恋人を、行き先は内緒で連れ出すのが好きだ。
相手をびっくりさせて喜ばせたい、なんて殊勝なことは考えてなくて、どちらに向かえばよいかわからない彼女の手を引きたい。そんな自分本位な思いでいる。もっと情けないことを言うと、そうやって必要だからと理由付けないと、彼女の手も取れない男なのだ。
動きやすい格好の方がいいのか、ちょっとフォーマルな服装の方がいいのか。そういう最低限の情報しか伝えない自分に、優しい恋人は次はどこに連れて行ってもらえるのか楽しみだと、柔らかく笑ってくれる。
今日も、待ち合わせ場所に現れふうわりと微笑んだ彼女が、とても素敵で、とても魅力的で。自分の恋人だというのになんだか無性に恥ずかしくなってしまい、言葉数少なく、手を取って足早に歩き始めた。
こんなに素晴らしい人がどうして自分と付き合ってるのだろう。恥ずかしくて、それでも嬉しくて、昂った気持ちでずんずん突き進んでゆく。
進む方だけを睨みつけている自分に、彼女の顔なんて一つも見えやしない。
赤信号で一度立ち止まると、少しだけ周りも見えてきだした。ざわざわと、どうにも騒がしい。それに、周りの皆が自分たちを見ている気がする。
「どうしたんだろうね」
訝しみ、彼女も不快だろうと流石に声を掛けて振り返る。
「あ」
しまった、繋いだ手だけを連れてきてしまった。
なぜ。どうして。疑問をよく口にする子供だった。
知らないことへの興味が尽きなかった。調べ方をまだ学べていない幼子の頃は、それはもう両親は頭の痛かったことだろう。
自ら辞書を引く、資料を紐解く、インターネットで検索する。身に付けてからは無我夢中で疑問を解消していった。
周りの大人はよく知っているねと褒めたし、疑問を持ち解決することは偉いと称えた。自分のこの『知りたい』衝動は良いものなのだと覚えた。
『なんであんたに教えないといけないの?』
中学生の頃、クラスメイトに言われた。本に載っている知識なら自分で調べるし、最近の流行であればネットで検索しただろう。けれど、クラスメイトが一体何の話題で盛り上がり笑い合っているのか。それは流石に聞かなければわからない。
その回答が「なぜ自分に教える必要があるのか」。
問われたから、素直に何がそれほど面白いのか知りたいからと答えた。こちらはきちんと回答したのだから、こちらの望むものも返してくれるだろうと期待したのに、返って来たのは悪態をつく言葉だけだった。どうして。
その疑問にももちろん答えを貰えることはなかった。
学生時代の苦い思い出を皮切りに、自分のなぜなにに明確な答えを貰えることが減ってきた。
どうしてできないの。なぜミスをしたの。
職場で後輩に問うても、委縮されるばかりで答えは返ってこない。
怒っているわけではない。ただ知りたいだけなのだ。業務内容が難しいのか、作業方法がわからないのか。できないのなら何故そう言わないのか、聞きに来ないのか。
「きみ、あの言い方は流石にまずいよ」
後日、上司と面談になった。あの後輩は体調が優れず数日休んでいる。
「どうして。なにがまずいんでしょう」
だってそうじゃないか。こちらは尋ねただけなのになにがまずいのだ。答えられない、プライベートなことを聞いたわけでもない。ただ、なぜ仕事ができないのか。それを聞いただけなのに。
本気で言っているのかと問われたから、そうだと答えた。それ以外になにがあるのだろう。
「よくわかったよ、手を取らせてすまないね。彼女が復帰したら教育係は別の人に頼むよ。彼女じゃきみの質問に答えられないから」
「あの、なぜですか。なぜ仕事ができないのか、答えられない方がまずいのではないでしょうか」
上司の顔から薄い笑みが消えた。絞り出すように「それはきみが気にすることじゃない」とだけ告げて、会議室から去って行った。
どうして。自分の疑問はもう誰にも聞いて貰えないし、誰にも答えて貰えなかった。
友達と、小さな約束を毎日している。
そうはいっても私が一人でそう思っているだけで、彼女は約束だとは思っていないだろう。私が一人で、また明日、そう願っているだけ。
小学生の頃、友達と別れる際にはバイバイ、と挨拶だけしていた。
ある時金曜日にバイバイと言って別れた友達が、週末家族でドライブしていて事故にあった。その子は骨折で済んだのだけど、母親が帰らぬ人となってしまった。
