其れは恐ろしい夢である。
覚醒めようとしても覚醒められぬ。
夢の中で何度も覚醒めようとするのだが、その度に夢の中へと引き戻されてしまう。
一生このまま覚醒められぬのではないか―――
そのような恐怖が脳髄を支配するのだ。
毎夜毎夜、眠れぬほどに夢を視る。
もしかすると、この現実こそが夢であるのかも知れない。
もしくは、夢と現の境目なんて存在せず、すべては只の妄想なのかも知れない。
いずれにしても
この
夢を止める 方法を
見つけなくては。
夢に囚われ、今度こそ二度と眠れなくなってしまうその前に。
11
ゴリゴリゴリゴリ―――――
部屋中に響き渡る聞き慣れたはずのその音が、何故か今日はいつもよりも相当に煩く感じる。
「おかしいな。自分で珈琲豆を挽く時よりも音が大きく感じるのだが―――」
「えー?何だってー!?」
音が煩すぎて聞こえないらしい。
もう夏はとうに過ぎ去ったというのに、男はタンクトップ一枚でミルを力の限り回している。
―――そんなに力を入れたら壊れるんじゃないか…?
そんな一抹の不安を抱えながら男の姿をソファに座りながら眺めていたが、不意にパンツのポケットに振動を感じ、俺はスマホを取り出し通知を確認した。
仕事のメールである。俺は暫くそれを眺めた後、ひとつ溜息を吐くとそのままスマホをポケットの中へと戻した。
「仕事のメールか?」
「ああ。―――全く、緊急性も無いのだからこういう事は休み明けにしてほしいものだ」
休暇中に仕事の事を考えるのは無駄であると思っている。何故なら、そこに給料は存在しないからだ。
しかも疲れる。休暇まで仕事の事を考えたくない。
「あっはっはっ…!でもそうだよなあ。休みを仕事に邪魔された気するもんな」
男はそう言いながらマグカップを二つ乗せたトレーをこちらへ運んで来た。
珈琲の良い香りが広がる。
「ほら、飲んでみろよ。どうだこの俺のグレートな腕前は」
俺は取手を持ち、ひとくち口に含んだ。苦味の中に華やかな酸味が広がる。
「…腕を上げたな」
「だろ!?一緒に住み始めて半年間、お前から散々あーでもないこーでもないって叩き込まれたからな!」
男はそう言うと高らかに笑った。
―――そうか。もう半年経つのだな。
この半年は日々の忙しさの中で、とても穏やかに過ぎていったように感じる。
まるで現の中で見る夢のように。
「…それと、な。さっきの仕事に休みを邪魔されるって話だけどよ」
突如男は己のマグカップをテーブルに置くと、俺のすぐ隣に座り直し、ぐいとこちらへ顔を近づけた。
「お前との時間を何かに邪魔されんのは嫌で嫌で仕方がねえ」
「―――!!!」
何か言わなければ、と口を開いたが頭の中が煩すぎて声が出ない。
俺は思わず目線を下へ落とした。
「おい、目、逸らすなよ。こっち見ろ」
「……っ!」
男は俺の顎をくい、と上げると、煤竹色の深い目で俺の視線を捕らえた。
時計の針の音が部屋に響く。
遠くで街の喧騒が聞こえる。けれど部屋を染める夕焼けはどこか非現実的だ。
今、この瞬間。夢と現実の境目は存在しない。
10
電話を切った後の部屋の静寂が嫌いだ。
毎日大体22:30頃から通話し始め、約1時間後に終える。
そうなると既に深夜とも言っていい時間帯となっており、住宅街の一角に建つこのマンション周辺はシンと静まり返る。
元々、俺は騒がしい場所は好きではない。
だが―――
「お前が騒がし過ぎるせいだな」
枕元に置いたスマホを眺めながら俺はぽつりとそう呟いた。
『あぁ?何だよいきなり』
スピーカーモードにしているせいか、男の騒がしい声もなお一層ボリュームを増している気がする。
「…何でもない。気にするな」
『気にするなって言われてもな………あっ!そうかそうか…分かったぜ…!!』
随分得意げな声で男は電話の向こう側からそう言った。
『さてはお前、俺と電話切るの寂しいんだろ。
そうだよな、分かるぜお前の気持ち…!!俺のボイスって太陽みたいなもんだもんな。太陽沈む時、寂しいもんな!!!』
そう言って男は深夜だというのに元気良く高笑いした。
本当に調子の良い男である。
「お前のその元気はいつもどこから来るんだ、全く」
『お、否定しねーのな。やっぱ寂しいって思ってくれてんのか?お??』
「煩い黙れ。調子に乗るな」
『ったく厳しいねえ。素直じゃねえんだから』
男は残念そうにそう言うと少し間を置き、軽く咳払いした。
『…俺の元気の元はな、勿論この毎日の電話に決まってるだろ』
