微睡 空子

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28



朝だというのに、空にはどんよりとした雲が一面に重く覆い被さっていた。


飛珸(ひゅうご)は家中の洗濯物を両手いっぱいに集めてくると、脱衣所に置いてある洗濯籠にどさり、と思い切り乗せた。
何せ六人分の衣類やタオル類を一気に集結させたのだ。業務用のドラム式洗濯機を使用しているとはいえ、一度に回す量としてはかなりギリギリである。

(とはいえ今日は二回に分ける必要は無さそうだ。旦那様の分の洗濯物が無いからな)

飛珸は自分のもう一人の主人・八雲弦狼(やくも げんろう)の姿を脳裏に浮かべた。
今から二十八年前、戦地天津ヶ原にて『銀の髪に至極の瞳、その力を以て狼将と称す』と味方からは讃えられ、敵からは『命を喰らう狼』と畏れられた最強の武人。

数年前の帝火抗争では火鋤神株式会社の先代社長・火鋤神左近(かすくがみ さこん)、現社長・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)の護衛として、帝鐵コーポレイションとの数年に渡る骨肉の争いを戦い抜いた一人でもある。


(―――そして、我が主・翠様の主人様でもあらせられる方)


飛珸は元より、八雲翠(やくも すい)に仕える家人である。
翠の旧姓は『火鋤神』、つまり火鋤神株式会社現社長・火鋤神凪の妹である。
飛珸は翠が五つの頃より"他の四人と共に"仕えており、翠が弦狼と婚姻した際に五人でそのまま八雲家の家人として侍するに至ったのであった。


飛珸は洗濯物を何とか洗濯機に入れ回すと、脱衣所を出ると、箒を持ち廊下を進んだ。
廊下は裏庭と面しており、硝子張りの扉からはその様子を見る事が出来る。
草木が多く茂る裏庭では飛珸と同じ作務衣姿の少年が、黙々と庭の手入れをしていた。

少年は齢十二、三程だろうか。少し長い鉄紺の髪を風で揺らし、伏せた瞼の下から覗くのは初夏の葉を思い起こさせる柳色の眼。
彼は地面にしゃがみ込み、葉の中から的確に不要な葉を取捨選択し抜き取っている。
飛珸はカラカラと硝子扉を開け、顔だけ出すと少年に向かい声を掛けた。


「終(つい)」


己の名を呼ばれ、少年―――終(つい)は顔を上げると、すっと立ち上がり飛珸の元へと歩き寄った。
 

「飛珸。今から掃除か?」

「嗚呼。今始めるところだ。―――相変わらず草葉の目利きが上手いのだな」

飛珸がそう言うと終は無表情ながらも少し頬を赤くする。

「これしきの事出来て当然だ」


柔らかな風がふわり、と二人の間を吹き抜けた。
 

「⋯あ」


その風が先程終が抜いて集めていた雑草を巻き上げ、ザザ―――と運んでいく。


「⋯っ!」


風が吹いた方向で、女人の微かに怯む声が聞こえた。
飛珸と終は咄嗟にそちらを見る。 


「⋯!!翠様」


其処にいたのは、飛珸達の主人―――八雲翠(やくも すい)であった。
庭の隅に植えられている椿の木の傍に立つその女人は、腰ほどまである墨色の髪を風に靡かせたまま此方を見ると、静かにそっと微笑んだ。


「申し訳ございません、翠様。葉が御髪に掛かってしまいましたか」


終は駆け寄りながらそう言い、頭を下げた。


「気にしなくて大丈夫だ。いつも庭の手入れをしてくれて有難う、終」


翠はそう言って羽織を掛け直すと、終の頭をゆっくりと撫でた。
終はくすぐったそうに身を捩り、大きい切れ長の眼で翠を見上げる。


「おやめ下さい、翠様。終は童では無いのです⋯!」

そう言う終の様子を見、翠は目を細める。

「ふふ⋯⋯悪かったね、終。どうにも終は可愛らしくてついついこのような態度を取ってしまう」


翠はそう言って終の頭から手を離すと、深蘇芳の眼を終から飛珸に移した。
 

「飛珸、熾煦(しか)と春霆(しゅんてい)、龖(とう)はどうしている?」

「龖と春霆は買い出しへ、熾煦は別邸の管理作業をしております」

「―――そう」


翠は一言そう返すと、再び椿の木を見上げた。
今朝は空がいつもよりも暗いからなのか、椿の葉の深緑が普段よりもより深く感じる。

飛珸は椿を見上げる翠の瞳を見た。
翠の瞳にその深緑が映り込み、深蘇芳の瞳を微かに緑に染めると、その横顔は翠の兄である火鋤神凪(かすくがみ なぎ)の姿を思い起こさせた。


