どこかにいるかもしれない高校生

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10/13/2024, 12:42:19 PM

「子供のように」

私は演劇によく関わるのだが、その中でしょっちゅう言われるのは、「子供のような心を持った人が役者には多い」ということだ。
というのも、人前で一丁前に自分じゃない人間を演じる――時には人間以外も――なんてことは“恥”を身に着けた人間には到底できない所業だからだ。
もちろん世の中の役者さん全てに恥がない子供だと言っているわけではないのでそこだけはおさえていただきたい。

しかし、特に舞台では、大きな声と動きを要求される。
なんなら時々歌と踊りも要求される。
街なかでいきなり踊りだしたり歌い出したりなんかしたら「なんだあいつ」と怪訝な目で見られ、狂ったやつ認定されるのがオチだ。
しかしミュージカルなどではそんな違和感を一切感じさせない。
…人によるかもしれないが。
ディズニー映画などを考えてみてほしい。
あんなに独り言が多くてすぐ歌って踊る奴がいたら現実世界じゃやっていけないだろう。

私も役者の端くれであり、将来は演劇で食べていけたらいいなあなんて思っている人間だから、今までいろいろな役を演じさせていただいてきた。
時には外国人、時にはヤギ、時には概念…(概念?と思う方もいらっしゃるだろうが詳しく説明すると個人が特定されかねないため概念とさせていただく)。
なんなら自分の本来の性別の役を演じたことはまともに演劇を始めてから一度もない。

何にでもなれるのが演劇のいいところだ。
子供の頃、叶いっこない夢を誰しもみたことがあるだろうが、それをすべて実現できるのが演劇だ。
お姫さまだって王子さまだって、スーパーヒーローだってなれる。
現実じゃ起こり得ないキラキラした恋愛もできる。

そんな夢を持てる人間だからこそ“子供のよう”と言われるのかもしれない。
これからも“子供のように”全力で人生楽しんでいきたいものだ。

10/11/2024, 12:51:10 PM

「カーテン」

小さい頃からカーテンが好きだった。
光を透かすものも、遮るものも。
風がある日にベランダを開けて風で膨らむカーテンの中に入ると、まるでおとぎ話の中に入ったような、不思議と満たされる気持ちになった。
風邪を引いて寝込んだ時に、部屋を暗くするために閉めたカーテンの下から漏れる光が、なんだかすごく好きだった。

成長するにつれて、いつしかカーテンは邪魔な存在だと感じることが増えてきた。
エアコンのない私の家は、夏場は常に家中の窓が開いている。
勉強していたりなんかすると、風の強い日は揺れるカーテンが鬱陶しくて仕方がない。
想像力豊かで気が散りやすい私にとって、勉強中に視界に入る揺れるカーテンは妨げにしかならないのだ。

…とは言ってみるものの、やはり私はカーテンが好きである。
風にあわせて網戸にひっついたり、かと思えばブワッと舞い上がったり。
生き物のようで、見ていて飽きない。
カーテンの下で3時間以上カーテンを眺めるだけで過ごせるのは、少し自慢ポイントでもある。
まあそんなことをしているから勉強が手についていないのであろうが、何もせずボーッとする時間も現代社会を生きる私たちには必要なのだと思っている。

最近はやっと涼しく…いや、寒く?なってきたが、また暖かい日でもきたら窓を開け放ってカーテンを眺めて過ごそうか。

その前に受験勉強をしなければ。

10/4/2024, 10:56:10 AM

「踊りませんか?」

笑顔は世界共通言語、とはよく言うが、私は世界共通言語は踊りだと思っている。
正しく言えば音楽か。
世界各地で独自の音楽が生まれ、皆がそれに合わせて身体を動かす。
踊ったり、またはそれを見ていたりすると、自然と笑顔がこぼれる、感動する、泣けてくる。
身体の動きとリズムだけで喜怒哀楽が表せるんだから、すごいものだ。

私は小さい頃、クラシックバレエを習っていた。
趣味程度の簡単なものだったが、多くのことを学んだと思う。
ところで、クラシックバレエには“バレエ語”なるものが存在する。
バレエでは言葉を発さずに物語を演じなければならない。
そのため、そこには独自言語が確立されている。
『白鳥の湖』で、白鳥にされてしまっていることを説明するシーンなどは分かりやすい。
指をさして“あそこの”、両腕を曲げて“悪魔が”、自分を抱きしめ“私を”、羽ばたいて“白鳥にしたの”、、、と先生が教えていたのをよく覚えている。
そんなバレエ語の中でも、多く使われるのが“踊りましょう”だ。
パーティーシーンがある物語はもれなくこれを使う。
両手を上にあげ頭の上でくるくると回す。
そして開けば“踊りましょう”。
私はバレエ語が大好きだ。
踊りだけで、どの国の人でも、バレエをやっていればお話ができる。

