25
道が暗すぎるのである。
市街地を抜け、どうもすれ違う車が少なくなってきたな、などと考えている内に、気付けば辺りは街灯は疎か信号さえ無くなっていた。
ヘッドライトのみを頼りに車はどんどん先を進んでゆく。
やや急勾配な狭い坂道に突入すると共に、遂に左右に木々しか見えなくなった時、ようやく俺―――獅子戸雷生(ししど らいせい)は悟った。
嗚呼、俺は山に連れてこられたのだ―――と。
「…あの…凪社長……一体何処へ向かってるんです…?」
恐る恐る隣の運転席へ向かって問い掛ける。
このような山深い夜道を運転しているというのに、我が社の代表取締役・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)社長は余裕の笑みを崩さない。
怯える俺の様子に社長はカラカラと笑うと、ハンドルを緩やかに切りながら「んー?」ととぼけてみせた。
(―――いや答えないんかっ!!………社長の車に強引に乗せられたかと思ったらこんなところへ連れてこられるとは)
俺は後悔した。社長はきっと俺を山に埋めたりするのであろう。俺が何をしたというのか。そもそも護衛を辞めてからは最近めっきり会っていなかったというのに。
(いやでも"帰りは送っていく"って言ってくれてたしな―――)
ちゃんと生かして帰す気はあるのか―――いや死体を家に送るって意味か―――そのような事を延々と考えていると、突如車がブレーキを掛けた。
「……あれ、塀…?」
其れは竹垣であった。随分と高い塀であり、塀の上部からは笹の葉が幾重にも重なり、中の様子は分からない。
ライトが照らされている辺りまでしか見ることは出来ないが、恐らくかなり広い範囲を竹垣で囲っている事は察しが付く。
社長は車を塀越しに少し進んだ辺りにあるちょっとしたスペースへ駐車すると、俺に降りるよう促した。
車を降り、エンジンが完全に止まると、完全に辺りは闇そのものとなる。
バタン、と車のドアを閉じた音が聞こえた後、突如ピタリと人の気配が消えた。
俺は咄嗟に辺りを見渡す。が、瞳が映すのは只深い漆黒ばかりであった。
「…!社長」
呼び掛けるも返ってくるのは風の音のみ。
呼応してザァザァと鳴る笹の葉は闇の深さを増長させるように、不気味に宵闇を掻き乱す。
俺は一度、長く息を吐いた。
瞼を閉じ、酸素を血液に乗せ全身を廻る感覚に身を投じる。
―――張り巡らせろ。全身に、神経を―――
ぶわり、と背後から音無き気配の感覚が突き抜ける。
俺は目を開けた。それと同時に振り向きざまに腕を伸ばし、"其れ"を掴む。
「―――流石だな、雷生」
掴んだ腕は意外にも確りとしており、それでいて女人のように繊細であった。
観念したような、それでいて感心したようなその声が聞こえた瞬間、黒そのものであった視界を温かな橙色の光が照らす。
目の前の男は満足そうな、けれど何故か悲しげな笑みを浮かべ、こちらを見ていた。
「…お前の現状における実力の評価を行おうかと思い立ってな。やはり、あの頃と比較しても全く衰えていない。だが……驚かせて悪かった」
そう言って社長は瞼を伏せ俯いた。
(なんでそんな顔するんだ?社長らしくもない………はっ!!)
