21
「わあああああ!!!」
その瞬間、俺の叫びは風呂場で何重にもなって響き渡った。
「何って見ての通り、柚子風呂に決まってんだろ。ほれ、もう一丁!!!」
元気よくそう掛け声を上げて東城翔(とうじょう かける)は俺が入っている浴槽へと思い切り柚子を投げ入れてゆく。
投げる勢いが強すぎるせいで、柚子は湯の表面に振れた瞬間、爆発かと思う程の轟音と水しぶきを上げて湯の中へと入っていった。
「おい、そんなに強く入れなくても良いだろう…!そもそも何個入れるつもりだ」
既にもう二十個ほどは入っている。いくら柚子風呂だと言っても、これは入れすぎと言って良いだろう。
翔は風呂場の入り口付近に仁王立ちしている。
両手には柚子を更に二個づつ持ち、自信に満ち溢れた表情でこちらを見ていた。
「何言ってんだ。柚子風呂なんてのはな、柚子を入れれば入れただけ効果効能があるってもんだ」
「そのような事は無いと思うが…。そもそも冬至はもうとっくに過ぎただろう」
俺は追加で投げ入れられる柚子を避けながら言った。
「分かってねえなあ。イベントなんてのは、"今日だ!"って思ったその日にやりゃあ良いんだよ。クリスマスが夏だって思うなら夏にやりゃあ良い。今は令和の時代だぜ、もっと自由に、フリーダムに行こうぜ!!」
「いや、確かに一理あるが…。とは言えさすがに極論過ぎだろう」
「良いじゃねーか。ほら、それに柚子の良い香りでリラックス出来るだろ」
確かに―――俺は気がつけば頭頂部に乗っていた柚子を手に取り、鼻に近付け少し嗅いだ。
爽やかな酸味のある柚子の香りが心地良い。
「―――この前、俺風邪ひいただろ。で、久々に風邪引いたら結構辛かったんだよ。だから…お前にはそんな思いしてほしくなくてな」
だから柚子を箱買いしてきたんだよ―――翔は少し照れくさそうにそう言って笑った。
(…つまり、俺の身体を労って柚子風呂を―――)
先程までこの男の挙動を全く理解出来なかったのだが、そう聞いてしまうと照れくさいやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら、様々な感情が俺の中で沸々と湧いてきた。
俺はどう反応していいのか分からず、思わず翔へ背を向けた。
翔は照れ隠しなのか、そんな俺に向かい無言で次々と柚子を投げつけていく。
ぽこぽこと頭に柚子を受けながら俺は目を閉じた。
(確かに嬉しい。思えば突然箱で柚子を買ってきて、いつもは面倒臭がって嫌々やってるくせに今日は当番でも無いのに風呂掃除に湯船の準備まで突然し始めたと思ったが―――俺の身体を気遣っての事だったのか)
柚子の香りが途端に照れ臭く感じて、俺は思わず鼻まで湯に浸かった。
(先程からぽこぽこと頭に柚子を投げてくるのも愛情の内というわけだ)
このような幼稚な愛情表現もその心情を知れば愛おしさすら感じる――――
「―――訳無いだろ。くらえ」
俺は湯から顔を出すと、浮いていた柚子を掴み、振り向きざまに思い切り翔に向かい投げ付けた。
弾けた柚子の香りが鼻腔をくすぐる。その感覚がくすぐったいのか、湯にのぼせたのか、俺は頬が熱くなっているのを感じた。
20
街中の至る所からクリスマスの圧を感じるのである。
赤や青、金色の光できらきらと眩しく装飾された木々や建物。そこかしこの店先に置かれたサンタやトナカイの光る置物。ツリーなど十歩に一本は置いてある。
極めつけはどこからも流れてくるクリスマスソングである。もろびとナントカやナントカキャロルだとか、如何にもクリスマスといった曲が歩く度にそこかしこから耳に入り込み、鼓膜を攻撃する。
「くそが…っ!」
俺は思わず小さく毒付いた。
どこを見てもクリスマス、クリスマス、カップル、カップル―――
(今年も相手がいねえのかよおおおお!!!!畜生がああああ!!!!)