私は言語学が好きで、よく色々な国の言葉や、手話などを学んでいる。
理由を聞かれることもあるが、“かっこいいから”ただそれだけだ。
道端で英語の喋れない外国人に声をかけられる。
意味がわからず慌ててる横で、さらっと答える。
かっこいい。
中学生の頃英語研修で観光地に行くことになった時に、各国の“良い旅を!”を調べまくったのはいい思い出だ。

話は飛んだが、やはり私は世界共通言語は踊りだと思う。
この後の人生で使うことがあるかどうかは分からないが、どこかの公園で広場で踊っている人がいた日には、“踊りませんか?”と踊りかけてみたいものだ。

10/2/2024, 11:37:47 AM

奇跡をもう一度

「奇跡」とは何なのだろうか。
「マジ奇跡だわ」なんていう言葉を簡単に口にするけれど、『常識ではありえない、不思議な出来事』なんてそうそう起こるものではない…と思う。

「奇跡」というとプラスなイメージがあるけれど、『常識ではありえない、不思議な出来事』ならば、少しよろしくないことでもいいのだろうか。
まあ、もう一度と願うことはないのかもしれないけれど。

その意味で言うと、私の人生に一度だけ、「奇跡」と呼べる出来事があったかもしれない。
小学校4年生の夏休み、私は田舎で神隠しにあった。
信じていただけないだろうが。
旅行中、トイレから戻ったら両親がいなかった。
かわりに着物を着た長い髭のおじいさんがいて。
両親の居場所を尋ねたら、獣道を指差して「あっちに行ったよ」と言われた。
さすがに怖くて、借りてた自転車のところまで行って待ってたら、5分ぐらいして両親が駆けてきた。
「どこ行ってたの」と半ば責めるように聞いたら、「こっちのセリフ」と言われた。
両親はどこにも行ってなかったらしい。
あの時、もし自分が恐れ知らずで、獣道の方に両親を探しに行ってたら、、、とよく考える。

実を言うと、私はこの奇跡をもう一度、と思っている節がある。
「人生の好きなタイミングに戻れますよ」と言われたら、迷わずこの瞬間を選ぶだろう。
まっすぐ獣道の方に突き進んでやるのだ。
またはそうだな、おじいさんともっと沢山色々なことを喋ってみてもいいかもしれない。

いい歳してそんな妄想をひろげているが、私に霊感などというものはないから、多分また行っても無理なんだろう。
あのときは、たまたま何かの波長が合ったに違いない。
少し寂しい気もするが、それも運命だ。

またいつか、もう一度、と思える奇跡に出会えるだろうか。
自分がこの世にいることが奇跡なのでは、というのは一旦置いておいて。

10/1/2024, 11:31:49 AM

「たそがれ」

私が1日の時間の中で最も好きと言って過言ではないのが、黄昏時だ。
燃えるような夕焼けから、段々と静かな夜に変わっていく様子は、終わりの前の、最後の足掻きのように感じる。

ある日部活が終わって昇降口を出たとき、思わず「あっ」と声が出るほど美しい夕焼け空が広がっていた。
周りのみんなもきれいだと思うのは同じだったようで、「きれい」と口々に言いながらスマホを取り出して写真を撮っていた。
私もこの景色を切り取りたいと思って真似して撮ってみたけれど、なんだか違うような気がした。
写真も確かにきれいだったのだけれど、私が美しいと思った夕焼け空ではないような、そんな気がした。

写真は嫌いではないし、美しいと思う写真にも何枚も出会った。
けれど、撮影した人が感動して、シャッターを切ろうと思ったその瞬間は、もっと美しかったのだろうなあと思ってしまう。
もしかしたら、レタッチする前は、私が写真で見るのとは違った景色が広がっていたんじゃないか、と。

テレビのCMを見ていたとき、「AIが笑顔にしてくれる」「半眼をなおしてくれる」「被写体の大きさを変えられる」「背景を変えられる」と謳っているスマホを見て、写真ってなんのためにあるんだっけ、と考えてしまった。
笑顔じゃないのも、半眼なのも、被写体の大きさも、背景も、全部込みで切り取りたかった瞬間だったのではないのだろうか。

最近は黄昏時に外にいることが少ない。
「おいで、夕焼けがきれいだよ」と雨戸を閉める前にわざわざ私を呼んでくれた母は、今では夕焼けが見える時間に帰ると「もっと勉強してきなさい」と言う。
今度の休日は、窓から外を見てみようかな、と思ったけれど、多分次の休日はずっと先だ。

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