微睡 空子

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17

「おかえりなさい、今日もお仕事お疲れ様でした。翔珸(ひゅうご)達には先に休んで貰いました。今朝も早かったですから」


八雲翠(やくも すい)は普段と変わらず柔らかな声でそう言いながら夫を出迎えた。

「ただいま。遅くなってすまなかったな」

申し訳なさ気に八雲弦狼(やくも げんろう)がそう言うと、翠は穏やかな笑みを浮かべ「いいえ」と首を振った。

「毎月この頃はいつも大変ですものね。本当に遅くまでお疲れ様でございました―――ご飯は獅子戸(ししど)さんと東城(とうじょう)さんと食べていらしたのですよね」
「いや、獅子戸だけだ。東城はツレと約束があったようでな」

退勤後、凄まじい速さで帰っていった東城を見送った後、八雲は獅子戸を連れ行きつけの和食屋へと赴いた。
その後、電車に乗り帰宅の途に着いた獅子戸と別れ、八雲は家まで歩いて帰ってきたのである。

「東城さんのツレ……四ノ宮くんですね。本当に仲睦まじい」
「そうだな―――でも負けてないだろう?」
弦狼はそう言って妻の頭を撫でる。
翠はくすぐったそうに照れた笑いを見せた。

弦狼と翠は一回り以上離れている。
念願叶って二人が婚姻出来たのはつい五年程前の事であるが、この数年で二人の環境は其々とてつもなく大きく変わった為、まさに激動の年月を過ごしたといえる。
その間、二人は互いに相手をよく支えていた。

「―――でも本当に意外ですわ。あの四ノ宮くんがまさか誰かと付き合って同棲しているなんて―――」

翠は顎に手を当て眉間に皺を寄せながら訝しげにそう言った。
「確かに意外ではあるな…」
弦狼は上着を脱ぎながら、以前ちらりと見た四ノ宮七星(しのみや ななせ)を思い出す。
木蘭の髪、氷の如き冷たい翡翠の眼。どこか中性的な美しい顔立ち。
あのような者は己も周りも相当な苦労があるだろう、と当時思ったものだ。

「四ノ宮七星が翠のところで働いておった時は、とても誰かと付き合うようなタイプには見えなかった―――しかも言ってはアレだが、あのような正反対のタイプと…」
弦狼の頭の中に東城翔(とうじょう かける)がドン、と浮かぶ。

とにかく威勢が良い、ガタイが良い、元気の塊、自信の擬人化。
勿論かなりの良い奴であって、人に優しく、自ら進んで人を助けに行くような奴である。それでいて、つい本人の勢いで忘れそうになるのだが、黙っていればかなりの色男である。漆黒の髪に煤竹色の瞳。男らしいはっきりとした顔立ちで、目は切れ長で色気がある。

(…尤も、以前の奴はあんな風ではなかったがな。環境が奴を変えたか、それとも―――)


弦狼の眼がスッと細まる。


鼻を覆っても溢れ出す血の匂い。
幾重にも重なる、空気を切り裂く断末魔。
最期の瞬間、こちらを視るあの眼―――


「―――旦那様」
腕に温かな感覚がして弦狼はハッと我に返った。 
すぐ横で翠が腕に縋り付き、心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫でございますか…?」

弦狼はゆっくりの微笑みながら翠の頬を撫でた。
「すまぬな―――大丈夫だ。少し、昔の事を思い出しただけだからな」
「旦那様―――」

あの頃に比べれば、今の日々の何と穏やかな事か。
このように己を慕ってくれる妻と、こうしてとりとめのない話をして、穏やかな時間を共有して。

(―――そうだ。あれはもう過去の話だ。儂も東城も獅子戸も、光の中で生きていける)

弦狼は瞼を閉じると、妻の額にそっと口付けをした。


外では、雪の音が静かに夜を覆っている。

12/17/2024, 4:44:57 PM