Werewolf

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4/15/2026, 2:24:42 AM

【神様へ】

 その男は、泥に塗れて深い森をかき分けながら、国で崇められているありとあらゆる神を罵倒していた。国には十神と呼ばれる存在があり、主神を始めとして、豊穣、武力、学問、幸運、家庭、財産、商業、美の神がいた。それらが与える加護は、十三歳になると左手の甲に浮かび上がる。人差し指の先程度の大きさの紋様として刻まれるそれは、見せてもいいし隠していてもいいような、そんなものだった。一応、建前上「武の神の加護がなくても騎士にはなれる」のだ。ただ紋様登録によって管理する人間には筒抜けで、その有無一つでどんな戦績があろうとも上級騎士になるまでの道のりが果てしなく長くなる。学問もそうだ。同じアカデミーを卒業していても、紋様一つで文官としてどこまでいけるかに差が出てくる。
 男は茂みの中に転がり込むと、自分の左の手の甲を睨んだ。さっき人に石を投げられて赤く晴れたそこに、紋様はない。ブランク。この国においてそれは、加護がない、呪われたものとして扱われていた。家族は驚きこそすれ、左手を隠してても出来る仕事について教えてくれた。荷運び、大工、掃除夫、金貸し、革細工職人……少年だった男は絶望していた。いつか騎士になるのだと思っていた。しかし、紋様登録が必要な仕事は、ブランクの人間を雇うことはない。それどころか、隠していないと害される。
 愛してくれた両親が病で死んだ。慕ってくれた妹は家庭の紋様があったので、両親の遺した遺産を支度金に持たせて、なんとか友人経由で嫁がせた。自分は家を守るために、必死になって働いた。大工が上手くいかなかったが、木樵仕事は向いていたので、毎日木樵のギルドの連中と木を切っていた。
 ある時、国の法律が変わった。全ての職業で紋様登録が義務付けられた。男はどうにかして逃れようとしたが、ブランクであることが露呈しただけだった。そのはずだった。
 仲間に石を投げられた。それを見ていた外の人間にも石を投げられ、街を追われ、まだなお追ってくる人々からどうにか逃げ延びてここにいる。真っ暗で行き先のわからないような森は、不安と恐怖を強くするばかりだった。
 ただ、普通に暮らしたかっただけなのに。木樵の仲間達と働いて、笑って、酒場で酒を酌み交わしていた時間がどれほど幸せで得難いものだったかと考えてしまう。妹が時々手紙をくれることの喜びがどれほどのものだったか。両親が残してくれた物や心を家の中で見つけるたびに、どれほど愛されていることを痛感したか。
