Werewolf

Open App
3/14/2026, 9:24:54 AM

【ずっと隣で】成長型アンドロイド25M873931の独白

 人の隣人としてアンドロイドが常にいる時代になって早百年。思考が人間にほど近く、しかし命令と任務に忠実で、ファジーな対応もできる、そういう形で売り出されたアンドロイドは、それなりに経済、社会に進出した。ここ二十年は特にリーズナブルな量産型のアンドロイドの普及が飛躍的に伸びた。
 中でも外見と機体の能力を七歳の子供程度に抑え、育児補助、つまり乳幼児から小学校入学までの送り迎えをはじめとした各種対応や、見守り機能による連絡を行える、チルドレンガーズと呼ばれるラインのものは大変に人気が出た。当初は見守りロボにも劣るとか、両親の代わりに医療を手配出来ないとか様々な誹りがあったようだが、私が生まれた頃には妊娠したら手配する、というレベルの、謂わば日常家電のレベルになっていた。あくまでも人間である両親の補佐がメインであり、子供の熱や嘔吐があれば、その場での対応はするものの、救急、警察への連絡は命の危険が迫っていない限り、両親からの手配を待つ。これによって両親の留守中の悲劇は減ったし、最近では自宅にいながら自家アンドロイドが代替で仕事をするシステムも確立しつつあり、子供は健やかに育っていく。
 ……はずだった。実は私は今、大変困ったことに直面している。この腕の中にいる赤ん坊の親、つまりマスターたる人間が、もう三日も帰ってこないのだ。乳幼児なので食事はミルクで済んでいるし、オムツや着替えは通販手配の許諾があるので何とかなっている。ただ、何の連絡もなく、またこちらの連絡も遮断されるというのは、最悪のケースではないかと考えている。ニュースはくまなく探したが、マスターの名前や人数と一致するものはない。マスターは妻との離婚の後、私と赤ん坊を引き取る選択をした。私が記憶している限り、彼と元奥方との仲はネガティブな反応をせざるを得ない。口喧嘩は絶えず、時々奥方は我が子を殴ろうとした。勿論私がそれを止めていたが、何度か奥方に殴られて、実は側頭部が少し凹んでいる。活動に支障がないので放っているが、メンテナンスのタイミングで直してもらおうとは考える程度のものだ。
 そんな奥方との別れの後、マスターは保育園を探していたが、時期が悪くどこにも入れられなかった。マスターは私がいるとはいえ不安だったのかもしれないし、私を廃棄したかったのかもしれない。何にせよ、マスターは帰宅すると一応子供部屋のベッドを覗いて、それから酒を飲むような日々だった。
 これは私がホームセクレタリーの許諾をもらっているので知っていることだが、彼の日々のストレス値は上がり続けていた。心拍数は不正な上下を繰り返し、体温も微熱が続き、睡眠の浅い日がずっとあった。しかしスマートフォンに送る私からの提言を確認した様子はなく、酒とどこかで買ってくる、塩分の高い食事を延々と繰り返していた。
 ニュースに名前が挙がっていないだけで、マスターがどこかで倒れてしまっているのかもしれない。
 赤ん坊を風呂に入れていると、その子は「んーま」と喃語を発した。本来なら父母に向けられるべきそれを、私が先に聞いてしまった。なんとなく、情報デバイスの過去ログを保存する。もしマスターが戻ってきたら、真っ先に見せなければならないからだ。

 あっという間に翌日になってしまった。結局マスターは帰ってこない。私がどうするべきか悩んでいるうちに、赤ん坊が熱を出した。これは不味い、と私はまたマスターに連絡を入れる。私は児童の安全を第一に設計されている。ただし、その判断は必ず保護者の許可を優先するのだ。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
 無情なる音声に、君もAIなら少しは弁えた対応をしろと言いたくなるが、AIなのだからするはずもない。
 私は困り果てて、最後の手段を取ることにした。
 赤ん坊の熱を測る。三十八度。脳の蛋白の凝固まであと二度。乳幼児のそれは乳離れした子どものそれより重たい。熱の数値の記録を取り、私は自分の販売元が契約している緊急医療受付に連絡を入れた。けぽ、と小さな音がする。レポートに嘔吐を即座に加え、口腔内に吐瀉物がないか確認し、水を流し込んで吐かせた。この命が危ないのに、マスターは、どうして。
 私はどうしてか分からないが、その赤ん坊を抱きしめていた。いつもより熱の高い体がぐったりとしている。この命は私が隣にいなければ失われてしまうのではないか。空恐ろしい可能性を極力シャットアウトして、平たい文章で最悪を読み上げていく。死亡、後遺症、高次機能障害、失明、難聴……早く医療チームの返答がほしい。
 と、思った瞬間に着信した。
「25M873931、よく連絡した。もう近くまで来ている。玄関まで出られるか?」
 人で言うなら、安堵だろうか。最悪が一つずつ消えていく。残るものもあるが、死ぬよりは絶対にいいものばかりだ。
「向かいます」
 けっ、とまた赤ん坊が吐いてしまった。それを軽くタオルで拭いながら、私はマンションのエントランスまで降りるのだった。