俺は己が社長の手首を掴んだままであった事を思い出し、急いで手をパッと離した。
「!!こちらこそ突然腕を掴んでしまって申し訳ございませんでした!手、痛かったですよね!?」
「いや、大丈夫だ。気にしなくていい」
社長はそう言って笑った。その顔には既に先程の悲しげな影は残っていない。
掌に残る滑らかな感覚を指でなぞりながら、俺はそっと掌を握った。
(やっぱ痛かったのかな。いきなりとは言え悪い事しちまったな……しかし"あの感覚"…久しぶりに感じたな)
神経を極限まで研ぎ澄ます、戦いの感覚。
社長の懐刀として生死を賭して抗争を戦い抜いたあの頃の記憶が蘇る。
一瞬ぶわりと鼻の奥に蘇った噎せ返るような血の匂い。
強烈な吐き気が湧き上がる。
俺は首を左右に振り、思い出すまいと目の前の状況に集中した。
辺りを照らす柔らかな光は、竹垣の前に一定間隔ごとに置かれている灯籠のものであった。
揺れ動く其れは一見、火の光のようにも見えるが、よくよく見れば人工の光であるらしい事が窺える。
これも我が社の技術なのかもしれない。
前を進む社長の後ろから付いて歩いていくと、やがて木で出来た小さめの門が現れた。
社長は門の扉を開け、中に入る。俺もそれに続いた。
「…!!おお…!」
目の前に広がる光景に、俺は思わず声を上げる。
それは、絵に描いたような美しい露地(茶庭)であった。
奥にある茶室へと誘うように、鬱蒼としているように見え均等の取れた草木が植えられている。
門から茶室へは飛石が敷かれており、其れを進むと茶室へと至る随所に蹲踞(そんきょ)や石灯籠といった造形物が置かれている。それら一つ一つは素人の俺が見ても繊細で、とても美しい造りであった。
「伝統的な露地、とまではいかんのだがな。美しいであろう」
まえを進む社長は振り向きざまにそう言う。
「驚きました…まさか山奥にこんな場所があったなんて」
「妹の翠が管理する露地だ。かつては火鋤神家の当主が客人をもてなすのに使用されていたが、時代の移り変わりと共に使われなくなってな。持て余され長年放置されていたところ、当時人里離れた"秘密基地"を探していた翠に譲られたという訳だ。嫁に行った今、長期滞在はしなくなったようだが、時折訪れて管理も変わらずしっかり行なっている」
今日は俺が借りると許可を貰っておいた―――社長はそう言って笑った。
「つまり、茶室でも翠様がご滞在出来た程に色々揃っているという事ですか…?」
「そうだ。元は簡素な茶室だったがな。翠が譲り受けた後に寝食その他を滞りなく出来るよう改築したんだ。生活する上で必要なものは何でも揃っているぞ」
何せ、あれも実家での暮らしは相当苦労していたからな―――社長は懐かしむように目を細めた。
社長に案内され茶室の中へと入ると、成程、確かに中は茶室というよりかは屋敷という感覚に近かった。
靴を脱いで木の廊下を抜けると、社長は奥の襖を開ける。
襖の奥は十二畳程の畳部屋になっており、中央には机と、傍には其々座布団が敷かれている。
少し此処で待っているように言われ、俺は座布団の一つへ座った。
(…何だか旅館に来たみてえな感覚だな)
庭からは、川から直接切り取ったような流れのある池のザァザァというせせらぎの音が聞こえ心地良い。
俺は呆(ぼう)とその様子を眺めながら、暫くうつらうつらとしていた。
するとその時である。
『失礼致します、お客様。お風呂のご用意が出来ました』
襖の外から声が聞こえた。ここに使用人なんか居ただろうか―――そう思っていた矢先。
「――――!?!?」
ガラリと開いた襖の先に立っていたもの。
それは正真正銘のロボットであった。
俺の半分程の高さ程のシルバーのボディ。円柱の上に丸の上半分の乗せたような胴体に無機質な手が二本付いている。足は下にタイヤか何かが付いているようでスルスル動いている。
昔好きだった海外のSF映画シリーズに登場していた味方のロボットに手を生やしたような感じだな―――と俺は驚きながらも思った。
「…んあ、…風呂…?」
俺がそう言うとロボットは機械的な声で答える。
『はい。私達はここに滞在されるお客様のお世話をさせて頂くのが務めです。お風呂にご案内致します、こちらへどうぞ』
(一体何が起こっているんだ―――っていうか社長どこ行った…?)