お見舞いに行こうとしたけれど、母を失い悲しみに暮れる彼女は誰にも会いたくない、そう拒絶したと担任から聞かされた。
退院後、働く父親が小さな女の子を独りで育てるのは難しかったのだろう。祖父母と同居することを決め、そのまま一度も再会すること叶わず、彼女は転校していった。
そんなことがあってから、友達にはまたねと再会を願う小さな約束を一人でするようになった。別に強制力はない。中学の卒業式で「また絶対遊ぼうね」と言い合ったその子とは、高校二年になった今でもまだ一度も遊んでいない。
けれど、今日私は友達に約束しなかった。
帰りに寄り道をして、楽しく遊んでいたはずなのに気づけばちょっとしたすれ違いで喧嘩になった。本当に小さな、周りから見ればくだらないと思うようなこと。それでも今の私にとっては、これで友達と縁が切れても仕方ないと思うほどのことだった。
だから踵を返して、彼女を一人放って帰ろうとした。そうしたら大きな、怒りの滲んだ声で呼ばれた。
「ねぇ! また明日って言ってくれないの!」
驚いた。驚きすぎて、きっと変な顔で彼女を見つめてしまっただろう。約束のことは誰にも話したことがなかった。私がただ一人で願っているだけだから。
「……あんたが、自分が悪いって認めるなら、言ってあげてもいいけど!」
「はぁ!? あたし悪くないし!」
もうおかしくって、さっきまで天地がひっくり返るほどに怒り狂っていたのが馬鹿みたいで。笑いながら言ってやったら彼女はまだ拗ねているものだから、余計におかしかった。
「あんたが帰るならここで言ってあげるけど」
「……帰んないの?」
笑いが止まらない私の様子に、もう怒っていないのだと察した友達は、気安く私の腕に手を回してきた。現金なものである。彼女も、私も。
「ねぇ、なんで『また明日』なんて言って欲しいの」
「だって、約束してくれてるみたいじゃん」
嬉しそうな彼女は人懐こい笑みを浮かべる。素直になれない私はどうせ明日学校で会えるのに、と揶揄うように言ってのけた。言葉とは裏腹に、伝わって嬉しいと滲み出ていたのだろう。彼女は笑みを深めた。
「いーじゃん。あたしが一人でそう思ってるだけ」
腕にぎゅうとまとわりついて、もたれ掛かってくる彼女を尻目に、私も同じ笑みを湛えた。
ほんの一瞬だった。きみの瞳に射貫かれたのは。
美しく煌々しい輝きにただ一度触れただけで、きみに目を奪われきみのことしか考えられなくなってしまった。僕の存在意義を問うてしまうほどに。
だというのに、あのたった一度の煌めきからきみの瞳が僕を捉えることはなくなってしまった。
僕を見て、ただ見て欲しい。愛して欲しいだなんて望まない。きみの輝きは皆が追い求めていて、そして享受するに相応しいだろう人はたくさんいる。
僕はきみに焦がれ救われた大勢の一人に過ぎないのだから。
ただ、今一度。きみが僕を認めてさえくれたら。それだけで。
いつだってあの子に目を奪われていた。
大学に進学してから知り合った彼女は、明るくて、よく笑って、甘いものが大好きで、大勢の中心にいるわけじゃないけど仲の良い子たちと一緒に小さくはしゃぐような、そんな、思わずかわいいなと思ってしまう子だった。
だから堪らず、声を掛けてしまう。おはようとか、おつかれとか、またねとか、そんな些細なことだけど。
すると彼女は柔らかな頬を弾ませて、おはようとか、おつかれとか、またねとか、同じように返してくれる。明るい仕草に思わず笑みが深まった。
僕の想いは伝えてはいけないものだとわかっているから、明確な言葉にはしないけれど。それでも特別な彼女にせめて好意だけでも伝えたくて。
ある日、彼女の肩につくくらいの黒髪が、ミルクティのような甘い色合いに変化した。友達に絶対似合うよと勧められて挑戦したらしい。友人たちの見立ては確かで、とても彼女に似合っていた。
しっとりとした黒髪だってもちろん彼女を魅力的に見せていたけど、明るく軽やかな髪色は彼女の柔らかさを強調していて、とても……とても、素敵だった。
あまりに不躾に見つめていたから、彼女の友達に可愛すぎて見とれてたでしょとからかわれる。当然と言わんばかりに可愛い、よく似合ってると肯定したら、彼女の白い肌が見る見るうちに紅潮した。思わず喉が鳴ってしまいそうになる。
ああ、だめだとわかっているのに。僕の気持ちを、きみにそっと伝えたい。
「 」
そうしたらきみは、僕を怯えた瞳で見るだろうか。