 という記録を、その時の赤ん坊だった、今のマスターが見ている。彼女の二十歳の誕生日に、今の両親、つまり里親となった家族からの要請で、マスターを彼女に変更の上、当時の記録を見せることになったのだ。
「マジだ〜……ハナサクいなかったら死んでたじゃん」
 うわ〜、と苦い顔をしているが、それでもマスターはすぐに笑みを浮かべた。
「命の恩人! ボディ寿命で引退とか言わないでよ、換装すれば一緒にいられるんでしょ?」
 おや、と私はつい口にしていた。
 私はあれからもずっと七歳の姿で彼女の世話をしていた。新しい里親夫婦の家はそれなりに裕福だったが、私に回す経済的余裕はなかった。メンテナンスと充電で十分、彼女が大人になるまで見守れれば、私はそれでよいと思っていた。
「お金、私頑張るから! ハナサクももうちょっと頑張ろうね」
 それを聞いて、両親が苦笑している。彼女は何を目的にしているかは分からないが、高校生の頃からバイトやお年玉で相当溜め込んでいた。私の換装くらい、余裕なくらいに。つまり、頑張るとは言ってるが、恐らくすぐにその日は来る。両親はもしかしたら、その貯金の意味まで理解しているのかもしれない。
「……ええ、待ってますね」
 と、私は知らない顔をすることにした。握手を交わした手が、ずいぶん大きくなった、と回路が記録を更新した。