俺は混乱する頭で必死に考えながらもロボットの後ろに付いていくしか無かった。
―――
湯ですっかり温まった身体を畳に投げ出しながら、俺は再び庭の小川を見ていた。
冬ではあるが部屋の暖かさも相まって、さらりとした浴衣が非常に心地良い。
(…ほんと、至れり尽くせりだな。にしても……)
まさにここは深山幽谷である。
その割に非常に最先端で、脳が混乱する。
何故突然社長はこのような場所に俺を連れてきたのだろうか。
そう思っていると、襖の向う側から「雷生」と俺を呼ぶ声が聞こえた。
今度は何が飛び出すのだろうか―――俺は恐る恐る襖を開けた。
其処にいたのは、先程まで共に居た朱殷の髪の男であった。服は俺同様、浴衣姿に変わっている。
手には橙色の液体が入った瓶を持っている。ラベルを見るに、どうやら蜜柑酒であるらしい。
「あっ…!凪様……じゃなかった、社長!」
「今は社内ではないし、プライベートの時間だ。昔のように名前で呼んでもらって構わない」
社長はそう言うとすたすたと部屋に入り、そのまま俺が座る座布団の向かいへ膝を立てて座った。
傍に用意されていたグラス二つに蜜柑酒を移す。俺は勧められるがまま、甘酸っぱく爽やかな香りのするその酒を一口、口に含んだ。
「いえ、そういう訳にはいきません。―――社長は、社長ですから。そして俺は今、貴方の会社の一社員です。俺は八雲隊長や東城みたいに確りした性格じゃないかもしれないですが、社外であってもそこは弁えています」
俺が社長を『凪様』と呼んでいたのは護衛時代の事である。
厳密に言うと社長はあの頃も社長ではあった。だが先代に仕えていた頃から『凪様』と呼んでいたし、そもそも護衛は火鋤神株式会社に所属している訳では無く、火鋤神家直属の家人という立場にある。
よって『社長』という呼び方は不適切であり、八雲隊長や東城も、皆それぞれ思い思いに『主人様』だとか『旦那様』だとか呼んでいたと思う。
だが、今は違う。今の俺は火鋤神家の家人ではなく、彼が経営する会社の社員だ。当然名前でなど呼ぶわけにはいかない。
「…ふうん」
社長は肘を立てると無機質にそう呟くと横を向いた。
暫くそうして互いに口を閉ざしていたが、庭の小川の鹿威しが二度静寂を破った後、やがて社長が再度口を開いた。
「なあ、雷生。先ほどのロボットを見ただろう?どう思った?」
「あ…ああ!あれですか…本当に驚きました!」
「そうだろう?この茶室が人の出入りがほぼ無いのに常に整っているのは、全てあの自立型AIロボットによるものだ。あの者達はこの露地の掃除や洗濯、備蓄の管理、露地全体の警護に至るまで全てを担っている。勿論、人間による監視やメンテナンスは必要である為、その役目は翠が行っているがな」
俺はこの露地に着いてから今に至るまでを思い出した。
誰にも会わず人の気配が皆無だったにも関わらず、庭も茶室も、至る所の清掃が行き届いていた。
(つまり、あれは全てロボット君たちのお陰だったわけだな)
それにしても、いくら近年のAI技術が目まぐるしく進歩を遂げていると言っても、まさかここまでとは思いも寄らなかった。
「もしやこの技術も我が社の…?」
俺が恐る恐るそう聞くと、社長はにこりと笑い頷いた。
「その通りだ。まあ、ここまでのものはまだ実際に商品としては出していないから、社内にいるお前でも知らぬだろうがな。…それに、これらの技術は帝鐵の研究を得たのが大きい」
数年前、帝鐵コーポレイションと火鋤神株式会社とで生じた抗争―――通称『帝火抗争』。
最終的に火鋤神が帝鐵を吸収した事で完全に終結したのだが、その結果我が社の技術開発は更なる進歩を一気に遂げる事となった―――というわけだ。
「―――改めて思いますけど、やはり社長は凄いですね。敵対していた帝鐵を徹底的にぶっ潰す事も出来たのに」
俺がそう言うと社長はふ、と笑った。
「代表取締役の立場というのは、常に何が会社の利益になるかを考えねばならないからな。私情は二の次だ。先代を始め、帝鐵の刺客に命を奪われた者は少なくは無いが、その者達の為にもより良い形で前に進まねばならんからな」
一瞬、その顔に暗い影が宿る。
「―――辛くは、ないんですか…?」
俺は、気付けばそう口にしていた。
庭を見ていた社長の目が、す、とこちらを捕らえる。
その顔に既に笑みはない。
その目線が余りにも鋭く、俺は思わずびくり、と後退りした。
「―――そうだな。我が身を切り裂かれ、抉られる事と変わらぬ事をされた相手を喰って、それでも何喰わぬ顔をして笑ってみせる。今お前の目の前にいる『社長』というものはそういうものなのだろうな」