 家もギルドの仲間も失い、それらの全てが亡くなった。だから男は、国で崇められているありとあらゆる神を罵倒していた。主神を始めとして、豊穣、武力、学問、幸運、家庭、財産、商業、美の神の全てを罵倒していた。不意に……おや、と指折り数える。
 おかしい。神の数は十ではなかったか? 十神なのに、名前が上がっているのは九人だ。
「それはね」
 と突然耳元で声がした。面白がるような女の声だ。辺りを見回しても誰もいない。
「私が強すぎて邪魔だったからよ」
 左の手の甲がくすぐったい。ぱっと手を払うと「まっ不敬ね〜」とまた笑う声。
「一体、誰だ!?」
 と怒鳴ってみても、そこにいるのは男だけ……の、はずだった。
「よくここまで来てくれたわね、我が加護の子。目隠しを外してあげる」
 目の当たりにざっと風が吹きつけ、ぎゅっと瞑る。と、目の前が明るいような気がした。恐る恐るまぶたを上げると、はっきりと光をまとった女性が一人、立っている。どことなく豊穣の女神に似た面差しをしていた。
「はじめまして、私は地母神、またの名を死の神」
 艶めく唇から紡がれる言葉に、男は眉を顰めた。聞いたことのない神だった。
「国で崇められている豊穣の神がいるでしょう? あれは私の双子の妹。本当は二人で豊穣と、死と再生を司る神だったの。きっと、死と再生が、邪魔になっちゃったのね、妹と引き離されて、私はなかったことになったわ」
 彼女の触れた木の枝が一瞬にして冬を迎えたように枯れ葉を落とすが、すぐに新芽を芽吹かせる。奇跡としか言いようのない事象を見て、男は跪いていた。
「では……十神の十人目はあなたでしたか」
 そういうと、彼女はゆっくりと頷いた。
「そう。でもなかったことにしたとて、私がこの国の神であることは変えられない。ほら、見て、あなたの左手」
 言われるまま、男が左の手の甲を見る。そこには見たことのない紋様が浮かび上がっていた。
「元々あったのよ。でも誰にも見えないように、国全体に目隠しの魔法がかけられているの」
 それじゃあ、それなら、今まで自分が苦しんでいたのは。
「十神は国民を均等に加護しているの。九神達の馬鹿げた決定のおかげで、きっと街の外にもっと多くのブランク、私の加護の子が集まるわ」
 女神の周辺の植物が、激しく枯れ果てたかと思えば、凄まじい速度で成長していく。それを繰り返していくうちに、植物が玉座の形を作っていた。
「人の子、あなた私に協力なさい。妹を国の中央の玉座から攫うの。この黒い森は私の領域。ここまで連れてきてくれるだけでいいわ。そうすれば国は飢饉で勝手に滅びるでしょう」
 代わりに、と言われた途端、左手の紋様が熱を持った。
「あなたが連れてくる人と、やってくるブランク達のために、私はここに集落を作るわ。あなたはその長になるの。悪い話じゃないでしょう?」
 男は頷いていた。男はこの神に己を捧げても、失ったものを取り戻そうと、そう決意していた。

