30
凍るように冷たい框に触れ、ベランダの窓をカラカラと開けると、冷たく澄んだ空気がすう、と身体を通り抜けていった。
すっかり冷えたサンダルに素足を通し、ベランダに出る。
空一面を薄い灰色の雲が覆っていた。
雲の隙間から陽の光が静かに漏れ出ており、その下を鳥たちが飛んでゆく。
白みがかった朝の街は静かで、美しい。
昨晩少し降った雨露が手摺や室外機に散りばめられ、鈍い空の光を宿した其れはさながら、透き通る宝石のようである。
空気も適度な湿度を含んでおり、心地良い。
其の澄んだ冬の空気を肺いっぱいに溜め込むと、身体全体が清らかに浄化されてゆくかのような目醒を感じた。
吐き出す息は白く、空へと吸い込まれていく。
世界は、本当に美しい。
残酷過ぎる程に。
両腕を広げ、吹き抜ける風を全身に受ける。
こうしていると自分自身もこの静寂に溶けてしまえるかのような、そんな錯覚を起こさせる。
目線を移し、眼前に広がる全てを瞳に映す。
その中で、一際背の高い建造物に目を留める。
美しくも無機質なそのビルは、其処に君臨しているあの男の姿そのもののようにも見えた。
己の連想に思わず口元が歪む。
あの瞬間から、
片時も脳裏から離れぬあの男の笑み―――
己の両の手を自らの首にかける。
美しい景色の中で感じる息苦しさは、あの日を鮮明に思い起こさせてくれる。
美しい世界が恐怖で霞む。
完璧すぎる。
これこそが、僕の望む世界そのものだ。
両の手を首から離す。
必死に酸素を取り込まんと噎せ返りながら、身体の中から湧き上がる高揚感を感じた。
待っていてくれ、愛おしい人。
今度は、今度こそは、君の大切な全てと共に完璧な地獄へ堕としてあげるから。
その時は、
僕がまだ知らない君を見せてくれ。
血を流し、絶望に染まった君の姿を。
笑いが止まらない。
身を切り裂く風と共に、私はゆらゆらとダンスのステップを踏んだ。
―――残滓篇 開幕―――
29
寂寥感に、泣きそうになるのである。
全身を駆け巡った刹那の甘き渦潮。その幸福の残渣は美しく、儚い。
離別に耐えられず、その残渣にしがみつく中。
気遣うように身体を抱き締められ、その煤竹色の瞳に囚えられた時、俺はいつもこの男の眼の深い底に渦巻く僅かな闇を視る。
そうして、嗚呼、俺は未だこの男の完全な救いにはなり得ていないのだという事実を叩きつけられ、絶望にも似たその激情の波を再び瞼の奥に押さえ込まねばならなくなるのだ。
そのような事を考えている己の顔はとても醜い気がして、俺は男から顔を背け、そのまま深く俯いた。
俺にとってこの男は太陽のような存在である。
明るく、暖かく、そして眩しい。
道を見失いそうになる時には、その光を目印に進んでいける。
けれど、光というのは必ず影を生み出す。
その光が強ければ強いほど、その影は尚一層濃く、深くなるのだ。
特に、この男の抱え込む闇は途轍もなく強大で、深い。
普段はこの男の全てに喜びを感じ、笑い、幸福でいられる。
けれど時として、陽が翳るその一瞬、俺はどうしようもなく不安に駆られてしまうのだ。
己でも不思議に思う。
かつてはどのような事にも動じず、問題が生じても理論的な思考で解決出来た。
けれどこの男の事となるとそうもいかなくなってしまう。
―――けれど、それでいい。
俺はこの男と共にあると決意したあの瞬間からずっと覚悟している。
この男が生み出すどのような日陰をも、全てを受け入れ、共に背負っていくのだと。
それがたとえ、己を滅ぼす闇だったとしても。