深碧色の眼に宿る黄金の光が刃となって、俺の心臓を刺した。
空気が、凍ったように冷たい。
それは今の季節が冬だから、という理由だけでは無かった。
手が冷たい。
俺は己の膝の上で掌をぐっと握りしめ、震えそうになる唇を必死に動かし、言葉に詰まりそうになりながらも、何とか声を絞り出した。
「…申し訳ありませんでした」
社長は何も言わない。
グラスの酒を一気に飲み干すと、そのまま真っすぐ俺を捕らえたまま、立ち上がり、俺のすぐ横まで歩いてきた。
俺は社長の顔を見上げる。影で表情全てを窺う事は出来なかったが、その眼の鋭さだけが、それが一つの生き物であるかのように、影の中に存在している。
「……社長」
俺が呟くようにそう呼ぶと、社長の綺麗な形の眉がぴくりと動いた。
そうして、そのまましゃがみ込むと、俺の肩を思い切り掴み、そのまま床に向かいぐい、と力を込める。
俺はそのまま押し倒される形で畳に背中から倒れ込んだ。
「………っ!」
突然の事で受け身が取れず、背部に鈍い痛みが走る。
社長はそのまま顔をぐ、と近付けると、そのまま口を開いた。
「―――何故、俺の傍から去った?」
当然の言葉に俺は頭が真っ白になった。
「去った…とは…?」
「抗争が終わってこれからという時に護衛の任を解いて欲しいなどと言われるとはな。お前はそれでさぞや気分が良かっただろうな?血生臭い記憶も、怒りも、失望も、俺への全てを捨て置いて、お前は全てを忘れ、新しい人生を歩んで―――」
感情が湧き出すままに吐き出すようなその言葉は、怒りの中にどこか悲しさが見えた。
俺は咄嗟に反論する。
「…っ!違います!そんなつもりで護衛を辞めたわけじゃない…!ただ、俺は―――」
一瞬言うことを躊躇ったが、心の中で覚悟を決めると、社長の眼を見据え、言葉を続けた。
「俺が傍に居たら、貴方はいつまでもあの抗争に囚われてしまうと思ったから……!!」
あの日。
全てが終わったその日。崩れる瓦礫の中で、夜が明け地平から昇る日の出を皆が見ている中。
火鋤神凪は一人、日に背を向け、瓦礫の中に溜まる汚泥の如き黒い影を、一寸の光も無き瞳で視ていた。
この人は、きっと抗争に関わるもの全てを見る度に思い出してしまうだろう。
悲しい記憶を。血の匂いを。悪意を、憎悪を。
この人は社長として、これからも火鋤神を守っていかねばならぬ立場である。
であれば、その道に存在する茨を少しでも取り除けるように。
まずはこの人の血の記憶そのものである俺自身が傍を離れ、一社員として遠くからこの人の助けになれるよう努めよう―――
そう思い、俺は他の二人と共に護衛を辞退したのだ。
社長は俺をじっと見つめたまま、口を開いた。
「―――八雲も東城も、あの二人が護衛を降りる事は構わなかった。お前達は同じ護衛という立場ではあったが、各々が俺を守る理由の核の部分は其々違うという事も分かっていたからな。
八雲は先代―――父との忠義と約束を守る為に。東城は己の大切なものを劫奪した者共に報いを受けさせる為に、其々俺の元戦ってくれた。
雷生、お前はどうだ。お前の戦いは何の為だった?」
俺の、戦いの理由。
何の為に命を賭し戦ったか。何の為に血を流したか。
「俺の戦いは、貴方の為です。凪様」
一寸先も見通せぬ闇の中、憎悪の炎に焼かれながら誰よりも先を一人歩くその姿。
地獄に囚われながらも表情一つ崩さず進み続けるその姿に、俺は今までの己が感じた事も無いような神聖さを感じ、傾倒した。
そして、その身を守る盾に、向けられる悪意を打ち砕く刃に、なりたいと思った。
そして、その傍に仕える内、更に深い、別の感情が湧き上がっていくのを感じた。
それは決して、俺などが抱いてはいけない感情で―――
(嗚呼、思い出した。そうだった。何でこんな事も忘れちまってたんだろう)
吐き気を催すほどの壮絶な記憶を思い出したくなくて、叶わぬ己の気持ちを消し去りたくて、全てに蓋をしていたのかもしれない。
「そうだ。お前はあの時、そう誓いを立ててくれていた。
雷生、お前が先程言ったとおりだ。抗争が終わったからといって、それで全てが終わるわけではない。二つの相反するものを融合するという事は、表面上は何も起こっていなかったとしても、底の部分ではいつ歪が弾けてしまうか、常に油断の出来ぬ状況が続くという事。
俺にとっては、まだ戦いの日々は続いている。
しかも、一人で、だ。あの時は、お前達が、お前がいたというのに。
