かしわ文

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2/12/2025, 2:53:32 PM

 僕の彼女はよく不思議なことを言い出す。
「明日マジで雨ヤバいよ! 傘忘れないでね、絶対」
 それだけを聞けば、朝の天気予報かニュースアプリでも見たのかなと考えて、それで終わりなのだけど。けれど彼女はいつも具体的なのだ。
「三丁目のさぁ、いっつも信号長いとこあるじゃん。あそこのマンホール吹き飛んじゃってさぁ、怪我した人出なくて良かったけど」
 そんな風に妙に具体的で、まるで見てきたかのように語り、そして、それは全て事実となる。

「ね、いっつも未来のこと色々教えてくれるけど、超能力? 未来から来た人?」
 冗談半分で笑いながら尋ねると、彼女は困ったような、悲しそうな顔で尋ねてきた。
「……信じる?」
 その言葉に僕は「マジで?」と心底驚いて答えた。冗談半分だったから、半分は本気だったのだ。僕に馬鹿にするような意図がないと察した彼女の表情は、少しだけ強ばりが緩和した。
「なんかね、先の記憶があるの。それ知ってるとか、聞いたことあるって感じで。忘れてても聞いたら思い出したり」
 超能力かはわかんないけど。そう締めくくった彼女の言葉は、確かに『記憶』と言われるとしっくりくる。未来の全てがわかっているわけじゃない。大きな、記憶に残りやすい出来事だけをいつも教えてくれる。僕だって、ただちょっと雨が降っただけの日なんて、いつ何時頃かなど覚えているわけがない。
「じゃあ、僕と付き合ってくれたのも、覚えてたから?」
 茶化して、また冗談のように尋ねた。
「……告白されて、その時思い出したから」
 彼女は、今度はばつが悪そうに答えた。どうしてそんな顔をするのか、その時はわからなかった。

 気付いてしまったのは、付き合ってから初めての、彼女の誕生日だった。
 ちょっと驚かせてみたくて、サプライズを計画した。喜んでくれるかな、なんて安易に考えて。プレゼントを差し出した僕の目の前には、喜びながらも、悲しみで泣きそうな顔の彼女がいた。
「……覚えてたんだ」
「誕生日じゃん。覚えてるよ……」
 でも、嬉しかったの。ほんとに。耐えきれずに、結局涙は彼女の頬を伝った。

 それからというものの、僕は彼女へは小さな幸せを贈ることにした。大きな出来事だと記憶に残ってしまうから、内容は覚えていなくとも確かに幸せだったと思うような、そんな日々を二人で過ごす。彼女は幸せそうに笑っていた。
 それでも、どうしたって凪いだ日々だけ過ごせるわけではない。僕はもうひと月も、どうすれば彼女を悲しませずにすむかだけ考えていた。人生の大きなイベントだ、彼女の記憶は鮮明に残っているだろう。どうしよう、本当にどうしようか。そればかりに気を取られ、なにも見えなくなってしまっていた。周りも、彼女のことも。
 その日、僕はスマホの前で頭を抱えていた。完全な失態だった。人生の大きなイベント、プロポーズをどうすれば、彼女の記憶に残さず成功させられるかばかり考えていて、予定していたレストランをすっかり予約し損ねていた。交際を始めた記念日に結婚を申し込もうと思っていたのに。
 こういったところに拘ってしまうと、彼女の記憶に残ってしまうのだろうか。いや、体質ばかりを気にして無難で平坦なプロポーズに終わらせて、それで彼女を幸せにできるのだろうか。
 堂々巡りの中で、スマホのスケジュールをスワイプさせていく。中には大小様々な記念日が記録されていた。彼女のネイルがキラキラしてた記念日、なんてものもある。彼女が未来の記憶に泣いてから、本人も覚えていないような僕だけのヘンテコな記念日を作った。これなら彼女の記憶には残っていないから。こじつけて小さなお祝いすると「バカじゃん」と笑いながら、喜んでくれた。

