23
「さすがに道が混んでいる。駅周辺を抜けるまではこのような感じだろうな」
渋滞気味の道路をゆるりと走らせながら、我が社の社長・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)はそう言って少し困った顔で笑う。
俺は助手席に座りながらどうにも落ち着かない心を鎮めようと、こっそり深呼吸してみたり別の事を考えるように努めようと努力していた。だが、余りにも唐突かつ予想外なこの状況の前では、それらの行為は少しも意味を成さなかった。
(―――ってか無理だろ!凪様…じゃなかった、凪社長直々に運転されているプライベート用車の助手席に乗ってるんだぞ…!?)
目立ちたくないと言いつつ乗っている車は超が付くほどの高級車で、内装たるや全てがラグジュアリー。
俺のような一般人が乗るのが本当に申し訳なくなってくる程である。
そもそも元々護衛を任されていたとはいえ、今となっては大企業の社長兼取締役と一般部署に勤める一社員である。同じ社内に籍を置いていても、その差は一目瞭然であった。
(…そりゃ、あの頃はよく会話する事はあった―――けど)
帝鐵コーポレイションと我が火鋤神株式会社が争った「帝火抗争」。俺と八神隊長、同僚の東城翔は先代・火鋤神佐近直属の護衛であった。
抗争の最中、敵の刃に倒れた佐近から社長の座を譲り受けた凪は、社長の座と共に俺達護衛をも共に譲り受ける事になる。
護衛といえば所謂SPのようなものと認識されるかもしれないが、この場合に於ける"護衛"とは言わば懐刀のようなものである。
敵の調査を行う事も勿論、命とあらば奇襲を仕掛け、命を賭け敵と刃を交える事など幾度もあった。
故に、俺達―――少なくとも俺にとって主人・火鋤神凪の存在とは己の命そのものであり、その言葉は絶対的―――命令というよりかは神託に近いようなものであった。
先代・左近に仕えていた時はそのような感情は抱かず、主君と部下の関係性そのものであったと記憶している。
けれどこの火鋤神凪という人物に仕えるようになると、その関係性はまるで違った。
(―――なんつーか、神様に近いような人と会話してるような感覚だったんだよな)
それは火鋤神凪という存在そのものがそうさせるのかもしれない。
少年のようなあどけなさを持ちながら、深碧色に一滴の金を落としたその瞳は常人離れした雰囲気を彼に纏わせる。
朱殷色の長い髪を一つに高く結び、常に和装を身に纏い、表情から一切の真意を悟らせぬその姿は君主そのものだ。
そして、少し低く艶のある声―――
あの姿とあの声で死ねと命令されていたら、当時の俺であれば一寸の迷いなく自死していただろう。
それ程までにこの人に心酔しきっていた。
(もしかしたらあの時は抗争の雰囲気でそういう感じになってたのかも知れねえな)
兵士が戦時中に経験する心理的状態に"従順性"や"英雄崇拝"といったものがある。
あの頃の自分が、それに近い状態だったと考察すれば納得がいく。
ただ―――。
それを鑑みたとしても、火鋤神凪という人物が人を限りなく強く惹きつけ、また恐ろしい程人に畏怖の念を抱かせる存在である事には変わりない。
現に現在、社長である火鋤神凪に対して好意的な印象を持っていない人物に出会った事は無く、火鋤神凪が進める社の政策に不満を抱く者は存在しない。
そう考えると、少し末恐ろしい人物ではある。
(年齢不詳だしな…見た目は俺より全然年下に見えるんだけど、社長の妹の翠様が幼かった頃に既にこの見た目だったって噂もあるし……)
全てに於いて謎めいている―――。
「…どうした、俺の顔ばかり見て。そんなに男前か?」
そのような事を考えていたら自分でも気付かぬ内に社長の顔を凝視してしまっていたらしい。
社長はそう言って悪戯な顔で笑ってみせる。
「す、すみません!…いや、その…どうして今日は俺を連れ出して下さったのかと思いまして」
俺は誤魔化す為に咄嗟にそう言った。
何となく、社長の謎について考えていたとは言いづらい。
「んー?」
社長は運転しながら顎に手を触れる。
「さあ、何でだろうな。まだ秘密だ」
そう言うと悪戯に目を細めた。
「秘密…ですか」