4/14/2026, 1:51:53 AM

【快晴】

「晴れちゃった〜」
「晴れちゃったね〜」
 かなたとよもぎは小さなバケツと手製の釣り竿、ビーズ工作に使ったテグスの残りを持って、空を見上げていた。
 最近、子供達の間では田んぼの横の水路を遡った先にある、少しだけ森の中に入り込んだ川の、水を溜めている池のところで魚釣りをするのが流行っていた。とは言え本格的なものではない。ほとんどはザリガニ釣りになってしまっている。ただ、誰かが家庭科の時にミシンで曲げてしまったまち針を針にしてみたら、魚も釣れた。子供達は家庭科室で収集されている折れたまち針を持ち出して、池に集まっている。
「晴れるとさー釣れないよねー」
 と、よもぎが空を見上げる
「ねー」
 と、かなたもがっかりした顔でつぶやいた。そう、何故か気持ちよく晴れていると釣れない。面白いくらいかからない。なので、ちょっとつまらなくなる。
「でもさ、ミミズいっぱいつかまえたし、なんか一ぴきくらい釣れるって!」
 とかなたが言うと、よもぎはちょっと足元の石を蹴ってから、「じゃあいく」と呟いた。

 森の中、とは言え人の出入りがあるのでそこまで暗くもない。木は切られていて、根っこも掘り返されている。時々大人がここにきて、何か調べているのも見たことがあった。
「いちばんのり!」
 わっとよもぎが声を上げる。
「だれもいないね」
「かなちゃん、はやく釣ろうよ〜!」
 遠くてホトトギスの声が聞こえる。よもぎが錆びた鋏を近くの切り株の根元から取り出した。この鋏はミミズを切るのに使う。隣のクラスのゆきが置いていったものだ。他にも家庭科室から持ち出した針や、小さなマイナスドライバー、誰かの使い残りのテグスなんかも、一緒くたにお菓子の缶に入れて隠されていた。
 ミミズが切られていく。最初は嫌がっていたよもぎも、いつしか割り切って切るようになった。それほどに釣り上げた時の喜びが大きかったのだ。
 曲がった針を石でさらに曲げて、まち針の花の形になっている持ち手の部分に引っ掛かるようにテグスを結ぶ。針の先にミミズの破片を刺したら、簡易な釣りセットの出来上がりだ。
「できた!」
「……」
 隣でかたなも支度を終える。それからきょろきょろと周辺を見回した。
「まだ来ないね」
「ねー」
 みんな晴れだから来ないのかもしれない。
 よもぎが釣り糸を垂れようとしたので、かなたが「待った!」と声をかけた。
「え〜なんで〜?」
「あっちのがいいよ」
 あっち、とはシダの枝が茂っているあたりだ。水面に触れるシダの葉がゆるゆると波紋を生んでいる。
「葉っぱにひっかかるよ」
「引っかからないように、ちょっと外してたらすんだよ」
 かなたが、自分が言ったようにして釣り糸を垂らす。この池はさほど深くはないが、深くないと言っても場所によっては五十センチから七十センチほどの深さがある、と大人が話していた。三十センチの定規を足元から当ててみると、五十センチは思いのほか足が沈む。七十センチは腰まできた。これは結構怖い。市民プールの浅い方でも、腰まで浸かると、誰かの作った流れに攫われそうになる。だから、できるだけ縁のギリギリには近付かないように、木の枝の竿だけで糸を垂らした。かなたがやると、よもぎも真似て枝を垂らす。
 ここからは焦ってはいけない。他に誰も来ないなぁと思いながら、かなたとよもぎは肩を並べて座っていた。何か話そうかとかなたは考えていたが、特に思いつかなかった。
「……あ!」
 と数分もしないうちによもぎが声を上げる。しかし釣り糸が揺れている様子はない。
「かなちゃん、見て、あそこおっきいのいる!」
 と、蓬が指さしたのは、陽光がギラギラ反射している辺りだった。
「光ってるだけじゃない?」
「ちがくて〜!」
 目を凝らすと、不意に陽光の揺らめきが大きくなった。そして、ぱしゃん、と黒い尾鰭が水面に一瞬顔を出す。それは確かに、大きいようだった。
「ぬ、ぬしかな?」
「ぬしってなに?」
「えっと、その池とか、川のはんいで、いちばんでっかいやつ」
 でっかい! とよもぎは嬉しそうに笑った。
「釣れるかなぁ」
「どうだろ、竿のがおれちゃいそうだけど」
 と、かなたがぼやいた途端、よもぎの竿がぐんぐんと引っ張られた。
「あ!」
 よもぎがぐいっと引き上げると、ザリガニがミミズをしっかりハサミで掴んでいた。
「わ〜!」
 と言いながら、水路の方で水を入れておいたバケツにミミズを下ろす。
「かなちゃん、すごいねえ。晴れててもつれるんだね!」
 よもぎがにこにこと笑いながら、針についたままのミミズを小さな口に千切っては運ぶザリガニを見ている。かなたの竿は、静かなままだった。
「そーだね。よかったな」
 頭を撫でると、よもぎは楽しそうに笑っていた。