どこにもぶつけようが無い心の叫びは、ただ虚しく己の脳内でこだまするだけであった―――。
上司の八雲さんは結婚しているし、最近知ったのだが同僚のゴリラ―――もとい東城ですら恋人がいるというのだ。
(つまり!!職場で!!俺だけが!!!恋人がいねええええあああ)
今年もこの病が発症する季節がやってきた。このクリスマス発狂病は12月25日まで続く病で、そろそろ毎年恒例のイベントのようになりつつある。
去年はどのように過ごしていたか。記憶にないが、確か一人で家でドラマだかアニメだか見ながらケーキとチキンを食べて過ごしたと思う。
クリスマスは嫌悪しているが、かといって季節もののウマいものを食い損ねるというのも負けた気がして嫌だった。
今年はどうするか。とにかく『何かに集中して過ごしていたら気がついたらクリスマスが終わっていたね』という状況を作ることが重要である。
(…いっそ山にでも行ってみるか。山寺に修行にでも行って煩悩を滅殺するか)
来るXデーに備えてあれやこれやと画策を練って歩いていると、思考を巡らせるのに集中し過ぎたのか、気がつけば俺は駅近くの大通りへと辿り着いてしまっていた。
「…しまった」
普段の何もない時の俺は、この大通りを通り駅へと向かい、そこから電車に乗り家へと帰宅する。
だがこの時期は駄目だ。
この大通りはクリスマス時期になるとイルミネーションをこれでもかという位に飾り付けする。
普段の倍ほどの人だかりが発生し、それらは当然の事ながらカップルらしき者共でほぼ八割は占められている。
その為、俺はこの時期になるとこの大通りを避け、わざわざ遠回りする形で近くの公園を抜け、駅へと向かうようにしている。
(くそ、ついいつもの癖でこっちに来ちまった)
面倒だが引き返して公園を抜けるか―――そう思い踵を返したその時である。
「どうした。駅に行くんじゃないのか?」
耳ざわりの良い、それでいてよく聞き慣れた声。
背後から突如声を掛けられ、俺はバッと思い切り振り返った。
イルミネーションを背に立つその人物は、話しかけられなければ特に印象に残らぬ出で立ちをしていた。
黒い大きめのダウンコートを着、フードを目深に被っているせいで顔は見えない。
グレーのスラックス、黒の革靴も別に普通ではあるが、強いて言うならよくよく見てみればかなりの値打ちものであるであろうという事くらいである。
背は俺よりも十数センチほど低い印象であるから、百七十数センチといったところであろう。
「……えっと…誰すか?」
確かによく知った声なのに誰だか全く分からない。
思わずそう返す俺に、その人物はこちらへ数歩近付き、フードを少し上へずらしながら顔を見上げた。
「酷いな。俺の事はすっかり忘れたか?」
深碧の瞳、少年のような可愛らしく端正な顔。
長い朱殷の髪の一束が、はらり、とダウンコートから零れ出た。
「んなっ…!は!?な、凪さ―――じゃなかった。社ちょ―――」
思わず後ろへ転びそうになりながら俺は声を上げた。
目の前の男は即座に俺の口を押さえる。
「こら。―――バレたらどうする」
そう静かに注意すると、男は俺の口から手を離し、辺りをそっと見回すと、俺の腕をおもむろに掴んだ。
俺が何も言えずに動揺しているのをよそに、男は通りの横にある細い路地へとそのまま俺を引っ張っていく。
「―――ここなら良いだろう」
路地の奥まで来ると、男はそう言って被っていたフードをそっと外した。
後ろに束ねた朱殷の髪が風に靡く。
火鋤神凪(かすくがみ なぎ)。現在俺が所属している会社『火鋤神株式会社』の社長であり、かつて大規模な抗争があった際、俺が命を賭して護衛していた人物である。
「しゃ、社長!すみません…!まさかこんな所にいらっしゃるとは。あ、まさかお一人で!?危険すぎませんか!?っつーか洋装じゃないですか!社長の洋装初めて見たなあ」
衝撃的過ぎて矢継ぎ早にあれこれ話していると、凪社長は呆れたように息を吐きながら腕を組んだ。
「全く―――相変わらず忙しない奴め。…あのな。俺はただアレを視察しに来たんだ」
そういって凪社長は親指で大通りのほうを指差す。
「アレって…イルミネーションすか…?」
「そうだ。今年からあのイルミネーションには、我がディビジョンの技術が利用されているからな。どのような様子か実際に見に来た―――お前はところでどうして引き返そうとしてた?」
「あー…これはその」
俺は目線を宙に彷徨わせた。
クリスマスが嫌すぎてイルミネーションを避けていたなんて死んでも言えない。ましてあの大通りのイルミネーションにうちの会社の技術が使われているとなれば尚更である。
何か気の利いた言い訳を考えようとしたが潔いくらいに何も思い浮かばない。
俺は仕方なく「何となくです」と自分でもよく分からない返事を返した。
凪社長は「ふうん」と一言言った後、じっと俺の方を見ると、再びフードを゙被り直し俺の手を引っ張った。
「―――近くに車を止めてある。雷生(らいせい)、少し付き合え。明日は休みだし、その様子だと今日はこの後も予定は無いんだろう?」
全部済んだら家まで送ってやるから――
凪社長はそう言うと俺の返事を待つことも無く、俺を引っ張って歩いていってしまう。
「!?!?」
(な、凪社長とドライブ…!?)