秘密にする程の何かがあると言う事だろうか。
社長は暫くそのまま黙って運転していたが、不意に「なあ雷生(らいせい)」と口を開く。
「お前は何でクリスマスが嫌いなんだ?」
「…っ!」
突然の核心を突く質問に思わず俺は怯んでしまう。
「どうした、言いづらい事か?言えないなら無理に答えなくて良い」
「いえ、そう言う訳じゃ無いんですが……聞いても特に面白い話じゃないですよ?」
「構わない。お前さえ良ければ教えてくれないか」
俺は一度瞼を閉じ、深く息を吐く。
この話をするのは少しばかり、心の準備が必要になるのだ。
気付けば車は混雑を抜け、夜の市内を駆け抜けていた。光の線となって視線を通り過ぎてゆく色とりどりのネオンが美しく、眩しい。その中で、少し遠くに立ち並ぶオフィスの高層ビルは黒く暗く、小さな灯りを静かにそっと灯している。
―――目まぐるしい今に埋もれていても、決して消えず常に其処に存在している過去のように。
「俺の両親は、俺がちっさい頃に離婚しました。親父の顔はよく覚えていないですけど、唯一覚えているのは俺がハイハイしている時見た、母と言い争っている姿だった。そんな頃の事を覚えているんだから、よっぽどショックだったんでしょうね、当時。
それから母は女手ひとつで俺を育ててくれていましたが、母はそりゃあもう厳しい人で、俺が少しでも何か出来なかったり間違えたりしたら、すぐに殴ってくるような人でした。まあ、今考えてみれば母も全て一人で仕事に家事に子育てとやらなきゃいけなかった訳ですから、大変だったんでしょう。世の中も、今みたいに子育てに手厚い訳でも無かったですし。
―――前置きが長くなりましたが、そんな訳で母は仕事で家にいない事も多かったんです。学校の行事にも来れなかったし、当然、クリスマスも誕生日も、イベント事はうちにはありませんでした。
学校の奴らが話すプレゼントの話や、嫌でも見かける街中の装飾、幸せそうなカップルや家族を見るのが本当に本当に嫌だった。
それをいい大人になってもいつまでも引きずっている―――って訳です」
まあ、今は一緒に過ごす恋人が居ないっていう妬みが一番ですけど―――そう言って俺は嗤った。
(…あれ?)
何らかしらの反応がすぐに返って来るかと思っていた俺は、何も反応がなく、車内が沈黙に包まれている事に気付き、運転席の方を見る。
赤信号で止まっている中、社長はじっと、まっすぐにこちらを見ていた。
(…!?……しゃ、社長が…俺を…見つめている…!?!?)
緊張か動揺か、それとも別の何かなのか、鼓動が速くなるのを感じて俺は思わず目を逸す。
「――――すまない」
どうして良いのか分からず俺が己の膝をじっと見つめていると、社長は少し経った後そう言った。
俺は思わずバッと社長の方を再び見る。
「なっ……え!?何で凪社長が謝るんですか!」
社長は今度は伏し目がちに、とても悲しげな表情を浮かべていた。長い睫毛が眼に影を落としている。
「そのような理由だったとは。辛い記憶を思い出させてしまったな」
「いえ、全然大丈夫っす…!…こちらこそ、社長にそんな思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
こんな話、言うべきじゃ無かった。
けれどどうしてか、凪社長にはつい全てを話してしまうし、知っていてほしいと思ってしまう。
(…あの頃の信仰心がまだ抜けてないのか?いや…それとは何か違う気も…)
「……雷生」
社長は赤い信号の光を見つめながら、ぽつり、と呟くように言った。
「俺にはお前の過去を変える事は出来ぬし、お前の過去にもなってやれない。
―――けれどお前の"今"になれたら嬉しく思うし、今日も含めこれからそうなれるよう努力しよう」
社長はそうして、俺の方を見、菩薩の様な優しい顔でそっと笑った。
一回大きく心臓の音が鳴る。
思わず俺は目を見開いた。
「…あ…ありがとう…ございます…?」
顔が熱い。俺はそのような間の抜けた返事を返すと再び己の膝へと視線を戻した。
(な…な…なんだ…!?お、俺の"今"!?え!?今ってなんだよ!?いや…そんな深い意味は無いのかも…。マジでどうなる、俺……!?)