4/13/2026, 3:03:10 AM

【遠くの空へ】

「んぇええマジで大丈夫でゴザルか!?」
「ほんとお前の喋りキモいな! オタクくんちょっと大人しくしてろ!」
 キモい、と言いながらヘルメットの中の顔はにこやかだ。元々黒髪なのを真っ青に染めて、顔にも大量のピアスが開いている。それでも航行が許されるほど、パイロットの敷居は下がっていた。
「ヒェ……た、高〜……」
 対して先ほど「オタクくん」と呼ばれた方は、伸縮パイロットスーツがぷっくりとしている程度には太ましい体をしている。今は梯子を登りながら下を見て怯えている始末だ。
「ウソこけ、いいからはよ昇れ!」
「うわ〜んオタクにやさしくないギャル男でござ〜!」
「だぁもう俺はギャル男じゃねえっつの!」
 しかし実際のところ、オタクくんは順調に梯子を昇っていた。ふうふうと息を吐いているが、手が緩むことも足を踏み外すこともない。半重力空間、つまり地球相当の重力圏外に出るための準備区画だ。本来なら重心のズレや浮遊感があり、訓練を重ねてもそこそこの揺らぎが起こる。それなのに、まったくそれを感じさせない動き。ギャル男はその背中を見て目を細める。
「オタクくん、お前メインコックピットな」
「ヒィ……無茶言いなさる」
「バッカお前、お前じゃないと追いつかねーんだわ」
 早く乗れ、とコックピットに向かって目の前の尻を叩く。「うわっとっと」とわざとらしく転がり込むが、すぐに姿勢を正して座席に座った。
「いいんでござるか、メインのが楽しくない?」
「……そりゃっ……メインは楽しいに決まってんだろ、いいから早くチェック始めろ!」
 振り返る彼に、ほんの僅かな間。ギャル男だってメインに座りたい気持ちはある。ただ、そこには諦めと納得があった。このオタク、肉体は緩んでいるが実力者だ。クラスで馬鹿にしている奴らは何を見ていたのだろう。体術試験で成績が中程度だったのは、攻め手が弱いからではない。相手の稚拙な攻めにたいして、怪我をさせない受け身が異様なほど上手かったからだ。その稚拙な攻めをやってしまった自分を、ギャル男は知ってしまった。だからオタクくんに声をかけたのだ。「オタクくん、なにしてんの」と。彼はあるいみガチのオタクであった。パイロットシミュレーション施設の利用時間が他の生徒の倍以上、許される時間はとことん施設にいた。それほどの研鑽があってなんであの体なのかと思っていたら、いくらか持病があり、その薬の副作用らしいと知った。ギャル男は、そうしてでもパイロットになろうとしている彼を知った。オタクくんは本気だった。とりあえずパイロットなら食いっぱぐれないし、でクラスに所属していた自分を恥じた。
 頬が赤くなってしまっていたのが見えたのか、オタクくんが「熱でござるか」と手を伸ばす。当然、ヘルメットに阻まれて届かなかった。
「おっと、ヘルメットが。へへ、拙者馬鹿でござるなぁ」
 熱を見ようとしたんだろう。照れ笑いを浮かべる彼が、妙に、そう、妙にイイやつに思えてならない。実際イイやつだ。シミュレーション施設で、何度も操作のコツを教わった。自分の練習時間が減るのも厭わずにやってくれた。座学もそうだ、一緒になってわからないところを教員に聞きに行ったりもした。教員が目を丸くしてたのは、どういう意味だったんだろう。