「…どうかしたの?」


見られている事に気付いた翠が飛珸へ再び顔を向ける。
飛珸は少し頭を下げながら口を開いた。


「いえ。ただ、翠様の横顔がどことなく兄上様に重なりまして」


それを聞くと翠は笑って言った。 


「そんな事は無いと思うけれど―――まあでも、少しはあの美貌のご相伴に与れたら私も嬉しい限りだけれどね」


翠の兄、火鋤神凪(かすくがみ なぎ)は火鋤神家の現当主であり、火鋤神株式会社の代表取締役兼社長でもある男である。
抗争で荒れていた会社を立て直しただけでなく、敵対していた帝鐵コーポレイションを買収、全てを吸収し融合させた手腕の持ち主というだけでなく、その容姿は人を魅了させるに足る魅力を持ち合わせていた。


「兄上様と仰っしゃれば―――」


終が顎に手を当てぽそり、と口を開く。


「先日の金曜に瑞鳳(ずいほう)庵へお見えになられたそうですね」

確かお一人ではなかったとか、と終は付け加えた。 


瑞鳳庵とは現在、翠が所有する別邸の露地(茶室)の事である。
元々は火鋤神家そのものが所有する露地であった。
嘗ては客人を招いて茶会を催すなど積極的に使用されていたが、近代に近付くに従って茶会を開く事も無くなっていき、放置されていたものを翠が父・左近から譲り受けたのである。
翠が譲り受けた時には、すっかり古びていた建物は左近が改装し直し、屋敷として人の住めるようにしてくれていた。様々な要因から実家に居づらかった娘を思っての事であろう。
暫く翠と飛珸達は殆ど瑞鳳庵で生活していたのだが、弦狼と結婚した後は瑞鳳庵から出、八雲家に住まう事となった。瑞鳳庵はその後も別邸として所有しており、翠は自分や弦狼だけでなく、兄である凪も自由に出入り出来るようにしておいたのである。 


「そのようだな―――兄様のお考えは私などには到底知る由もないけれど、兄様が個人的にお会いになるほど御心を許せる相手が居るのだとしたら、それは私にとっても喜ばしい事だよ」


翠は瞼を伏せ、地面に落ちた椿の花を見た。


(―――兄様。何を考えていらっしゃるのか―――)


弦狼は現在、凪の命で出張に出向いている。
詳細は知らないが、凪が特に弦狼に直接頼んだと言うこと、刀と銃を持っていったという事は、恐らく何か他の者には言えぬ事情があるのだろう。
火鋤神家の内情に関わる事か、かつての抗争に関わる事か―――
過去に何度か同じような事はあったが、帰宅後も弦狼は特に何か翠に言った事は無い。
様子からしても特に戦いに巻き込まれては居ないのだと思う。

だが、次はどうなるか分からない。
今回が大丈夫でもその次は?その更に次はどうなる?

翠の心はどうしようもなく不安が渦巻いていた。

兄の事は好きだ。だが己の最も大切な人を危険に近付ける事を、仕方が無い事だとは言え、許せぬとも思っていた。

弦狼にしか頼めぬ事もあるのは分かる。
―――けれど。けれど……


『翠どの、貴方がこの先も笑って生きていける世の中になるよう、私は命を賭けてこの戦いを終わらせよう』


抗争の前、まだ婚姻して居なかった時の、弦狼の言葉をふと思い出した。

あの日感じた喜びと不安が入り混じった感情を翠は忘れることが出来ない。


またあの時のように戦に飛び込んでいってしまったら。

血をどれだけ流しても、まだ止まらず刀を振り続けたら。
 
抗争の折、腹を刺され、血を吐きながらも弦狼は敵に刃を向け続けた。

そうして、やがて刀を落とし、膝から地面に崩れ落ちたあの時―――

翠はあの時、弦狼を永遠に失ってしまうのではないかと、叫び出したくなる程の恐怖を覚えた。


―――もしも、もしも今度こそ、目の前から、居なくなってしまったら。


翠は溢れ出しそうな感情を押し殺すように、瞼をぎゅっと瞑った。
 

(―――弦狼様。弦狼様に会いたい)


「―――翠様」

飛珸が不安そうに声を掛ける。

翠は目を開けると、そっと笑って飛珸の顔を見た。 


「大丈夫、飛珸。少し疲れただけだ」


そう返す翠に飛珸は何も返せず、ただどこか悲しげに顔を伏せた。


―――刹那。


「―――翠」


よく聞き慣れた、心地の良い低い声。
翠ははっと目を見開き、声のする方を見た。

目の覚める程の銀髪が椿の深緑の葉によく映えている。
その葉と同じ深緑の軍服を纏い、此方に向かい男が微笑んだ時。

「―――弦狼様…っ!」

抑えていた感情が溢れ出す様に、零れたその名。


「心配を掛けたな、翠。済まなかった」


普段は凛と力強いその声も、いつも翠にだけはどこまでも優しく、暖かい。


「…っ!良かっ…た……ご無事で…っ」


翠は嗚咽でつかえながら両の掌で顔を覆うと、世界でただ一人、心を預けたその人へ向かい、走り寄っていった。


重くのしかかる雲の切れ目から、一筋の光が降り注いでいた。

1/19/2025, 12:10:53 PM