―――雷生、俺にはお前が必要だ。お前はどうだ。」
先程までとはまた違う、燃えるような眼。
心臓に蓋をし、鍵を掛けていた感情。
それを今、鍵を壊し、全てを引きずり出され、曝け出されようとしている―――
「俺、は」
言ってはならぬのは分かっているのに。
言葉が口を介して止まらない。
「俺は、貴方が好きです。あの日と変わらない。貴方の為に、俺は全てを捧げます。―――社長」
最後、そう言ったと同時に、社長は俺の口を手で塞いだ。
そうして、そのまま俺の耳に口を近付けながら、ゆっくりと呟くように言う。
「違う。言い直せ」
心臓が締め付けられるように痛い。
俺は情けなくも視界が滲むのを感じながら、緩められた掌の隙間から絞り出すように言った。
「…っ、凪…さま」
俺が震える声でそう言うと、男は耳もとでくすりと笑った。
「そうだ、それでいい」
社長―――凪様はそう言うと少し起き上がり、先程と同様、俺を畳に縫い付けながら俺を見下ろし言った。
「―――酒を飲んでしまった。運転は出来ないから、悪いが今夜は送っていけないな」
そして目の前の男は、少年のような顔で、どこか悪戯で、熱っぽい笑みを浮かべた。
(……ああ…もう逃げられねえ)
照明が消された部屋は暗く、ただ庭の石灯籠の灯りだけが、滲むように互いの身体を僅かに照らしていた。
―――
日の出の煌々とした明かりが、瞼の向う側から透けて見えている。
あの日、抗争が終わったあの日に見た日の出と、同じ陽の光。
俺はゆっくりと瞼を開け、隣を見る。
規則正しく静かに寝息を立てている男の朱殷の朱殷の髪と白い肌が朝日に照らされ、輝いていた。
昨晩の事を思い出し、俺は顔が青ざめていくのを感じる。
(―――う…うああ…!や、や、やっちまった…!いや、逆か…?ってちがーーう!!!そういう問題じゃねえ!!)
頭を抱えている俺の横で、少し唸りながら隣の男がゆっくりと瞼を開けた。
「ああ、おはよう。雷生」
そう言って社長は微睡んだ顔でゆっくりと微笑む。
(う…うわああああ!!!どうなる、俺…!?)
社長の瞳は、あの日瓦礫の中で闇に染まっていた瞳ではなく、美しい日の出の光を宿した、神々しいまでの輝く瞳であった―――。
『ご挨拶』
お世話になっております。微睡空子と申します。
本日は拝見して頂き有難うございます。
普段はこちらで短編小説群を書いている者です。
年末年始、如何お過ごしでしょうか。
こちらへ小説を載せさせて頂いてから早二ヶ月程、読んで下さっている方々には感謝してもしきれません。
本当にありがとうございます。
本日は良い機会ですので、私が普段書いている小説の概要を、自分用メモも兼ねて少しお話させて頂きます。
こちらへ投稿させて頂いている小説群は、全て繋がっているお話です。
物語はこの世界に酷似した世界線の、少し近未来の日本を舞台としています。
そして物語の軸として、(この物語での)数年前、日本有数の企業同士が衝突し合った抗争が存在しています。
違法且つ非人道的な人体実験を裏で行っていた帝鐵コーポレイション、そして帝鐵の暴走を止める火鋤神(かすくがみ)株式会社の二企業の抗争で、この抗争は『帝火抗争』と呼ばれていました。この二つの企業の抗争は政府をも巻き込み、やがて武力抗争にまで発展しています。
この抗争は火鋤神側の勝利となり、帝鐵は火鋤神に吸収される形で終結したのです。(このあたりのお話もいづれ書くかもしれません)
そしてこの物語は、それから数年経過した後、実際にその抗争の渦中にいた者達の"過去からの浄化"をテーマにした物語です。
主要人物の一人である東城翔(とうじょう かける)という男がいますが、彼は抗争時、火鋤神株式会社代表取締役・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)の護衛だった者のうちの一人です。
また、東城と恋人同志であり現在彼と同棲している四ノ宮七星(しのみや ななせ)。彼もまた、抗争時に火鋤神の研究班に所属していました。
この二人の物語を中心に、火鋤神代表取締役・火鋤神凪とその元護衛・獅子戸雷生(ししど らいせい)、元護衛隊長・八雲弦狼(やくも げんろう)、その妻であり凪の妹でもある八雲翠(やくも すい)、これら登場人物達の其々の物語を展開していきたいと考えています。
これから新たな登場人物や新たな展開が増えるかもしれませんが、ゆるりと楽しんで頂けたら幸いでございます。
それでは皆様、よいお年を!
