彼は旅人だった。荷物は、盗人さえ見向きもしないようなオンボロのリュック一つに、なんにも芽吹いていない鉢植え一つ。当てもなくあちらこちらを彷徨っていた。
「旅人さん、どちらへ」
「どちらへでも。ココロが育つ方へ」
声を掛けられればそう答える。問うた相手は、みな誰もがきょとんと瞳を瞬かせた。
「ココロってのは、なんだい」
「豊かなものですよ」
満足に食事もとれていないであろう痩せた顔で、けれど穏やかに彼が微笑んだ。それを聞いて、同じように痩せた顔がニタリと笑った。
「そりゃあ、そりゃあ。ココロってのは、腹が膨れるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
育ったら一つおくれよ。ニタニタ笑う顔に、「では、育てばきっと」穏やかにそう答えた。
鉢植えはなんにも芽吹いていなかった。
「ココロってのは、寒さが凌げるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
「ココロってのは、病を治してくれるのかい」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
「真っ直ぐに育てば、あるいは。巡り巡って」
鉢植えはなんにも芽吹いていなかった。
「あんたがココロを育ててるって、旅人かい」
声を掛けられたので、穏やかに微笑んで頷いた。相手は目をつり上げて不遜に笑う、大柄な男だった。
「ココロってのは、豊かなんだろう。腹が膨れて、あったかくて、病気にも怯えなくてすむ」
「……真っ直ぐに育てば、あるいは」
いつだって同じように答えた。それに、男は満足そうに腹をかいた。
「てェことはあれだ。ココロは、金になるんだろう?」
「……」
旅人の穏やかだった瞳が酷く揺れる。そんな様子を男はちっとも気にとめず、どうなんだと答えを催促する。
「……ああ。ココロは、売ってしまえば。お金に換えることもできるでしょう」
「そりゃあよかった。じゃあ、そいつを寄越しな」
旅人の返答も待たずに、むんずとなんにも芽吹いていない鉢植えを取り上げた。けれど、奪われたというのに彼は一つも抵抗をしない。
ただ、穏やかだった顔は削ぎ落とされてしまったかのように、なんの表情も浮かべていなかった。
2/11/2025, 11:20:30 AM