3/13/2026, 3:25:04 AM

【もっと知りたい】地下の閉架書庫

 バーニー・ガルヴィンは再来週の授業の提出物のため、普段の生活圏からいささか離れた図書館を訪れていた。漁村における風俗史がテーマになってしまい、自分の所感を述べるにもテキストが足りない。よりにもよって学内の図書館の資料は貸出中、市内の図書館が改装中だった。同じクラスのメンバーは「今回ばっかりはネットに頼る」と言い出すし、同じ講義にいる日本人は「日本の資料なら当たりやすいから」とそっちに切り替えている。どうしようもなくなったが、前回のエッセイの出来が「可」だったバーニーとしては、ここは挽回しなければならなかった。
 尋ねた図書館は、隣の市のさらに端の方、それこそ元々漁村があったあたりの図書館だった。今は工業化、商業化に飲まれて、海岸はコンクリートで固められている。大きな船舶が貿易や資材の運搬をするのに使われている、いわゆる港町ではあった。潮風が妙に生臭いと思いながら、図書館へ自転車を走らせる。
 エントランスの司書に、「本を予約しているガルヴィンです」と話しかけると、ポニーテールの彼女は「はい、お待ちしてました」と笑顔を見せてくれた。
「……あら?」
 しかし手渡そうとした本を確認して首を傾げる。
「おかしいわね、予約の本が足りないみたい」
 背表紙を見ると、周辺資料として予約したものは揃っているのだが、中心として扱う予定だった書籍が抜けているようだった。
「ごめんなさい、足りてない本は閉架にあるの。今私ここを離れられなくて……多分、フィッツジェラルドさんが書架整理に入っているから、言えば通してくれるはずよ。持ってきてくれたら貸し出しするわね」
 彼女に地下への階段を案内され、地下二階の閉架と書かれた看板を頼りに、書庫の扉を開く。
「あの、どなたかいらっしゃいますか」
 とバーニーが声をかけると
「ここは閉架ですよ」
 と穏やかな声が奥から届いた。どこか否定的なニュアンスを含むそれに少し怯むが、バーニーは声のする方に近付く。書庫の中はゴウゴウと音を立てて換気扇が回っていて、蛍光灯が時々パチパチ瞬いた。
「えと、書籍を予約していたガルヴィンです。書籍が足りてなくて、司書さんに閉架まで取りに行ってくれって」
「……ああ、アナベルが手抜きをしたのですか。それは失礼を」
 そう言いながら、中年の男が書棚の隙間から顔を出した。
「私はフィッツジェラルドといいます。どうぞアナベルの件は気を悪くなさらないでくださいね。先週からスタッフに欠員が出ていて」
「いえ」
 なんとなく居心地の悪さを感じて、つい目を逸らす。周囲には古めかしい本がみっちりと並んでいた。コードごとに並べられているようなのだが、ところどころ段ボールに入った本が雑多に混ざっている。
「お探しの本なら、確かこの列の奥から二つめの棚です。お手数をおかけしていますし、ガルヴィンさんの調べ物が終わるまで、出入り自由にしておきますよ」
「はぁ……」
 と、言われても難題のエッセイに関わる資料が見られればいいのだ。フィッツジェラルドに軽く挨拶をしてから、バーニーは言われた通り奥の方へ進んだ。
 確かに、奥から二つめの棚にその本はあった。緑色の背表紙が、壊れかけて糸が見えている。慎重に取り出し……ふと、中身を読みたいと思った。ぱらり、と冒頭のページをまくる。そこにはこの市の起源と、伝説や伝統についてどのように調べたのかが述べられている。なぜか目が離せなかった。じっと読み進める。他の州から、海と反対側にある川沿いに北上してきた最初の住民たちが、この市の元となる集落を作ったこと。海岸沿いに立ち並んだ木造の古屋の写真、そこで働く人々の記録。ただそれだけのはずなのに、目が離せない。
 市中にあったホールが老朽化して取り壊しが決まったのが、今から五十年ほど前、という下を読んでいるときに、肩を叩かれて思わず「わっ」と声が漏れた。
「すみません、そろそろ閉館時間なもので」
「あ、す、すみません……」
 すぐ帰るつもりだったのに、何故、と自分を疑問に思いながら、本を抱える。フィツジェラルドに見送られ、アナベルが「閉架の迷路で迷子になっちゃった?」と笑うのに背中を押され、資料を手に寮に帰る。同室の友人はまだ外出しているらしく、部屋には一人だった。
 駅前で安売りになっていたレトルトのディナーボックスの中身を口に押し込みながら、本を読む。ひたすらに読んだ。何がそんなに惹きつけられているのかわからない。ただ、隣の市にはずっと敷き続けられていた一つの文脈がある。それはおそらく、ひどくマイナーな宗教の観念に基づく思想だった。漁にも、農家にも、街の作りにも、家屋の配置にまで。市中にあったホール、その出入り口にあった石像は、我々を見守るもの、と名されていた。どうみても三流映画の半魚人のように見えるそれ。しかしそのポーズにも、表情にも、何かを感じてならない。
 エッセイを書かなければと囁く冷静な己がいる一方で、「この不可解を、読み解きたい」と、バーニーの中で何かが首をもたげていた。