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「手袋の起源は古代ギリシャにまで遡る。美と愛の女神ヴィーナスがいばらの棘が刺さらぬよう手袋を嵌めたという記述がホメロスの作品で記されていた。また中世では騎士が相手に向かい手袋を投げる事で相手との断交の印として使用されていたのだという。
そこから現代に至るまで我々と手袋は常に共にあった。そう、時には防寒用として、時には滅菌用として、時には防具用として―――。
故に、我々の歴史は手袋無しでは語り得ないと言っても過言では無いだろう」
四ノ宮七星(しのみや ななせ)はそう言って持っていた本を閉じた。勿論、手には手袋が嵌められている。
「…お前、さすがに家でも手袋はやりすぎだろ。暖房つけてモコモコ靴下も履いて毛布もかぶってるじゃねーか」
東城翔(とうじょう かける)は少し呆れたようにそう言った。
それを聞いた七星はムッとした顔で翔を見る。
「何も分かっていないな。寒くて仕方が無い」
「お前…そんな寒がりだったか…?まあ、確かに今年はかなり寒いが…」
「常に体中が発火してそうなお前と比べて俺の熱伝導率はそう高くは無いんだ。何かでこうして温めていないと寒くて仕方が無い」
どこか不機嫌そうに七星はそう言うと頭まですっぽりと毛布に潜ってしまった。
それを見ていた翔の目がスッと細くなる。
彼はゆっくりと七星の毛布を両手で解くと、驚いて何か言いかけた七星の口を指で塞ぎ、意地の悪い笑みを浮かべて、言った。
「―――なら、俺が温めてやるよ」
そうして翔は、七星の手袋を己の指を絡め、じっくりと蕩けさせるように外していく。
テーブルに置かれていたグラスの中に入っていた氷が、溶けてカラリ、と高い音を立てた。
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「さすがに道が混んでいる。駅周辺を抜けるまではこのような感じだろうな」
渋滞気味の道路をゆるりと走らせながら、我が社の社長・火鋤神凪(かすくがみ なぎ)はそう言って少し困った顔で笑う。
俺は助手席に座りながらどうにも落ち着かない心を鎮めようと、こっそり深呼吸してみたり別の事を考えるように努めようと努力していた。だが、余りにも唐突かつ予想外なこの状況の前では、それらの行為は少しも意味を成さなかった。
(―――ってか無理だろ!凪様…じゃなかった、凪社長直々に運転されているプライベート用車の助手席に乗ってるんだぞ…!?)