傍にいた護衛時代ですら二人きりで何処かへ出掛けた事は無い。
一体、何の目的があるのだろうか。
(どうなる…!?俺……!)
どこからともなくクリスマスの鐘の音が聞こえる。
俺は成すすべもなく、社長の高級車の助手席へと詰め込まれたのであった。
19
あの日、その瞳は
ただ一切を寄せ付けず
憎悪と殺意に揺らめく炎を宿していた
―――
「この辺りに来るのは久しぶりだな」
両手一杯に荷物を抱えながら東城翔(とうじょう かける)はそう言って俺に笑いかけた。
「ああ。こちら側は駅とは逆方向だからな。家からもそう近くは無いし」
俺はそう返しながら持っている荷物を持ち直す。
日曜日の夕方。
家から歩いて二十分程の場所にあるこの辺りへ今日赴いた理由はただ一つ、ここに居を構えているスーパーの一つが閉店セールをやっていたからである。
俺と翔は確かに互いに確りと働いてはいるが、それでも昨今の物価高が厳しい事には変わりない。
まして、翔が某テーマパークに行きたいとずっと言い続けているので、それに向けて我々は少しでも節約をし、資金を貯める必要があるのであった。
(翔がああいった場所に行きたいと言うのは少々珍しい気もするが―――)
実は俺自身はあまりああいった、人が大勢集まる場所は得意では無いのだが、俺に遠慮してか普段そういう場所に行きたいと言わない翔が今回初めて行きたいと言ってきたのである。という事は余程某夢のテーマパークへ憧れを抱いているのであろう。
そうなってくると俺としては奴の夢の国行きを何としてでも叶えてやらねば、と思う。
(―――そうだ。もっとこいつには楽しく、やりたい事を沢山やって生きていてもらいたい)
あの頃、あれほど暗く苦しい思いをしたのだから。
「―――お!良い眺めじゃねーか!」
住宅街の中の緩やかな坂道を抜け、目の前に広がる景色に翔は歓声を上げた。
それは確かに美しい綺麗な景色であった。
小高い場所に位置するこの場所からは街全体を眺める事が出来、夕陽がオレンジ色に全てを染め上げている。
遠くには駅や、電車が走る姿が見える。
まるで、小さなジオラマを見ているかのような不思議な感覚であった。
「―――確かに美しいな」
―――だが。
此処からの景色は"見えすぎる"。
「こんな場所があるなんて、ここに越してきてから初めて知ったぜ。」
そう言って目の前の景色を見下ろす翔はキョロキョロと様々な方向を見ていたが、その目線が再度正面に向いたところでピタリと止まった。
ちょうど駅の更に向こう側。
住宅街やビル群など、まさに今現在人が居る建物が立ち並ぶこちら側とは違い、古ぼけた廃ビルや工場跡が亡霊の如くそびえ立つ、まさに廃墟と化した一角。
「―――第捨八区」
翔がぽそり、と低くそう呟いた。
第拾八区。その呼称は一般人には馴染みが無い。
大体あの一角は『旧帝鐵工業団地』や『工業団地跡』などと呼ばれる場合が殆どである。
かつて、あの一角は帝鐵株式会社という、製鉄技術を一端に多方面分野に於いて様々な研究開発を行っていた会社の工場や研究所が多く立ち並ぶ場所であった。
そしてあの地は、帝鐵が影で行なっていたとある技術開発ひいては国の第一企業としての地位を巡る最後の争いが起こった場所である。
企業同士の争いが国をも巻き込み武力抗争までに発展した『火帝抗争』。あの地は、人々にとっては『歴史の爪痕』といったところであろう。
そして、第拾八区という呼称は主に、帝鐵と戦った国内最大の企業『火鋤神(かすくがみ)株式会社』内で使われていたものである。
そして、俺も翔も、かつて互いに知らぬ者同士であったが、その会社に籍を置いていた者同士であった。
けれど。
研究職であった俺と、実際に戦った翔とではあの抗争への記憶の思い出がまるで違う。
あの廃墟も、こうして見るとある種の美しさがあるのだが、俺にとっては嫌悪すべき対象でしかない。
何故なら。
「―――翔」
過去に思いを巡らせる時。
普段の翔とは全く違う表情を、眼をするから。
冷たく、どこか残酷な表情。眼はどこまでも闇深く、どこか此処とは別の、遠い遠い先を視ている。
ぞわり、と湧き上がる感情が全身を駆け巡った。
俺の知らない世界を視ないで。
俺の知らない表情で、俺の居ない、俺の知らない過去を思い出さないで。
俺の知らないところで一人で苦しまないで。
どうか俺を置いていかないで。
俺を残して何処かへ行ってしまわないで。
俺の知らないお前にならないで―――!!!