信号か青に変わる。
車は夜をゆっくりと駆け出していった。
22
「今年はプレゼント貰えっかなあー?」
同居人・東城翔(とうじょう かける)はそう言って寝転がりながらこちらを振り返る。
やや高揚したその声と、ニヤついているのを隠しきれていない顔に無性に苛ついた俺は、持っていた本を隣に置き、近くにあったクッションを投げ付けた。
「いてっ!…ったく、ひでぇなあ。こんなに男前で愛しの恋人に対して容赦がねぇよ、全く」
「…うるさい。お前が調子に乗っているからだ」
俺はそう投げ捨てるように言うと、再び本を読み始める。
「ちぇっ、何だよ。俺に優しくしておかねえと明日サンタが来なくても知らねえぞー!!」
サンタはどこからでも見てるんだからな、と翔はこちらを前のめりになりじっと見つめながら言った。
俺は返事を返さぬまま、本で己の顔を隠す。
(…ったく……)
俺は心で溜息をついた。
いつもの2割増くらい調子に乗っている翔も憎たらしい。が、それ以上に今の反応に可愛らしさを抱いていたり、また明日枕元に置かれたプレゼントを嬉しそうに抱きしめ、開けている姿を想像するだけで心がほんわりと温かく、顔が綻んでしまうほど、己が奴に溺愛している事が心底腹立たしいのである。
そんな事悔しくて絶対に奴に知られたくない俺は、本を顔の前で掲げたまま、奴に背を向けソファに寝転ぶのであった。
聖夜の夜まで、あと少し。
21
「わあああああ!!!」
その瞬間、俺の叫びは風呂場で何重にもなって響き渡った。
「何って見ての通り、柚子風呂に決まってんだろ。ほれ、もう一丁!!!」
元気よくそう掛け声を上げて東城翔(とうじょう かける)は俺が入っている浴槽へと思い切り柚子を投げ入れてゆく。
投げる勢いが強すぎるせいで、柚子は湯の表面に振れた瞬間、爆発かと思う程の轟音と水しぶきを上げて湯の中へと入っていった。
「おい、そんなに強く入れなくても良いだろう…!そもそも何個入れるつもりだ」
既にもう二十個ほどは入っている。いくら柚子風呂だと言っても、これは入れすぎと言って良いだろう。
翔は風呂場の入り口付近に仁王立ちしている。
両手には柚子を更に二個づつ持ち、自信に満ち溢れた表情でこちらを見ていた。
「何言ってんだ。柚子風呂なんてのはな、柚子を入れれば入れただけ効果効能があるってもんだ」
「そのような事は無いと思うが…。そもそも冬至はもうとっくに過ぎただろう」
俺は追加で投げ入れられる柚子を避けながら言った。
「分かってねえなあ。イベントなんてのは、"今日だ!"って思ったその日にやりゃあ良いんだよ。クリスマスが夏だって思うなら夏にやりゃあ良い。今は令和の時代だぜ、もっと自由に、フリーダムに行こうぜ!!」
「いや、確かに一理あるが…。とは言えさすがに極論過ぎだろう」
「良いじゃねーか。ほら、それに柚子の良い香りでリラックス出来るだろ」
確かに―――俺は気がつけば頭頂部に乗っていた柚子を手に取り、鼻に近付け少し嗅いだ。
爽やかな酸味のある柚子の香りが心地良い。
「―――この前、俺風邪ひいただろ。で、久々に風邪引いたら結構辛かったんだよ。だから…お前にはそんな思いしてほしくなくてな」
だから柚子を箱買いしてきたんだよ―――翔は少し照れくさそうにそう言って笑った。
(…つまり、俺の身体を労って柚子風呂を―――)
先程までこの男の挙動を全く理解出来なかったのだが、そう聞いてしまうと照れくさいやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら、様々な感情が俺の中で沸々と湧いてきた。
俺はどう反応していいのか分からず、思わず翔へ背を向けた。
翔は照れ隠しなのか、そんな俺に向かい無言で次々と柚子を投げつけていく。
ぽこぽこと頭に柚子を受けながら俺は目を閉じた。
(確かに嬉しい。思えば突然箱で柚子を買ってきて、いつもは面倒臭がって嫌々やってるくせに今日は当番でも無いのに風呂掃除に湯船の準備まで突然し始めたと思ったが―――俺の身体を気遣っての事だったのか)