俺は男の顔を再び覗き込んだ。
男はそっと微笑み、その手で優しく俺の頬に触れる。
大きく確りとしたその手はとても温かい。
俺はその手を両手で包み込み、その温もりを閉じ込めると、薄暗い闇の中、そっと瞼を閉じた。
28
朝だというのに、空にはどんよりとした雲が一面に重く覆い被さっていた。
飛珸(ひゅうご)は家中の洗濯物を両手いっぱいに集めてくると、脱衣所に置いてある洗濯籠にどさり、と思い切り乗せた。
何せ六人分の衣類やタオル類を一気に集結させたのだ。業務用のドラム式洗濯機を使用しているとはいえ、一度に回す量としてはかなりギリギリである。
(とはいえ今日は二回に分ける必要は無さそうだ。旦那様の分の洗濯物が無いからな)
飛珸は自分のもう一人の主人・八雲弦狼(やくも げんろう)の姿を脳裏に浮かべた。
今から二十八年前、戦地天津ヶ原にて『銀の髪に至極の瞳、その力を以て狼将と称す』と味方からは讃えられ、敵からは『命を喰らう狼』と畏れられた最強の武人。
数年前の帝火抗争では火鋤神株式会社の先代社長・火鋤神左近(かすくがみ さこん)、現社長・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)の護衛として、帝鐵コーポレイションとの数年に渡る骨肉の争いを戦い抜いた一人でもある。
(―――そして、我が主・翠様の主人様でもあらせられる方)
飛珸は元より、八雲翠(やくも すい)に仕える家人である。
翠の旧姓は『火鋤神』、つまり火鋤神株式会社現社長・火鋤神凪の妹である。
飛珸は翠が五つの頃より"他の四人と共に"仕えており、翠が弦狼と婚姻した際に五人でそのまま八雲家の家人として侍するに至ったのであった。
飛珸は洗濯物を何とか洗濯機に入れ回すと、脱衣所を出ると、箒を持ち廊下を進んだ。
廊下は裏庭と面しており、硝子張りの扉からはその様子を見る事が出来る。
草木が多く茂る裏庭では飛珸と同じ作務衣姿の少年が、黙々と庭の手入れをしていた。
少年は齢十二、三程だろうか。少し長い鉄紺の髪を風で揺らし、伏せた瞼の下から覗くのは初夏の葉を思い起こさせる柳色の眼。
彼は地面にしゃがみ込み、葉の中から的確に不要な葉を取捨選択し抜き取っている。
飛珸はカラカラと硝子扉を開け、顔だけ出すと少年に向かい声を掛けた。
「終(つい)」
己の名を呼ばれ、少年―――終(つい)は顔を上げると、すっと立ち上がり飛珸の元へと歩き寄った。
「飛珸。今から掃除か?」
「嗚呼。今始めるところだ。―――相変わらず草葉の目利きが上手いのだな」
飛珸がそう言うと終は無表情ながらも少し頬を赤くする。
「これしきの事出来て当然だ」
柔らかな風がふわり、と二人の間を吹き抜けた。
「⋯あ」
その風が先程終が抜いて集めていた雑草を巻き上げ、ザザ―――と運んでいく。
「⋯っ!」
風が吹いた方向で、女人の微かに怯む声が聞こえた。
飛珸と終は咄嗟にそちらを見る。
「⋯!!翠様」
其処にいたのは、飛珸達の主人―――八雲翠(やくも すい)であった。
庭の隅に植えられている椿の木の傍に立つその女人は、腰ほどまである墨色の髪を風に靡かせたまま此方を見ると、静かにそっと微笑んだ。
「申し訳ございません、翠様。葉が御髪に掛かってしまいましたか」
終は駆け寄りながらそう言い、頭を下げた。
「気にしなくて大丈夫だ。いつも庭の手入れをしてくれて有難う、終」
翠はそう言って羽織を掛け直すと、終の頭をゆっくりと撫でた。