 そのイイやつを、みんなに見せびらかしたい。コイツは凄いんだって言ってやりたい。
「……バーカ」
 コックピットのカバーを閉める。透明な強化プラスチックとガラスを重ね合わせた上に、ホログラフィックで各種情報が展開されていく。オタクくんは「そうでゴザルね」と笑って正面に向き直った。
 オタクくんは、クラスに友達がいない。ギャル男はそんなことはさすがに、と思っていたのだ。座学は優秀だし、喋りもキモさを除けばそこそこ面白い。化学実験でも成績がいい。けれど、クラスのヒエラルキーはもっぱら「映える」か「オシャレ」かだ。それはギャル男もそうだった。今となっては、「目が覚めた」と思っている。けれどまだみんなに届いていない。正直独占したい。オタクくんのすげーとこは俺のものでいいと思ってるフシさえある。でも、実機試験、ツーマンと言われて、一人残されて「じゃあ、オートボットと一緒に」と言われた時のオタクくんの寂しそうな顔が、どうしても見てられなかった。
「ジェットパック、チェック。タンク容量、チェック。銃座の残弾数、チェック」
「バリアシステム、グリーン。コントロールシステム、グリーン。ライフライン、グリーン」
「ライフラインシステム、でござるよ」
「……ライフラインシステム、グリーン」
「酸素、チェック。バランサー、チェック」
「オートバランサー、だろ」
「うふ、オートバランサー、チェック」
 コックピットのパネル、ガラスのホロ、左腕についたコマンダーのチェック項目をタップしていく。
「最高速後制限確認」
「最高速度、時速100km相当まで可」
「うーん、法廷最高加速でも3Gかからないくらいでござるね」
 おっ、とギャル男は声を上げた。
「マジか。最高速行く?」
「勿論、我々のチームは出発が三百秒以上遅れておりますので」
 足元のストッパーにブーツの踵をはめ込み、深く腰掛ける。
「任せたぜ、オタクくん」
「任されもうした!」
 先ほどまで、「先に組んでいた御仁と!」「その機種は不得手故!」と必死に同行を断っていたとは思えない、まっすぐで心強い言葉。ギャル男も最終のシートベルトをチェックする。航行実機授業は、燃料の半分を使用するまでに最も早く、最も遠くまで行く競争だ。最高速度が出れば慣性で相当行ける。
「カタパルト準備、完了」
 とギャル男が声を出す。サブコックピットの役割は、障害物の把握と伝達。メインコックピットはそれを受けて、最適解で障害物を避けること。実戦なら、サブは銃撃戦、メインは白兵戦に向く。ギャル男は銃撃であれば遠近を問わず高得点が取れていたし、ナビゲーションだけならクラストップだ。目立つ技能ではないので軽視されがちだが、必ず役に立つ。
「カタパルト射出、カウントダウン」
 ハッチが開いて、宇宙が見える。瞬く星と、先に出発したクラスメイトのジェットの青い炎の色が、視界に入ってくる。左右から伸びた信号機がライトの数を減らしていく。三、二、一……機体がカタパルトのレールを滑り、体に重力がかかる。ガッコン、と音がして射出が完了するなり、ゴオッとジェットが後部で炎を吹いた音がした。
「では、最高速まで四秒、気絶めされるな!」
「おう!」
 レバーを前方に倒す。コックピットの外の星の光が歪む様な速度で、機体はまっすぐに星間を突き抜けていった。