「………七星(ななせ)」
気付けば、俺は持っていた荷物を落とし、奴の腕にしがみついていた。
どこか驚いた様子の翔の顔は、強い夕陽の逆光で何も見えない。
「―――寂、しくて」
己でも何を言っているんだと呆れ果ててしまう程の薄っぺらい言葉である。
自分がこんな言葉を吐いている事にさえ驚く。
ここは冗談だと少し笑ってさりげなく腕を離すべきだろう。
けれど、俺は翔の腕を話すことがどうしても出来なかった。
「―――七星」
翔はもう一度そう俺の名を呼ぶと、荷物を置き、そのまま腕を引き俺を引き寄せ抱き締めた。
「本当にお前は良い香りだ。それに見た目も中身もこんなに綺麗で暖かくて愛おしくて―――ああ、俺は本当にお前を愛しているよ」
絶対に何処にも行かない―――そう言った翔の顔はこの体勢からでは見えず、抱き締められた胸の中で想像するしかない。
その暖かい胸の中で、俺は己から溢れ出た感情の粒が静かに流れ、頬を伝うのを感じた。
18
「寒いッッッ!!!!!!」
大きく山のように丸く膨らんだ毛布から渾身の一声が聞こえた。
「おい、そろそろ起きろ。せっかくの休日が台無しになるぞ」
ゆらゆらと湯気が立ち昇る珈琲を一口飲みながらそう声を掛けてみるものの、毛布山はモソモソと動いたのみで、一向に中身が出てくる気配は無い。
俺はマグカップをテーブルの上に置くと、一度小さく溜息を吐きながら毛布の山へと近付いた。
「―――ほう。俺を無視するとは良い度胸だ」
俺は一言そう言うと、毛布山めがけて思い切り回し蹴りをお見舞いした。
山の奥から「ぐえっ」という奇声が発せられる。
「痛ェじゃねーか!何すんだよ!!」
そう叫びながらようやく出てきた大男は、肩程まである黒髪を掻き上げながら俺を仰ぎ見た。
俺は「ふん」と小さく毒づき、男の額に人差し指を立てる。
「翔(かける)がいつまでも起きないからだろう。先週は風邪のせいで何もできなかったからな。今日こそはやるぞ」
「やるぞ…って、まさか……七星(ななせ)お前…」
翔がゴクリ、と喉を鳴らしながら毛布を退かし立ち上がる。
俺は縦に頷き、腰に手を当てた。
「そうだ。今日こそはやるぞ―――年末最後の禊…大掃除を!!!!」
―――
「嫌だ…やりたくねーよう…なんで大掃除と冬はセットみたいになってんだよ…寒いんだから冬と一緒にじゃなくてもいいじゃねーか…春秋くらいが丁度いいのに…」
「文句を言うな。やらなければ終わらないだろう。念の為言っておくが大掃除が終わらなければ他の全てはお預けだからな」
二人で掃除を分担しながらも、この期に及んでまだ及び腰の翔に俺はちくりと一言刺しておく。
「何だと…!?全部、お預け……!?」
其れは困ると言わんばかりに翔は窓を必死に拭き始めた。
「…それにしても」
俺は塵取りに溜まった埃を見、溜息を吐いた。
「一年でこんなに汚れが溜まるんだな」
「そう、だな」
キュッキュッと心地良い音を立てながら翔は答えた。
「ま、でもそれだけこの家で俺と七星が過ごした色んな想い出も沢山あるって事だな!!」
「…っ!」
俺は己の顔が熱くなるのを感じて思わず下を向いた。
「お?七星、お前照れてるのか?」
「…っ!煩い!さっさと終わらせるぞ」
今年の冬は、君と一緒に。
17
「おかえりなさい、今日もお仕事お疲れ様でした。翔珸(ひゅうご)達には先に休んで貰いました。今朝も早かったですから」