終はくすぐったそうに身を捩り、大きい切れ長の眼で翠を見上げる。
「おやめ下さい、翠様。終は童では無いのです⋯!」
そう言う終の様子を見、翠は目を細める。
「ふふ⋯⋯悪かったね、終。どうにも終は可愛らしくてついついこのような態度を取ってしまう」
翠はそう言って終の頭から手を離すと、深蘇芳の眼を終から飛珸に移した。
「飛珸、熾煦(しか)と春霆(しゅんてい)、龖(とう)はどうしている?」
「龖と春霆は買い出しへ、熾煦は別邸の管理作業をしております」
「―――そう」
翠は一言そう返すと、再び椿の木を見上げた。
今朝は空がいつもよりも暗いからなのか、椿の葉の深緑が普段よりもより深く感じる。
飛珸は椿を見上げる翠の瞳を見た。
翠の瞳にその深緑が映り込み、深蘇芳の瞳を微かに緑に染めると、その横顔は翠の兄である火鋤神凪(かすくがみ なぎ)の姿を思い起こさせた。
「…どうかしたの?」
見られている事に気付いた翠が飛珸へ再び顔を向ける。
飛珸は少し頭を下げながら口を開いた。
「いえ。ただ、翠様の横顔がどことなく兄上様に重なりまして」
それを聞くと翠は笑って言った。
「そんな事は無いと思うけれど―――まあでも、少しはあの美貌のご相伴に与れたら私も嬉しい限りだけれどね」
翠の兄、火鋤神凪(かすくがみ なぎ)は火鋤神家の現当主であり、火鋤神株式会社の代表取締役兼社長でもある男である。
抗争で荒れていた会社を立て直しただけでなく、敵対していた帝鐵コーポレイションを買収、全てを吸収し融合させた手腕の持ち主というだけでなく、その容姿は人を魅了させるに足る魅力を持ち合わせていた。
「兄上様と仰っしゃれば―――」
終が顎に手を当てぽそり、と口を開く。
「先日の金曜に瑞鳳(ずいほう)庵へお見えになられたそうですね」
確かお一人ではなかったとか、と終は付け加えた。
瑞鳳庵とは現在、翠が所有する別邸の露地(茶室)の事である。
元々は火鋤神家そのものが所有する露地であった。
嘗ては客人を招いて茶会を催すなど積極的に使用されていたが、近代に近付くに従って茶会を開く事も無くなっていき、放置されていたものを翠が父・左近から譲り受けたのである。
翠が譲り受けた時には、すっかり古びていた建物は左近が改装し直し、屋敷として人の住めるようにしてくれていた。様々な要因から実家に居づらかった娘を思っての事であろう。
暫く翠と飛珸達は殆ど瑞鳳庵で生活していたのだが、弦狼と結婚した後は瑞鳳庵から出、八雲家に住まう事となった。瑞鳳庵はその後も別邸として所有しており、翠は自分や弦狼だけでなく、兄である凪も自由に出入り出来るようにしておいたのである。
「そのようだな―――兄様のお考えは私などには到底知る由もないけれど、兄様が個人的にお会いになるほど御心を許せる相手が居るのだとしたら、それは私にとっても喜ばしい事だよ」
翠は瞼を伏せ、地面に落ちた椿の花を見た。
(―――兄様。何を考えていらっしゃるのか―――)
弦狼は現在、凪の命で出張に出向いている。
詳細は知らないが、凪が特に弦狼に直接頼んだと言うこと、刀と銃を持っていったという事は、恐らく何か他の者には言えぬ事情があるのだろう。
火鋤神家の内情に関わる事か、かつての抗争に関わる事か―――
過去に何度か同じような事はあったが、帰宅後も弦狼は特に何か翠に言った事は無い。
様子からしても特に戦いに巻き込まれては居ないのだと思う。
だが、次はどうなるか分からない。
今回が大丈夫でもその次は?その更に次はどうなる?