柚子の香りが途端に照れ臭く感じて、俺は思わず鼻まで湯に浸かった。
(先程からぽこぽこと頭に柚子を投げてくるのも愛情の内というわけだ)
このような幼稚な愛情表現もその心情を知れば愛おしさすら感じる――――
「―――訳無いだろ。くらえ」
俺は湯から顔を出すと、浮いていた柚子を掴み、振り向きざまに思い切り翔に向かい投げ付けた。
弾けた柚子の香りが鼻腔をくすぐる。その感覚がくすぐったいのか、湯にのぼせたのか、俺は頬が熱くなっているのを感じた。
20
街中の至る所からクリスマスの圧を感じるのである。
赤や青、金色の光できらきらと眩しく装飾された木々や建物。そこかしこの店先に置かれたサンタやトナカイの光る置物。ツリーなど十歩に一本は置いてある。
極めつけはどこからも流れてくるクリスマスソングである。もろびとナントカやナントカキャロルだとか、如何にもクリスマスといった曲が歩く度にそこかしこから耳に入り込み、鼓膜を攻撃する。
「くそが…っ!」
俺は思わず小さく毒付いた。
どこを見てもクリスマス、クリスマス、カップル、カップル―――
(今年も相手がいねえのかよおおおお!!!!畜生がああああ!!!!)
どこにもぶつけようが無い心の叫びは、ただ虚しく己の脳内でこだまするだけであった―――。
上司の八雲さんは結婚しているし、最近知ったのだが同僚のゴリラ―――もとい東城ですら恋人がいるというのだ。
(つまり!!職場で!!俺だけが!!!恋人がいねええええあああ)
今年もこの病が発症する季節がやってきた。このクリスマス発狂病は12月25日まで続く病で、そろそろ毎年恒例のイベントのようになりつつある。
去年はどのように過ごしていたか。記憶にないが、確か一人で家でドラマだかアニメだか見ながらケーキとチキンを食べて過ごしたと思う。
クリスマスは嫌悪しているが、かといって季節もののウマいものを食い損ねるというのも負けた気がして嫌だった。
今年はどうするか。とにかく『何かに集中して過ごしていたら気がついたらクリスマスが終わっていたね』という状況を作ることが重要である。
(…いっそ山にでも行ってみるか。山寺に修行にでも行って煩悩を滅殺するか)
来るXデーに備えてあれやこれやと画策を練って歩いていると、思考を巡らせるのに集中し過ぎたのか、気がつけば俺は駅近くの大通りへと辿り着いてしまっていた。
「…しまった」
普段の何もない時の俺は、この大通りを通り駅へと向かい、そこから電車に乗り家へと帰宅する。
だがこの時期は駄目だ。
この大通りはクリスマス時期になるとイルミネーションをこれでもかという位に飾り付けする。
普段の倍ほどの人だかりが発生し、それらは当然の事ながらカップルらしき者共でほぼ八割は占められている。
その為、俺はこの時期になるとこの大通りを避け、わざわざ遠回りする形で近くの公園を抜け、駅へと向かうようにしている。
(くそ、ついいつもの癖でこっちに来ちまった)
面倒だが引き返して公園を抜けるか―――そう思い踵を返したその時である。
「どうした。駅に行くんじゃないのか?」
耳ざわりの良い、それでいてよく聞き慣れた声。
背後から突如声を掛けられ、俺はバッと思い切り振り返った。
イルミネーションを背に立つその人物は、話しかけられなければ特に印象に残らぬ出で立ちをしていた。
黒い大きめのダウンコートを着、フードを目深に被っているせいで顔は見えない。
グレーのスラックス、黒の革靴も別に普通ではあるが、強いて言うならよくよく見てみればかなりの値打ちものであるであろうという事くらいである。
背は俺よりも十数センチほど低い印象であるから、百七十数センチといったところであろう。
「……えっと…誰すか?」
確かによく知った声なのに誰だか全く分からない。
思わずそう返す俺に、その人物はこちらへ数歩近付き、フードを少し上へずらしながら顔を見上げた。
「酷いな。俺の事はすっかり忘れたか?」
