微睡 空子

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26


きらきらと揺らめく日々のさざ波

その底で

忘れ得ぬ過去の汚泥は未だ消えず

その漆黒に怯えながら生きている


―――

目覚めた時、夢の中身が脳髄を一気に駆け巡り、東城翔(とうじょう かける)は瞬時に目眩と強い吐き気を覚えた。

暗い室内。恐らく未だ時間は早朝にさえなっていないだろう。隣からは規則正しい穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。
その眠りを妨げぬよう、呼吸に合わせてそっとベッドから抜け出すと、翔は足音を立てぬよう静かに寝室を抜け出した。

短い廊下を抜け台所へ辿り着くと、翔はそっと冷蔵庫を開けた。庫内の鈍い明かりが辺りを照らす。
綺麗に整理整頓された庫内からレモン水の入ったガラスの冷水筒を取り出すと、翔はそれをグラスに注ぎ一気に飲み干した。
喉に冷たい酸味と少しの苦味が染み渡り流れていく。
ようやく少し気持ちが落ち着いてきたところで、翔は一度長く息を吐くと、灯りも付けぬままリビングのソファへ倒れるように身体を預けた。

(―――また厭(いや)な夢を見ちまったな)

あれからもう数年の歳月が経つ。だというのに過去は時折海馬を乗っ取り、こんなにも鮮明に、時に夢として、時に突発想起として具現化し、彼自身を苦しめた。


血の記憶。
噎せ返る程の血肉の匂い。
赤黒い視界。
殺意と憎悪が全てを埋め尽くす。

ーーー火鋤神の為に。
ーーー仲間の為に。

己の命など無に等しく、いつその身を犠牲にしても良いとさえ思っていた。
主人の為に、共に肩を並べて戦う者たちの命の為に、翔はいつでもその身を呈する覚悟は出来ていた。


己は己の信じたものの為に戦う兵器。


敵の血を見るたび、心の奥底で何かが疼く感覚が心臓を苦しめても、それを信念と使命感とで掻き消した。
共に戦ってきた仲間が殺されても―――
いつか戦場で復讐を果たすのだという思いで、必死に生きてきた。


結局、抗争はこちら側の勝利となり、長き戦いの日々は突如終わりを迎えた。

ようやく訪れた平穏な社会に人々は安寧を享受し、世の中にも活気が溢れ始めるのに時間はかからなかった。
抗争していたもの達も最終的にこちら側の傘下に入る事で、それまで何事も無かったかのように協力関係とやらを結んでいた。

中身はどうあれ、表面上は平和は訪れたのである。

ただ―――
兵器として実際に戦った者たちだけが、時代に取り残されてしまった。


『―――抗争の時代は終わった。それはお前達が全力で俺を、火鋤神を守って戦ってくれたからこそでもある。本当に感謝している』

『東城、辛いのは分かる。納得出来ぬであろう。ただ、命を落とした者たちの分までお前は、我々は、全力でこの後の時代も生きねばならん』

『なあ、東城。俺達は―――祈願を果たせたんだ。もうここから先は武器も血も必要ない。―――俺達は、飲み込むしかねえんだよ』


何が平和だ。何が幸せだ。
まだだ。まだ仲間の仇は生きている。
こんなに簡単に全てが終わって良い訳が無い。無期懲役くらいで許されていい訳がない。
仲間を何人も殺しておきながら、税金でのうのうと檻の中で腹を満たし、いびきをかきながら寝て人生を終えるなんて絶対に許さない―――!!!


あの日。
真っ赤に染まった視界で、どす黒い闇に飲まれた脳内で、全てを恨んだあの時間で。


それでも尚この世界に生きていよう、もう一度光を信じようと思ったのは―――


俺はソファから立ち上がり寝室へと戻った。
ベッドに再び入り、先程までと変わらず規則正しい寝息を立てているその男の髪をそっと撫でる。


―――あの日、俺が完全に全てを捨て去ってしまおうとした瞬間。


『―――だったら何故、お前はそんなに悲しい顔をしているんだ』

『俺は、しっかりと見ていた―――お前達が、全てを賭けて戦ってくれた事を』

『一緒に背負っていくよ。憎くて仕方の無い感情も、忘れ得ない過去も、全部』


―――絶対に失いたくない。


俺の、俺だけの、大切な存在。
俺の、たったひとつの、幸せ。


暗闇の中、温かな熱を掌に感じながら、俺は静かに瞼を閉じた。

1/4/2025, 4:11:35 PM