3/12/2026, 3:37:17 AM

【平穏な日常】裏の裏の路地裏事情

「よいっしょお!」
 ぶおん、といい音を立てたバッドがメシャッという音も生み出す。殴られた男は倒れ込んだが、もう二度と起き上がることはないだろう。金属バッドの、本来は空洞である内部に鉛を詰めてある。
「アッアッ、アニキ〜!」
「おまっ……ボスが黙っとらんぞ!」
 それなりの身なり、といってもスカジャンにパラシュートパンツ、どっちも量販店で買えるようなもの。それでもこの辺では上等なのだからすごい話だ。
「知らないよ、俺は害虫駆除を頼まれただけ」
 よくある話だ。裏手の街のその奥の、狭い路地と路地がつながったような小汚い場所。行政も自治体もアンタッチャブルな社会。インフラ泥棒の巣窟は、今日もこんなもんだ。
「こ、こんくそが!」
 殴りかかってくる男の拳を半身引いて避ける。踏み込みながら下から掬い上げるスイング。ゴロリと変な音がしたのは、顎が砕けたのだろう。もう一人はナイフを持って真っ直ぐに突っ込んでくる。刃渡りの短い刃物であれば正解の動きだ。しかし単調すぎる。バッドが地面に落ちようとする重力に任せて、浮き上がる足で手元を一蹴。ナイフはびゅーんと高く飛んで、遠くのゴミの中に落下した。
「とにかくさぁ、邪魔なんだよね、商売の。別に殺せとは言われてないし、引いてくれれば見逃すよ」
 バットの手入れも大変なのだ。面倒になってそういうと、残った一人は「ひぃ」と悲鳴を上げて背を向けた。本当に追う気も殺す気もない。ボスが黙ってないと言っていたが、自分の記憶が正しければ、あそこのボスはいくら裏の町でも一般市民程度の人間に手を挙げることはしないはず。むしろ、そんなことになった部下の方を吊し上げるのではなかったか。
 どうでもいいか、と思いながらバットを引きずり、一本表の路地に出る。
「オカミ〜、終わったよ」
「早かったね、殺したのかい」
「んー、代金払え、女の子に無理やり本番すんなって警告した途端に掴みかかってきたのと、そいつ殺されて逆上したのの二人」
 女将は晴れた頬に氷を押し当てながら、フン、と鼻を鳴らした。
「一人は逃げたのか、まぁまぁ賢いじゃないか。次は慰謝料を払わせないとねえ」
 そこはいわゆるキャバクラなのだが、一部セクキャバのような業態も扱っている。その中で、先ほどの三人によって嬢が乱暴を働かれたのだ。助けを求めた嬢の口を塞ぎ、散々にした後で発覚した。女将や他の店員が詰め寄ったが、殴る蹴るの上代金まで踏み倒す。そこまできて、用心棒に連絡が来た。
 フリーの用心棒といえば、この辺では彼しかいない。金属バットを振り回し、相手が誰でもクライアントの依頼なら立ち向かう。おかげでトラブルも絶えないが、それほど頼りにされている。
「ほら、急に悪かったね」
「いーよー、暇してたもん」
 札の入った封筒を受け取ると、女将は「程度が悪いんだけどね、二体引取りと清掃たのむよ」とどこかに電話をかけていた。ここらでは死体も飯の種だ。さっき金のかかった害虫は、今は誰かの飯になる。
 きっと自分もそんな感じで、いつかどっかに引っ張られるんだろうなぁと、バットに付いた血を眺めた。

3/11/2026, 1:53:10 AM

【愛と平和】ひとりぼっちのシルキ

「どこに行った」
「探せ、まだ近くにいるだろ」
 人の声に怯え、ぎゅっと頭巾を被り直す。追い回されることには慣れていたが、それでも怖いものは怖い。
 西方の山脈、ナヴァレスカの嶺の麓の森。それがシルキの生きる場所だった。思い出せる一番古い記憶は、小さな山小屋の中で、母親が頭を撫でてくれたことだ。彼女の手は自分のものとは違ってつるつるしてすべすべで、柔らかくシルキの頭や耳を撫でてくれた。そんな日々は長く続かなかったように思う。母が言っていたことが本当なら、シルキはことして十二歳だ。
 母が死んで、もう三年経つ。幼いシルキはそれまでに見聞きした知恵でなんとか生きてきた。シルキの手は母のものと違って、黒くて強い毛で覆われ、少し短い指をしたものだ。シルキの足は、なんだか変な形をしていて、やっぱり毛に包まれていた。それに、母とは違って耳は大きいし、口も大きいし、目も大きかった。
 母と、少し遠い村に行く時、シルキはいつだって目深に頭巾を被って、大きな外套を着ていないといけなかった。そこには他にも子供がいたけれど、一緒に遊ぶことはできなかったし、大きなおじさんに声をかけられて怖いと思ったこともあった。
 母が死んだ時、どこからか真っ黒な外套の人がやってきた。帽子を深くかぶっていて、顔は見えなかった。シルキをじろりと睨んできたのだけを覚えてる。それから、母のぐったりした体を抱き上げて、こう言ったのだ。
「お前の迎えはまだだ。忌々しいことに、この女との契約があるから教えてやる。十二歳になる年、お前を迎えにくる奴がいる。だから森を離れてはいけない。わかったな」
 それが何を意味するかわからないまま、十二歳になったはずだ。
 青葉の茂る森の中に、声が響く。
 ずっとひもじい冬を超えて、春の暖かい季節になった。美味しく食べられる新芽があちこちから飛び出して、嬉しくなってたくさん摘んでしまった。頭巾が落ちてしまっているのにも気付かず。それを、近くを通ったどこかの村の人に見られたのだ。
「化け物だ」
 と誰かが言った。石がぶつかって、シルキの頭から血が流れた。シルキは走った。母の言いつけを守って、誰かに追われたら家に帰ってはいけない、誰もいなくなって夜になったら戻りなさい、という言葉を守って、走って、走って、疲れて座り込んでしまった。
 まだ、人の声がする。どうしよう、見つかったらどうなってしまうのだろう。縮こまっていることしかできず、心細くなってくる。
「シルキ!」
 と唐突に名前を呼ばれた。知らない声だった。慌てて木の後ろに隠れる。
「シルキ、大丈夫だ。ほら、怖くないよ、出ておいで」
 低い声だった。ちら、と覗いてみると、そこには真っ白な毛皮を持った人が立っていた。大きな耳、大きな口、大きな目。シルキにそっくりな手足をした人だ。
「ああ、怪我をしてしまったのか……遅くなってごめんな、母さんには間に合わなかったが、君を迎えにきたよ」

