「誰よりもずっと。誰よりもって具体的にどんな誰でどのくらいのことだ?ずっとってなぜそう言える?」
なかなか自分の目を見てくれない黒い長衣の痩身は最近たまに自分に問いを投げる。喜ばしい変化だが投げられるのは大概捻くれた質問だ。あまり考えず印象をストレートに返すのでは返答に対し大体不満げにするか、その返答を鼻にも引っ掛けない。内容はだいぶ意地が悪く、詳しく突き詰めて考えるもなかなか難しい、一概には言えないというものが多い。今回も回りくどいと言うか面倒くささのある質問だ。考えることがと言うより考えることによって見える部分が面倒くさいと言おうか。しかし返さなければ返さないで長衣は機嫌を悪くするのだ。
「上手くできないと想定する、される自分が『誰』で、無根拠の自己承認が『ずっと』じゃないか?」
うまく言えないがなんとか言語に起こして返す。少なくとも今の自分にとっては一番自信のある答えだ。長衣はすぐには答えず黙って内容を反芻している。相手が黙っている間、自分はもう一度問いについて考える。
誰よりもというのは比較する言葉だ。誰よりも強いとか誰よりも優しいということが多いか。しかし〜〜よりもと語られる際は根拠に乏しい飾り言葉であることが多い。思考が固定化されている、あるいはそのように誘導しようとする際にも出やすいだろうか。ずっとというのは長くそうである、あったという意味や、前後の言葉を強調する単語だ。深さを表現する言葉とも言えるか。誰よりもずっととつなげた場合修飾性が高い。他者を下ろすニュアンスもある。修飾というのは歴史的に他者から侮られないようにするものだった。しかしそれは裏返せば、それがなければ侮られるという認識にもつながるだろうか。だとするとそこにあるのは理想か?理想は現実に多少なりとも足らずがなければ出ないものだったか。
生憎心理学に詳しいわけではないのでなかなか腑に落ちる考えに至らない。そうこうしているうちに長衣が口を開いた。
「何を指したものだとしても、何かへの否定をもって評価されるのは嫌だな」
不甲斐ない。長衣はそう続けた。
4/10/2024, 3:45:43 AM