 結局、そのヘンテコ記念日の中からちょっとでもましな日を選ぼうか。そう考えながら、交際記念日は普通にデートをした。するとその日、彼女は終始そわそわし続けていた。今日がプロポーズの日ではないことを覚えているだろうに。思わず疑問が口を突いて出る。
「プロポーズ、今日じゃないよね?」
「そっな、えっ今日からじゃなかったっけ……!?」
 驚き、慌てふためく彼女を見て気付いた。そうだ、結婚だなんて大事なこと、僕一人で決めることじゃないんだ。
「ねぇ。きっと聞き覚えのあるセリフだと思うけど、何回でも言わせて下さい。僕と結婚して下さい」
 僕にとっては急遽決めたことだから、指輪もなくて、特別な景色でもなくて、彼女の記憶にもあるシーンだけれど。
「これから、会う度ずっとプロポーズするよ。一番気に入った言い方の日でも、聞き飽きちゃった日でも、いつでも。記憶と関係なしに、君が決めた日に返事ちょうだい」
 記憶なんて頼らず、君が決めた日がプロポーズされた日だから。「覚えてた?」そっと尋ねれば、過去の記憶と同じように泣いて笑った彼女は、それでも心から喜んでくれた。

2/11/2025, 11:20:30 AM

 彼は旅人だった。荷物は、盗人さえ見向きもしないようなオンボロのリュック一つに、なんにも芽吹いていない鉢植え一つ。当てもなくあちらこちらを彷徨っていた。
「旅人さん、どちらへ」
「どちらへでも。ココロが育つ方へ」
 声を掛けられればそう答える。問うた相手は、みな誰もがきょとんと瞳を瞬かせた。
「ココロってのは、なんだい」
「豊かなものですよ」
 満足に食事もとれていないであろう痩せた顔で、けれど穏やかに彼が微笑んだ。それを聞いて、同じように痩せた顔がニタリと笑った。
「そりゃあ、そりゃあ。ココロってのは、腹が膨れるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
 育ったら一つおくれよ。ニタニタ笑う顔に、「では、育てばきっと」穏やかにそう答えた。
 鉢植えはなんにも芽吹いていなかった。

「ココロってのは、寒さが凌げるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
「ココロってのは、病を治してくれるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」

「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
 鉢植えはなんにも芽吹いていなかった。

「あんたがココロを育ててるって、旅人かい」
 声を掛けられたので、穏やかに微笑んで頷いた。相手は目をつり上げて不遜に笑う、大柄な男だった。
「ココロってのは、豊かなんだろう。腹が膨れて、あったかくて、病気にも怯えなくてすむ」
「……真っ直ぐに育てば、あるいは」
 いつだって同じように答えた。それに、男は満足そうに腹をかいた。
「てェことはあれだ。ココロは、金になるんだろう?」
「……」
 旅人の穏やかだった瞳が酷く揺れる。そんな様子を男はちっとも気にとめず、どうなんだと答えを催促する。
「……ああ。ココロは、売ってしまえば。お金に換えることもできるでしょう」
「そりゃあよかった。じゃあ、そいつを寄越しな」
 旅人の返答も待たずに、むんずとなんにも芽吹いていない鉢植えを取り上げた。けれど、奪われたというのに彼は一つも抵抗をしない。
 ただ、穏やかだった顔は削ぎ落とされてしまったかのように、なんの表情も浮かべていなかった。

2/10/2025, 1:28:14 PM

 全てを手に入れた、そんな万能感で満たされていた。
 私が与えるものに、皆喜び色めき立った。私の一挙手一投足に、皆感極まった。
 これが求めた世界なのか。これが辿り着きたかった光景なのか。最早なにも持っていなかった頃の私の心など、とうに忘れ去ってしまった。この輝く、夢のような世界で、陰りは存在できなかった。
 煌々と輝く月明かりのような私が、一夜限りの夢であろうと。今はただ、ただ望まれるままに輝ける喜びを。
 ――どうか。美しい夜よ、明けないで。そう星に願って。