言わせんなよ、と男は柄にもなく小さい声でそう呟く。
「………ふ」
『あっ!お前今笑ったろ!?くそ、せっかく人が気持ちを伝えたっつーのに…!』
「笑ってない。ただ…そうだな……うむ」
こそばゆい感じがして上手く言い表せない。
―――だが。
「………なあ」
『ん?どうした?』
俺はふう、と一呼吸置いてから口を開いた。
「今日は、もう少しこのままでいてくれないか。眠りにつくまで……もう少し……このままで」
まだ、今は、今日を、この時間を、終わらせたくないから。
だから今日はこのまま、一日を終わらせるさよならは言わないで。
『……お前、ほんとそういうところズルいよな』
「…煩い」
俺は口元を緩めながらそう言うとそっと目を閉じた。
9
『裏表のない』とよく云われる。
確かに我ながら性格は捻くれてはいないと思う。何故なら常に己の肉体を鍛えてきたからだ。肉体の強さは内面の強さ、やはり筋肉こそが総てを支配し凌駕するのである。
ただ、裏表がないというのとは少し違う。
確かに俺は大概の事に対して寛容である。
だが―――
こいつの事となるとそうもいかない。
好きな事をして自由に生きて欲しいと思う反面、嫉妬もするし、独占したくもなる。
否、そんな生易しいものではなく、もっと汚く暗い感情を持つことさえある。
俺以外の奴の事を考えないで欲しい。
どうかその声を、目線を、他のやつに与えないで欲しい。どうか俺以外の事で悩まないでくれ。もしもお前でも泣くことが有るのならば、その涙の理由は俺だけであってほしい。
こいつの総てを俺だけにしてしまいたい。
けれど其れは望みであって望みでは無い。そんな風に俺だけに染まったあいつは俺の愛するこいつではない。
―――悩ましいぜ、全く。
俺はその細身ながら筋肉の程よくついた背中をそっとなぞった。
寝息が乱れ、少しぴくりと痙攣する。
罪悪感と優越感に心が満たされてゆく。
―――俺はこの先もずっとこうして生きていくのだ。
二つの相反する感情。
光と闇の狭間で。
8
「よ……よお………ひ…久しぶり……だな…」
肩で息をしながら苦しそうに男が言う。
冬だというのに額には汗が滲んている。相当急いで来たのであろう。
「いや、一昨日会ったばかりだろう」
俺はそう言いながら玄関の中に男を招いた。
「しかもその前日も会っているじゃないか」
「分かってねえな……別れた瞬間から久しぶりへのカウントダウンは始まってんだよ」
男は黒のレザージャケットを脱ぎながらそう言った。
白のタンクトップが姿を現す。もう冬だというのにその格好は無いだろう―――俺はそう一瞬思ったが、よくよく考えてみればこの男、真夏でも今とほぼ同じような格好である。
「とはいえ―――」
俺が男のジャケットをハンガーに掛けながら口を開いた。
「さすがにほぼ毎日往復50キロの距離を駆け足で行き来するのは大変すぎやしないか…?」
男はソファにどかりと座りながら「でもよ」と話し始める。
「仕方ねえじゃねーか。お前は仕事変えたばっかで今こっちに来る余裕ねーだろ。そうしたらこの俺が行くしかねーよ。その……文章だけじゃなくてちゃんと話したい事だってあるだろ」
「いや、電話は毎日してるだろ」
「そういう問題ではなーーーーーい!!!!!」
男は立ち上がり叫んだ。
「いいか?人間ってのはな、顔と顔を合わせて対話するっつーのが一番分かり合えんだよ。物理的距離は心の距離!!覚えとけ!!!」
俺は珈琲の入ったマグカップを男と自分の前に置いた。
なるほど、確かに言わんとしている事は正しい。対話において、言葉よりも意味を持つのは目線や表情だ。
そういったものを互いに観察し、相手の真意を理解し合う事こそ互いの存在そのものへの理解を深める。
―――本当にいつも柄にもなく物事の本質を良く捉えている男だ。
俺は珈琲を口に含む。そうして、マグカップ越しに男の姿を改めて観察した。
この男はとても真摯だ。優しく、全てを包みこみ、常に真っ直ぐで人を疑う事をしない。
だが、決して盲目的という訳でもなく、世の中の事象を正しく捉えており、それに対する己の意見もしっかり持っている。
それに何より―――
男は再度座り、珈琲を飲みながらも片手でパタパタと顔を仰いでいる。未だ暑いのだろう。何せ、この距離を走ってきたのだから―――
「―――であるならば」
俺は暫く考えた後ゆっくりと口を開いた。
「この家に住めば良いじゃないか」
男の口から含んだ珈琲が飛び出すのを、俺は静かに見ていた。