目立ちたくないと言いつつ乗っている車は超が付くほどの高級車で、内装たるや全てがラグジュアリー。
俺のような一般人が乗るのが本当に申し訳なくなってくる程である。
そもそも元々護衛を任されていたとはいえ、今となっては大企業の社長兼取締役と一般部署に勤める一社員である。同じ社内に籍を置いていても、その差は一目瞭然であった。
(…そりゃ、あの頃はよく会話する事はあった―――けど)
帝鐵コーポレイションと我が火鋤神株式会社が争った「帝火抗争」。俺と八神隊長、同僚の東城翔は先代・火鋤神佐近直属の護衛であった。
抗争の最中、敵の刃に倒れた佐近から社長の座を譲り受けた凪は、社長の座と共に俺達護衛をも共に譲り受ける事になる。
護衛といえば所謂SPのようなものと認識されるかもしれないが、この場合に於ける"護衛"とは言わば懐刀のようなものである。
敵の調査を行う事も勿論、命とあらば奇襲を仕掛け、命を賭け敵と刃を交える事など幾度もあった。
故に、俺達―――少なくとも俺にとって主人・火鋤神凪の存在とは己の命そのものであり、その言葉は絶対的―――命令というよりかは神託に近いようなものであった。
先代・左近に仕えていた時はそのような感情は抱かず、主君と部下の関係性そのものであったと記憶している。
けれどこの火鋤神凪という人物に仕えるようになると、その関係性はまるで違った。
(―――なんつーか、神様に近いような人と会話してるような感覚だったんだよな)
それは火鋤神凪という存在そのものがそうさせるのかもしれない。
少年のようなあどけなさを持ちながら、深碧色に一滴の金を落としたその瞳は常人離れした雰囲気を彼に纏わせる。
朱殷色の長い髪を一つに高く結び、常に和装を身に纏い、表情から一切の真意を悟らせぬその姿は君主そのものだ。
そして、少し低く艶のある声―――
あの姿とあの声で死ねと命令されていたら、当時の俺であれば一寸の迷いなく自死していただろう。
それ程までにこの人に心酔しきっていた。
(もしかしたらあの時は抗争の雰囲気でそういう感じになってたのかも知れねえな)
兵士が戦時中に経験する心理的状態に"従順性"や"英雄崇拝"といったものがある。
あの頃の自分が、それに近い状態だったと考察すれば納得がいく。
ただ―――。
それを鑑みたとしても、火鋤神凪という人物が人を限りなく強く惹きつけ、また恐ろしい程人に畏怖の念を抱かせる存在である事には変わりない。
現に現在、社長である火鋤神凪に対して好意的な印象を持っていない人物に出会った事は無く、火鋤神凪が進める社の政策に不満を抱く者は存在しない。
そう考えると、少し末恐ろしい人物ではある。
(年齢不詳だしな…見た目は俺より全然年下に見えるんだけど、社長の妹の翠様が幼かった頃に既にこの見た目だったって噂もあるし……)
全てに於いて謎めいている―――。
「…どうした、俺の顔ばかり見て。そんなに男前か?」
そのような事を考えていたら自分でも気付かぬ内に社長の顔を凝視してしまっていたらしい。
社長はそう言って悪戯な顔で笑ってみせる。
「す、すみません!…いや、その…どうして今日は俺を連れ出して下さったのかと思いまして」
俺は誤魔化す為に咄嗟にそう言った。
何となく、社長の謎について考えていたとは言いづらい。
「んー?」
社長は運転しながら顎に手を触れる。
「さあ、何でだろうな。まだ秘密だ」
そう言うと悪戯に目を細めた。
「秘密…ですか」
秘密にする程の何かがあると言う事だろうか。
社長は暫くそのまま黙って運転していたが、不意に「なあ雷生(らいせい)」と口を開く。
「お前は何でクリスマスが嫌いなんだ?」
「…っ!」
突然の核心を突く質問に思わず俺は怯んでしまう。
「どうした、言いづらい事か?言えないなら無理に答えなくて良い」
「いえ、そう言う訳じゃ無いんですが……聞いても特に面白い話じゃないですよ?」
「構わない。お前さえ良ければ教えてくれないか」
俺は一度瞼を閉じ、深く息を吐く。
この話をするのは少しばかり、心の準備が必要になるのだ。
気付けば車は混雑を抜け、夜の市内を駆け抜けていた。光の線となって視線を通り過ぎてゆく色とりどりのネオンが美しく、眩しい。その中で、少し遠くに立ち並ぶオフィスの高層ビルは黒く暗く、小さな灯りを静かにそっと灯している。
―――目まぐるしい今に埋もれていても、決して消えず常に其処に存在している過去のように。
「俺の両親は、俺がちっさい頃に離婚しました。親父の顔はよく覚えていないですけど、唯一覚えているのは俺がハイハイしている時見た、母と言い争っている姿だった。そんな頃の事を覚えているんだから、よっぽどショックだったんでしょうね、当時。
それから母は女手ひとつで俺を育ててくれていましたが、母はそりゃあもう厳しい人で、俺が少しでも何か出来なかったり間違えたりしたら、すぐに殴ってくるような人でした。まあ、今考えてみれば母も全て一人で仕事に家事に子育てとやらなきゃいけなかった訳ですから、大変だったんでしょう。世の中も、今みたいに子育てに手厚い訳でも無かったですし。
―――前置きが長くなりましたが、そんな訳で母は仕事で家にいない事も多かったんです。学校の行事にも来れなかったし、当然、クリスマスも誕生日も、イベント事はうちにはありませんでした。
学校の奴らが話すプレゼントの話や、嫌でも見かける街中の装飾、幸せそうなカップルや家族を見るのが本当に本当に嫌だった。
それをいい大人になってもいつまでも引きずっている―――って訳です」
まあ、今は一緒に過ごす恋人が居ないっていう妬みが一番ですけど―――そう言って俺は嗤った。
(…あれ?)