 手を差し伸べられる。自分のものよりも、母のものよりも大きなそれに、シルキはぱっと飛びついた。その手に引き寄せられて、抱き上げられる。
「うん、随分大きくなった。別れた時は赤ん坊だったものな。シルキ、初めまして、私は君の父さんだよ」
 シルキはその顔を見上げる。鼻と鼻が触れ合うととても安心した。大きな口はシルキなどひと飲みできそうだが、それでもなんだか、とても嬉しかったのだ。
「もうずっと、父さんの国と母さんの国は戦争をしていたんだ。やっと全部終わったよ、これからは何の心配もなく暮らせるからね」
 言っていることの意味はまだよくわからなかったが、シルキは「うん!」と頷いて、抱きしめてくれる腕に顔を埋める。真っ白な毛が顔をくすぐって気持ちが良かった。
 白い獣人が逞しい馬に跨ると、その馬は山道をものともせずに駆け抜ける。どこどこと土を踏み鳴らしていく音を聞きながら、緊張が解けたシルキはうとうととまどろむのだった。

3/10/2026, 1:24:26 AM

【過ぎ去った日々】

 窓を開け放つとまだ寒い風がひゅうっと吹き込んできた。はたはたとカレンダーがはためき、ダンボールのフタが浮いてパタンと落ちる。少し前までならポスターやかけていたハンガーの服もはためいていただろうが、それらは全て箱の中だ。
 故郷を飛び出して一人で生きていこうと思ったのが随分前のことのように感じる。あの時もこんな風が吹き込んでくる日だった。一人きりの部屋に、不安と期待を目一杯に持ち込んで、初めて自分だけの暮らしを始めた。思えば若かったなと思うし、その初志をまだ持っていられているかと、自省するところもある。その暮らしを始めて数年後、流行病で街が静まり返った。外出もままならず、あの時ばかりは家族の元に帰れないことの苦しさに嘆きもした。
 リモートワークの間にできることが増えて、そちらで道が拓けてきた。自分で決めて、職を離れた。フリーランスは大変だったし、途中で色々な仕組みが変わってしまって、混乱することもあった。協力してくれる他のフリーランス仲間と必死に切り抜けていって、やっていって、ひたすらがむしゃらに働く日々だった。
 昨夏の頃に、その中の一人が起業する、と言い出したのが、ターニングポイントだった。お前に一番に声をかけた、ウチでやらないか、と。必要とされることと、一人でやっていくことと、オフィスに入ることと、リモートワークと。いろんなことを天秤にかけて悩んで悩んで、ついていくことに決めた。
 前々から考えていたシェアハウスの件もあり、物件が決まって、この家を離れることになった。
 ダンボール箱の中に詰めたパソコンやタブレットの中に、ぬいぐるみが一つ混じっている。
 家を出る時に、まだ高校生だった妹がくれたものだ。有名ゲームのキャラクター。もはや国民的アニメにまでなったジャンル。その登場キャラの一人のぬいぐるみは、今でも変わらずに好きなものだ。リバイバルがあれば仕事の間にやるくらいは入れ込んでいる。結局そういうものからは縁がないままだが、自分の仕事に誇りはある。もし誰か自分の、後続となる人間が現れた時に、その誰かにバトンを渡せるくらいの技量はあるはずだ。そう信じるしかない。
 少なくとも、ここまでの十年と少しの生活は、無駄ではなかった。そう自分に言い聞かせて、ダンボールをガムテープで閉じた。

Next