4/10/2026, 2:19:17 AM

【誰よりも、ずっと】

 SNSの上に新たなバビロンが築かれて数日である。僕も例に漏れず、その恩恵に預かっている。当然、かのSNSの要する生成AI、ここでは翻訳機械の役割を持つソレは神ではないし、意訳ということも忘れてはならない。が、一方で過去の翻訳不全の状態からははっきりと脱している。少なくとも難解な日本語を、同じく難解、というより日本人には馴染みが薄くて解読が困難な言語と相互にやりとりできると言うのは、十分な機能と言える。お互いが「もしかしたら意図通り伝わっていないかも」と思い合っている限りにおいてだが。
 さて、世間がやれバーベキューだデカい犬だ宗教観の不理解だと騒いでいる間に、僕はとあるヒンズー語話者と言葉を交わすに至った。相手も僕もお互いの日常のシーンについて知りたがっていて、やはり日本のアニメをきっかけにしていると話す。イギリスへの留学経験から英語も話せるとのことだったが、せっかくなのでこのバベルを楽しまないかと言ってみたら、彼(あるいは彼女)は、「では神が怒り、塔を壊すまでそれに甘えましょう」と笑顔の絵文字付きで答えてくれた。
 会話は日を跨いで数日に及んだ。その中でも思い出深い会話があった。
 彼は僕の生活のルーチンを聞きたがり、朝起きて電車に乗り、出社して仕事をするという話をした。比較的拘束の少ない仕事というか、僕のポジションはある設備の設計と、完成後のリアルタイム検証が主だ。設計の方をやっている時はスマホなどいじっている時間はないのだが、検証の時は条件違いの検証パターンをテストルームで仕掛けたら、あとは明日までほとんどやることがない。次の設計の叩き台を作りつつ、レポートの雛形を作って時間が経つのを待つ。先輩もみんなそんな調子なので、そうなるとコーヒーを飲みながら雑談に興じている時間まであった。これでそこそこ給与がいいのだから有難い。と、こんな様子も話してみた。彼は僕に「面白い仕事をしている。日本人はみんな終業時間中はパソコンに齧り付いているのだと思っていた。何の仕事をしているか知らないけど」と言ってきた。実際アニメに限らず、ドラマや映画でもそういう姿が描かれているが、僕も何をしているか知らない。仕事というのは相手と自分の労働と対価のやり取りだ。パソコンに向かっていたって、ネットワークの上で出来ることしかできない。プログラマーやデザイナーとか言われる人々ならともかく、スーツのサラリーマンがパソコンに齧り付いている描写はどういうことなんだろうか?
「そうだよね、働くっていうのは前にも後ろにも人がいて、その人達と自分の作業を、お金と時間でやり取りして、買わせていただく、買っていただくの世界だよなあ」
 と、翻訳文がそう伝えてきた。おや、と思う。
「それは何かい、ヒンズーの教え的なところ? おっと、気を悪くしないでほしい、日本人にはそういう、宗教的戒律とか、教義みたいなものに馴染みが薄いんだ」
 つい、半ば軽口のようにそう伝えていた。
「そんなこと言って。君らが困ったときに「神頼み」をすることくらい知ってる。僕らの神様は一人一人大きくて強い力をあっちこっちに発揮してるけど、君らの神様はたくさんどこにでもいて、君たちを出来る限り見守っている。そういう解釈してるけど?」
 おや、相手の方が一枚上手だったか。なんと返すべきか考えていると、続けてもう一つポストがあった。
「労働の解釈だけど、これは持論だね。でも大きく世界を見れば最終的にそこに行き着く。これが私にとってのアートマンかな。他にもそういう人がいるから、きっとブラフマンでもある」
 アートマン、ブラフマン、なんだったっけか、と検索をかける。個人我と宇宙我。聞き馴染みのない言葉だった。ただ、なんとなく彼の口調からして、己がそう思うということは、宇宙にはそう思うという総体の一つがあり、生きる人間にそれが降りてきて、個人の思考を成し己にそう思わせる、といったところだろうか。鶏が先か、卵が先か。宇宙我にあるから個人我に来るのか、個人我があるから宇宙我にもあるのか。
「今の一瞬だけなら、もしかしたら僕は誰よりもずっとヴェーダの教えを分かる日本人かも」
「どうだろう、ウパニシャッドって日本語訳されてるの? きっとそっちを読めば本当に日本一かもしれないよ」
 冗談のようなやり取り。しかしそうして聞いてみると、人間の個の境目が薄いような奇妙な感覚を受けた。正直なところ、それには些かの不快感がある。誰かに常に見られているような、誰かに己を常に共有されているような。眉を寄せながらそれを打ち込もうとして、手を止める。いいや、それこそ日本人の世界観には常にあるものじゃないか? 八百万の神に常に囲まれて、SNSで共有は常にしていて。仕事だってスケジューラや社内用チャットでかなりの共有を要求されている。意識の仕方が違うだけで、結局僕だって社会という大きな自我の一粒なのかもしれない。
 結局その時の会話はちょっと曖昧に終わらせてしまった。彼とはその他にもいろいろ話したが、宗教が文化として根付く世界の中での個人感とでも言えばいいのだろうか、自分にとって新しい視野、あるいは新しい感覚の話が聞けたのは大きな収穫だった。話した彼とは相互フォローになったのだが、今は一日に一度もポストがない。忙しい時は忙しいんだ、と言っていたので、いずれまた話す機会もできるだろう。
 メガネを外してスマートフォンのスリープにする。計測器はまだカウント中だ。僕はひっそりと席を立ち、コーヒーを淹れる。先輩が次の仕様書を睨みながら、設計を始める背中が見えていた。