深碧の瞳、少年のような可愛らしく端正な顔。
長い朱殷の髪の一束が、はらり、とダウンコートから零れ出た。
「んなっ…!は!?な、凪さ―――じゃなかった。社ちょ―――」
思わず後ろへ転びそうになりながら俺は声を上げた。
目の前の男は即座に俺の口を押さえる。
「こら。―――バレたらどうする」
そう静かに注意すると、男は俺の口から手を離し、辺りをそっと見回すと、俺の腕をおもむろに掴んだ。
俺が何も言えずに動揺しているのをよそに、男は通りの横にある細い路地へとそのまま俺を引っ張っていく。
「―――ここなら良いだろう」
路地の奥まで来ると、男はそう言って被っていたフードをそっと外した。
後ろに束ねた朱殷の髪が風に靡く。
火鋤神凪(かすくがみ なぎ)。現在俺が所属している会社『D/vision(ディビジョン)』の社長であり、かつて大規模な抗争があった際、俺が命を賭して護衛していた人物である。
「しゃ、社長!すみません…!まさかこんな所にいらっしゃるとは。あ、まさかお一人で!?危険すぎませんか!?っつーか洋装じゃないですか!社長の洋装初めて見たなあ」
衝撃的過ぎて矢継ぎ早にあれこれ話していると、凪社長は呆れたように息を吐きながら腕を組んだ。
「全く―――相変わらず忙しない奴め。…あのな。俺はただアレを視察しに来たんだ」
そういって凪社長は親指で大通りのほうを指差す。
「アレって…イルミネーションすか…?」
「そうだ。今年からあのイルミネーションには、我がディビジョンの技術が利用されているからな。どのような様子か実際に見に来た―――お前はところでどうして引き返そうとしてた?」
「あー…これはその」
俺は目線を宙に彷徨わせた。
クリスマスが嫌すぎてイルミネーションを避けていたなんて死んでも言えない。ましてあの大通りのイルミネーションにうちの会社の技術が使われているとなれば尚更である。
何か気の利いた言い訳を考えようとしたが潔いくらいに何も思い浮かばない。
俺は仕方なく「何となくです」と自分でもよく分からない返事を返した。
凪社長は「ふうん」と一言言った後、じっと俺の方を見ると、再びフードを゙被り直し俺の手を引っ張った。
「―――近くに車を止めてある。雷生(らいせい)、少し付き合え。明日は休みだし、その様子だと今日はこの後も予定は無いんだろう?」
全部済んだら家まで送ってやるから――
凪社長はそう言うと俺の返事を待つことも無く、俺を引っ張って歩いていってしまう。
「!?!?」
(な、凪社長とドライブ…!?)
傍にいた護衛時代ですら二人きりで何処かへ出掛けた事は無い。
一体、何の目的があるのだろうか。
(どうなる…!?俺……!)
どこからともなくクリスマスの鐘の音が聞こえる。
俺は成すすべもなく、社長の高級車の助手席へと詰め込まれたのであった。
19
あの日、その瞳は
ただ一切を寄せ付けず
憎悪と殺意に揺らめく炎を宿していた
―――
「この辺りに来るのは久しぶりだな」
両手一杯に荷物を抱えながら東城翔(とうじょう かける)はそう言って俺に笑いかけた。
「ああ。こちら側は駅とは逆方向だからな。家からもそう近くは無いし」
俺はそう返しながら持っている荷物を持ち直す。
日曜日の夕方。
家から歩いて二十分程の場所にあるこの辺りへ今日赴いた理由はただ一つ、ここに居を構えているスーパーの一つが閉店セールをやっていたからである。
俺と翔は確かに互いに確りと働いてはいるが、それでも昨今の物価高が厳しい事には変わりない。
まして、翔が某テーマパークに行きたいとずっと言い続けているので、それに向けて我々は少しでも節約をし、資金を貯める必要があるのであった。
(翔がああいった場所に行きたいと言うのは少々珍しい気もするが―――)
実は俺自身はあまりああいった、人が大勢集まる場所は得意では無いのだが、俺に遠慮してか普段そういう場所に行きたいと言わない翔が今回初めて行きたいと言ってきたのである。という事は余程某夢のテーマパークへ憧れを抱いているのであろう。