翠の心はどうしようもなく不安が渦巻いていた。
兄の事は好きだ。だが己の最も大切な人を危険に近付ける事を、仕方が無い事だとは言え、許せぬとも思っていた。
弦狼にしか頼めぬ事もあるのは分かる。
―――けれど。けれど……
『翠どの、貴方がこの先も笑って生きていける世の中になるよう、私は命を賭けてこの戦いを終わらせよう』
抗争の前、まだ婚姻して居なかった時の、弦狼の言葉をふと思い出した。
あの日感じた喜びと不安が入り混じった感情を翠は忘れることが出来ない。
またあの時のように戦に飛び込んでいってしまったら。
血をどれだけ流しても、まだ止まらず刀を振り続けたら。
抗争の折、腹を刺され、血を吐きながらも弦狼は敵に刃を向け続けた。
そうして、やがて刀を落とし、膝から地面に崩れ落ちたあの時―――
翠はあの時、弦狼を永遠に失ってしまうのではないかと、叫び出したくなる程の恐怖を覚えた。
―――もしも、もしも今度こそ、目の前から、居なくなってしまったら。
翠は溢れ出しそうな感情を押し殺すように、瞼をぎゅっと瞑った。
(―――弦狼様。弦狼様に会いたい)
「―――翠様」
飛珸が不安そうに声を掛ける。
翠は目を開けると、そっと笑って飛珸の顔を見た。
「大丈夫、飛珸。少し疲れただけだ」
そう返す翠に飛珸は何も返せず、ただどこか悲しげに顔を伏せた。
―――刹那。
「―――翠」
よく聞き慣れた、心地の良い低い声。
翠ははっと目を見開き、声のする方を見た。
目の覚める程の銀髪が椿の深緑の葉によく映えている。
その葉と同じ深緑の軍服を纏い、此方に向かい男が微笑んだ時。
「―――弦狼様…っ!」
抑えていた感情が溢れ出す様に、零れたその名。
「心配を掛けたな、翠。済まなかった」
普段は凛と力強いその声も、いつも翠にだけはどこまでも優しく、暖かい。
「…っ!良かっ…た……ご無事で…っ」
翠は嗚咽でつかえながら両の掌で顔を覆うと、世界でただ一人、心を預けたその人へ向かい、走り寄っていった。
重くのしかかる雲の切れ目から、一筋の光が降り注いでいた。
27
冷えた指先を自らの息で温めようとするのだが、一瞬仄かに暖かさを感じたのみで、すぐに氷雪の如き冷たさに戻ってしまう。
少しの外出だからと無精し、手袋を嵌めるのを面倒臭がった己が恨めしい。
時間は既に深夜に近くなりつつある。
繁華街から少し離れた場所にあるこの住宅街では、このような時間帯に外を出歩こうなどという稀有な者は俺達を除いて居なかった。
俺は隣を歩く男に目線を移す。
男は分厚そうな黒いパーカーのフードを深く被り、前のマフポケットに両手を突っ込んで歩いていた。
只でさえ平均よりもかなりの大柄である。格好も相まって、普段よりも更に厳つく見える気がした。
「…寒いぜ全く」
男がそう呟くと、吐いた言葉と共に白い息が空へ吸い込まれるように消えてゆく。
何故かその様が妙に艶めいて感じ、俺は嗚呼、とだけ返すと、早まった鼓動を隠すように再び前を向いた。
宵闇に、二人の足音と微かな息遣いだけが静かに響く。
俺は歩きながら両手を擦り合わせた。
手がかじかんで痛みさえも感じる。
―――流石に辛くなってきた。
そう思った時である。
「―――おい」
不意に隣から声がかかったと思った瞬間、冷えた手が瞬時に柔らかな、優しい暖かさに包まれた。
「…っ!」
俺の手を包む大きな手は俺の右手を掴むと、先程までその手が入っていたマフポケットへと共に再び入っていく。
「お前、凄え手冷てえのな。ほら、こうしてりゃ暖かいだろ」
男はそう言ってニカッと笑った。
「…少々恥ずかしいのだが」
俺は熱くなってゆく顔を見せぬように、男から顔を背けながらわざと怒っているようにそう言った。
男はこちらを覗き込むように俺を見、今度は悪戯な笑みを浮かべると、そのまま俺の耳に口を近付ける。
「良いだろ?恋人同士なんだから」
耳まで熱くなるような感覚。思わず俺は空いている左手で己の顔を隠した。
男はその手をすかさず空いている手で掴み、顔から手を退かす。
「こら、隠すなよ。七星(ななせ)の綺麗な顔が見えなくなるだろ」
「……っ」
俺が何も言えずにいると、男は再び悪戯な顔で笑った。
「ったく、付き合ってもう三年くらい経つのに相変わらずだぜ」
「…煩い」
俺がそう言うと男は今度はカラカラと声を上げて笑った。