八雲翠(やくも すい)は普段と変わらず柔らかな声でそう言いながら夫を出迎えた。
「ただいま。遅くなってすまなかったな」
申し訳なさ気に八雲弦狼(やくも げんろう)がそう言うと、翠は穏やかな笑みを浮かべ「いいえ」と首を振った。
「毎月この頃はいつも大変ですものね。本当に遅くまでお疲れ様でございました―――ご飯は獅子戸(ししど)さんと東城(とうじょう)さんと食べていらしたのですよね」
「いや、獅子戸だけだ。東城はツレと約束があったようでな」
退勤後、凄まじい速さで帰っていった東城を見送った後、八雲は獅子戸を連れ行きつけの和食屋へと赴いた。
その後、電車に乗り帰宅の途に着いた獅子戸と別れ、八雲は家まで歩いて帰ってきたのである。
「東城さんのツレ……四ノ宮くんですね。本当に仲睦まじい」
「そうだな―――でも負けてないだろう?」
弦狼はそう言って妻の頭を撫でる。
翠はくすぐったそうに照れた笑いを見せた。
弦狼と翠は一回り以上離れている。
念願叶って二人が婚姻出来たのはつい五年程前の事であるが、この数年で二人の環境は其々とてつもなく大きく変わった為、まさに激動の年月を過ごしたといえる。
その間、二人は互いに相手をよく支えていた。
「―――でも本当に意外ですわ。あの四ノ宮くんがまさか誰かと付き合って同棲しているなんて―――」
翠は顎に手を当て眉間に皺を寄せながら訝しげにそう言った。
「確かに意外ではあるな…」
弦狼は上着を脱ぎながら、以前ちらりと見た四ノ宮七星(しのみや ななせ)を思い出す。
木蘭の髪、氷の如き冷たい翡翠の眼。どこか中性的な美しい顔立ち。
あのような者は己も周りも相当な苦労があるだろう、と当時思ったものだ。
「四ノ宮七星が翠のところで働いておった時は、とても誰かと付き合うようなタイプには見えなかった―――しかも言ってはアレだが、あのような正反対のタイプと…」
弦狼の頭の中に東城翔(とうじょう かける)がドン、と浮かぶ。
とにかく威勢が良い、ガタイが良い、元気の塊、自信の擬人化。
勿論かなりの良い奴であって、人に優しく、自ら進んで人を助けに行くような奴である。それでいて、つい本人の勢いで忘れそうになるのだが、黙っていればかなりの色男である。漆黒の髪に煤竹色の瞳。男らしいはっきりとした顔立ちで、目は切れ長で色気がある。
(…尤も、以前の奴はあんな風ではなかったがな。環境が奴を変えたか、それとも―――)
弦狼の眼がスッと細まる。
鼻を覆っても溢れ出す血の匂い。
幾重にも重なる、空気を切り裂く断末魔。
最期の瞬間、こちらを視るあの眼―――
「―――旦那様」
腕に温かな感覚がして弦狼はハッと我に返った。
すぐ横で翠が腕に縋り付き、心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫でございますか…?」
弦狼はゆっくりの微笑みながら翠の頬を撫でた。
「すまぬな―――大丈夫だ。少し、昔の事を思い出しただけだからな」
「旦那様―――」
あの頃に比べれば、今の日々の何と穏やかな事か。
このように己を慕ってくれる妻と、こうしてとりとめのない話をして、穏やかな時間を共有して。
(―――そうだ。あれはもう過去の話だ。儂も東城も獅子戸も、光の中で生きていける)
弦狼は瞼を閉じると、妻の額にそっと口付けをした。
外では、雪の音が静かに夜を覆っている。