そうなってくると俺としては奴の夢の国行きを何としてでも叶えてやらねば、と思う。
(―――そうだ。もっとこいつには楽しく、やりたい事を沢山やって生きていてもらいたい)
あの頃、あれほど暗く苦しい思いをしたのだから。
「―――お!良い眺めじゃねーか!」
住宅街の中の緩やかな坂道を抜け、目の前に広がる景色に翔は歓声を上げた。
それは確かに美しい綺麗な景色であった。
小高い場所に位置するこの場所からは街全体を眺める事が出来、夕陽がオレンジ色に全てを染め上げている。
遠くには駅や、電車が走る姿が見える。
まるで、小さなジオラマを見ているかのような不思議な感覚であった。
「―――確かに美しいな」
―――だが。
此処からの景色は"見えすぎる"。
「こんな場所があるなんて、ここに越してきてから初めて知ったぜ。」
そう言って目の前の景色を見下ろす翔はキョロキョロと様々な方向を見ていたが、その目線が再度正面に向いたところでピタリと止まった。
ちょうど駅の更に向こう側。
住宅街やビル群など、まさに今現在人が居る建物が立ち並ぶこちら側とは違い、古ぼけた廃ビルや工場跡が亡霊の如くそびえ立つ、まさに廃墟と化した一角。
「―――第捨八区」
翔がぽそり、と低くそう呟いた。
第拾八区。その呼称は一般人には馴染みが無い。
大体あの一角は『旧帝鐵工業団地』や『工業団地跡』などと呼ばれる場合が殆どである。
かつて、あの一角は帝鐵株式会社という、製鉄技術を一端に多方面分野に於いて様々な研究開発を行っていた会社の工場や研究所が多く立ち並ぶ場所であった。
そしてあの地は、帝鐵が影で行なっていたとある技術開発ひいては国の第一企業としての地位を巡る最後の争いが起こった場所である。
企業同士の争いが国をも巻き込み武力抗争までに発展した『火帝抗争』。あの地は、人々にとっては『歴史の爪痕』といったところであろう。
そして、第拾八区という呼称は主に、帝鐵と戦った国内最大の企業『火鋤神(かすくがみ)株式会社』内で使われていたものである。
そして、俺も翔も、かつて互いに知らぬ者同士であったが、その会社に籍を置いていた者同士であった。
けれど。
研究職であった俺と、実際に戦った翔とではあの抗争への記憶の思い出がまるで違う。
あの廃墟も、こうして見るとある種の美しさがあるのだが、俺にとっては嫌悪すべき対象でしかない。
何故なら。
「―――翔」
過去に思いを巡らせる時。
普段の翔とは全く違う表情を、眼をするから。
冷たく、どこか残酷な表情。眼はどこまでも闇深く、どこか此処とは別の、遠い遠い先を視ている。
ぞわり、と湧き上がる感情が全身を駆け巡った。
俺の知らない世界を視ないで。
俺の知らない表情で、俺の居ない、俺の知らない過去を思い出さないで。
俺の知らないところで一人で苦しまないで。
どうか俺を置いていかないで。
俺を残して何処かへ行ってしまわないで。
俺の知らないお前にならないで―――!!!
「………七星(ななせ)」
気付けば、俺は持っていた荷物を落とし、奴の腕にしがみついていた。
どこか驚いた様子の翔の顔は、強い夕陽の逆光で何も見えない。
「―――寂、しくて」
己でも何を言っているんだと呆れ果ててしまう程の薄っぺらい言葉である。
自分がこんな言葉を吐いている事にさえ驚く。
ここは冗談だと少し笑ってさりげなく腕を離すべきだろう。
けれど、俺は翔の腕を話すことがどうしても出来なかった。
「―――七星」
翔はもう一度そう俺の名を呼ぶと、荷物を置き、そのまま腕を引き俺を引き寄せ抱き締めた。
「本当にお前は良い香りだ。それに見た目も中身もこんなに綺麗で暖かくて愛おしくて―――ああ、俺は本当にお前を愛しているよ」
絶対に何処にも行かない―――そう言った翔の顔はこの体勢からでは見えず、抱き締められた胸の中で想像するしかない。
その暖かい胸の中で、俺は己から溢れ出た感情の粒が静かに流れ、頬を伝うのを感じた。