「まあ、七星の照れてる顔も本当好きなんだけどな。本当、もう同棲して半年経つのに毎日凄え楽しいぜ。他にも色んな顔とか姿が沢山見れるし……ほら、俺だけしか見れないあれの時のあんな顔とか……いてっ」
耐えられずに足で男の足を小突く。
男は更に笑った。
「お前、怒った顔も本当綺麗で可愛いのな」
「…莫迦」
澄んだ冬の空気が二人を包む。
冷えていた手はもう、暖かかった。
26
きらきらと揺らめく日々のさざ波
その底で
忘れ得ぬ過去の汚泥は未だ消えず
その漆黒に怯えながら生きている
―――
目覚めた時、夢の中身が脳髄を一気に駆け巡り、東城翔(とうじょう かける)は瞬時に目眩と強い吐き気を覚えた。
暗い室内。恐らく未だ時間は早朝にさえなっていないだろう。隣からは規則正しい穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。
その眠りを妨げぬよう、呼吸に合わせてそっとベッドから抜け出すと、翔は足音を立てぬよう静かに寝室を抜け出した。
短い廊下を抜け台所へ辿り着くと、翔はそっと冷蔵庫を開けた。庫内の鈍い明かりが辺りを照らす。
綺麗に整理整頓された庫内からレモン水の入ったガラスの冷水筒を取り出すと、翔はそれをグラスに注ぎ一気に飲み干した。
喉に冷たい酸味と少しの苦味が染み渡り流れていく。
ようやく少し気持ちが落ち着いてきたところで、翔は一度長く息を吐くと、灯りも付けぬままリビングのソファへ倒れるように身体を預けた。
(―――また厭(いや)な夢を見ちまったな)
あれからもう数年の歳月が経つ。だというのに過去は時折海馬を乗っ取り、こんなにも鮮明に、時に夢として、時に突発想起として具現化し、彼自身を苦しめた。
血の記憶。
噎せ返る程の血肉の匂い。
赤黒い視界。
殺意と憎悪が全てを埋め尽くす。
ーーー火鋤神の為に。
ーーー仲間の為に。
己の命など無に等しく、いつその身を犠牲にしても良いとさえ思っていた。
主人の為に、共に肩を並べて戦う者たちの命の為に、翔はいつでもその身を呈する覚悟は出来ていた。
己は己の信じたものの為に戦う兵器。
敵の血を見るたび、心の奥底で何かが疼く感覚が心臓を苦しめても、それを信念と使命感とで掻き消した。
共に戦ってきた仲間が殺されても―――
いつか戦場で復讐を果たすのだという思いで、必死に生きてきた。
結局、抗争はこちら側の勝利となり、長き戦いの日々は突如終わりを迎えた。
ようやく訪れた平穏な社会に人々は安寧を享受し、世の中にも活気が溢れ始めるのに時間はかからなかった。
抗争していたもの達も最終的にこちら側の傘下に入る事で、それまで何事も無かったかのように協力関係とやらを結んでいた。
中身はどうあれ、表面上は平和は訪れたのである。
ただ―――
兵器として実際に戦った者たちだけが、時代に取り残されてしまった。
『―――抗争の時代は終わった。それはお前達が全力で俺を、火鋤神を守って戦ってくれたからこそでもある。本当に感謝している』
『東城、辛いのは分かる。納得出来ぬであろう。ただ、命を落とした者たちの分までお前は、我々は、全力でこの後の時代も生きねばならん』
『なあ、東城。俺達は―――祈願を果たせたんだ。もうここから先は武器も血も必要ない。―――俺達は、飲み込むしかねえんだよ』
何が平和だ。何が幸せだ。
まだだ。まだ仲間の仇は生きている。
こんなに簡単に全てが終わって良い訳が無い。無期懲役くらいで許されていい訳がない。
仲間を何人も殺しておきながら、税金でのうのうと檻の中で腹を満たし、いびきをかきながら寝て人生を終えるなんて絶対に許さない―――!!!
あの日。
真っ赤に染まった視界で、どす黒い闇に飲まれた脳内で、全てを恨んだあの時間で。
それでも尚この世界に生きていよう、もう一度光を信じようと思ったのは―――
俺はソファから立ち上がり寝室へと戻った。
ベッドに再び入り、先程までと変わらず規則正しい寝息を立てているその男の髪をそっと撫でる。
―――あの日、俺が完全に全てを捨て去ってしまおうとした瞬間。
『―――だったら何故、お前はそんなに悲しい顔をしているんだ』
『俺は、しっかりと見ていた―――お前達が、全てを賭けて戦ってくれた事を』
『一緒に背負っていくよ。憎くて仕方の無い感情も、忘れ得ない過去も、全部』
―――絶対に失いたくない。
俺の、俺だけの、大切な存在。
俺の、たったひとつの、幸せ。
暗闇の中、温かな熱を掌に感じながら、俺は静かに瞼を閉じた。