を侵害してでも生きてきたのに。出来もしなかったならいったいそれは何のために、何の意味があったんだ。
生きろと言われて生きられなかった。ただ人を騙し傷つけ、どうしても必要だったかもしれない人から盗み奪って、その上で死んだ。
碌なことをしてこなかったが故の当たり前であるべき報いだろうか。ひどく苦しく焼けるような感覚がするのにとても寒い。
別に自分は特別不幸でもなんでもない。すべてが燃えたあの日からみんな同じだった。それでも真っ当に生きようとしていた者もいた。それなのに自分は。
どうすればよかったのだろう。真っ当な生き方をしようとしても技術もなければ知識もないし力もなかった。頭も足りなかったから真っ当じゃなくても上手く立ち回ろうとしたってできなかった。なんとかしようと精一杯努力しても結局このザマだ。
出来が悪い。碌でも無い。なんの価値があるんだろうか。
せめてもっと頭が良ければ。せめて何か才能があれば。もっと違ったかもしれないのに。
悪事ばかり働いてそのくせ死んで本当に、どの面下げて今更。
本当のことを言えばあの時母と共に死にたかった。先もなにもないのに置いていってほしくなかった。約束をせずにずっとあそこに留まっていれば良かったのかもしれない。そうすれば人に迷惑もかけなかったかもしれない。でもそれは母の望みに反してしまう。守ろうとしても反していたのにそれすら。
どうすればよかった、どうすれば、どうすれば、どうすれば。
どれだけ考えても答えが出ない。