何らかしらの反応がすぐに返って来るかと思っていた俺は、何も反応がなく、車内が沈黙に包まれている事に気付き、運転席の方を見る。
赤信号で止まっている中、社長はじっと、まっすぐにこちらを見ていた。
(…!?……しゃ、社長が…俺を…見つめている…!?!?)
緊張か動揺か、それとも別の何かなのか、鼓動が速くなるのを感じて俺は思わず目を逸す。
「――――すまない」
どうして良いのか分からず俺が己の膝をじっと見つめていると、社長は少し経った後そう言った。
俺は思わずバッと社長の方を再び見る。
「なっ……え!?何で凪社長が謝るんですか!」
社長は今度は伏し目がちに、とても悲しげな表情を浮かべていた。長い睫毛が眼に影を落としている。
「そのような理由だったとは。辛い記憶を思い出させてしまったな」
「いえ、全然大丈夫っす…!…こちらこそ、社長にそんな思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
こんな話、言うべきじゃ無かった。
けれどどうしてか、凪社長にはつい全てを話してしまうし、知っていてほしいと思ってしまう。
(…あの頃の信仰心がまだ抜けてないのか?いや…それとは何か違う気も…)
「……雷生」
社長は赤い信号の光を見つめながら、ぽつり、と呟くように言った。
「俺にはお前の過去を変える事は出来ぬし、お前の過去にもなってやれない。
―――けれどお前の"今"になれたら嬉しく思うし、今日も含めこれからそうなれるよう努力しよう」
社長はそうして、俺の方を見、菩薩の様な優しい顔でそっと笑った。
一回大きく心臓の音が鳴る。
思わず俺は目を見開いた。
「…あ…ありがとう…ございます…?」
顔が熱い。俺はそのような間の抜けた返事を返すと再び己の膝へと視線を戻した。
(な…な…なんだ…!?お、俺の"今"!?え!?今ってなんだよ!?いや…そんな深い意味は無いのかも…。マジでどうなる、俺……!?)
信号か青に変わる。
車は夜をゆっくりと駆け出していった。
22
「今年はプレゼント貰えっかなあー?」
同居人・東城翔(とうじょう かける)はそう言って寝転がりながらこちらを振り返る。
やや高揚したその声と、ニヤついているのを隠しきれていない顔に無性に苛ついた俺は、持っていた本を隣に置き、近くにあったクッションを投げ付けた。
「いてっ!…ったく、ひでぇなあ。こんなに男前で愛しの恋人に対して容赦がねぇよ、全く」
「…うるさい。お前が調子に乗っているからだ」
俺はそう投げ捨てるように言うと、再び本を読み始める。
「ちぇっ、何だよ。俺に優しくしておかねえと明日サンタが来なくても知らねえぞー!!」
サンタはどこからでも見てるんだからな、と翔はこちらを前のめりになりじっと見つめながら言った。
俺は返事を返さぬまま、本で己の顔を隠す。
(…ったく……)
俺は心で溜息をついた。
いつもの2割増くらい調子に乗っている翔も憎たらしい。が、それ以上に今の反応に可愛らしさを抱いていたり、また明日枕元に置かれたプレゼントを嬉しそうに抱きしめ、開けている姿を想像するだけで心がほんわりと温かく、顔が綻んでしまうほど、己が奴に溺愛している事が心底腹立たしいのである。
そんな事悔しくて絶対に奴に知られたくない俺は、本を顔の前で掲げたまま、奴に背を向けソファに寝転ぶのであった。
聖夜の夜まで、あと少し。