4/9/2026, 2:23:33 AM

【これからも、ずっと】

「さて、どうしたもんか」
 と、作家が独りごちた。家から徒歩一時間の街に、タブレットとワイヤレスキーボード、それを充電するポータブル充電器、サイフと携帯電話と電子タバコ……の代わりのベイプを持ち込んで、コーヒーとパスタとデザートのパンで二時間粘って、大体原稿は仕上がった。この後編集に出して、校正が入って、仕上がりを少し歪めて叩き直してまっすぐに見えるようにしたら終わりだ。出力の部分が終わってしまえばあとはどうにでもなる。たとえ不本意だったとしても。
 主人公は潜入捜査官。ある組織に潜り込んで、海外を経由するマネーロンダリングや麻薬の密売の捜査をしていた。その途中、自分の目的である、弟を麻薬中毒に陥れた男を見つけた彼は、時間をかけて上手く理由を作り上げ、その男を私情で殺害している。それに与したのは、その組織の中堅の男だ。彼は自分が知らないうちに、マネーロンダリングの取引で現地に行った自分の部下が、口封じのための殺されたのを知ってしまった。組織のフロント企業側にいた彼が、なんとか取り入ってその命令を出した男を見つけ出した。二人の男の目的は、同じ男だったのだ。
 復讐を遂げた後、組織の壊滅を望んだ二人はありとあらゆる手段を利用し、そしきの所在がわかるように警察を動かした。最終的に組織は壊滅に追い込まれ、その首魁であった男は怨嗟の言葉を吐きながら警察に捕らえられる。
 しかし潜入捜査官は殺人の罪を自白し、法の裁きにおいて収監。協力者となった男も、潜入捜査官が手配してくれた便で海外に逃げようとしたところ、警察官に捕らえられる。というのがエンディングだ。
 作家はそこを読み返して唸っていた。少し前に編集からアニメ化の打診があり、その回答期限はまだある。ただ、それに際して「ハッピーエンドになりませんかね」と軽々しく、しかし理解もできる提案が出されたのだ。作家は悩んだ。このドライでシビアな世界観こそが作家の売りだ。そこを曲げたくない意識と、アニメでの新規ファンの獲得に揺れる気持ちがないわけではない。
 しかし、作中であっても罪は償わなければならないと思う。元々なんでアニメ化の話が上がってきたのかわからないくらいハードボイルドな方向性で振っているのだ。ドラマではないんだ、という驚きもあった。軽く聞いたところ、深夜枠らしいので大人向けということではあるのだろう。
 ハッピーエンドを目指すべきか。否だ。潜入捜査官は法の裁きを待たず、自分の手で殺した。協力者もそのためのお膳立てを行い、死体を始末する役割を負った。殺人と死体遺棄。その罪だけは、必ず償う必要がある。裁判において情状酌量の余地はあるのだろうか、そのあたりになると、友人の作家に問い合わせなければならない。
 ふと、作家はスマートフォンに入れていた自作の前巻のデータを開いた。そう言えば、彼らを慕って組織を裏切る行動をしているのに同調した若いのが二人いたっけ。片方はブラック企業での労働に疲れて半グレに足を突っ込んだ男、もう一人は学のなさから職に就けず、拾われた男。この二人はお互いの不足を補うようなペアとして書いていて、終盤、組織に警察を介入させる段階になる前に、協力者の男が手引きして逃していた。二人の所属の証拠は潜入捜査官が消している。
 そうだ、これだ。一応の補填を用意して、そこを描いておこう。編集がなんと言うかは分からないが、そのシーンを挟んでおけば、少しは雰囲気が明るくなるだろうか。

「……珍しい、ですね」
 と編集が電話口でそう言った。自宅の寝室で、久しぶりに好きな作家の新刊を眺めていた作家は「そうか」と答えた。
「ええ、後日談的に、逃亡した二人が地方で飲食店を始める。その二人がもうそろそろ店の十周年記念でもやろうか、と言っていると、彼らの妻と思われる女性が身内のパーティーでもやるの、といい出して、そこにどこかで見た男が入店してくる。うーん、あの、そうか、スピンオフで十年書ける設定積んできたかぁ」
 ちょっと面白そうに笑って、それからうんうん唸る。
「すみません、編集会議にかけます」
「はいはい、任せます、蛇足なら切っちゃうんでね」
「いや……」
 ぱらり、と電話の向こうで紙を捲る音が聞こえた。
「先生、これ続き書く気があってやってますか」
 そこだけは冷えた声で、問いかけられる。作家は少し考えてから、ふふ、と小さく笑った。
「ま、新しいシリーズの構想も頭の中にあるし、気が向いた時にこれから、適当にスピンオフで」
「あ〜なるほど、ゆるーく続けてく感じで」
 わかりました、では、と電話は切れた。
 思えばこうして、終わった後の話については考えたことはなかったかもしれない。王子様がお姫様にキスをして目覚めさせる童話よろしく、末長く幸せに暮らせる人物は書いてこなかった。幸せでなくたっていいのだ。自分だって、作家としてはそれなりに成功していても、変わらず独り身でいる。いつかそういう、幸せを得る日が来るのかもしれないが、それまではきっと、こんな生活なんだろう。その中にほんの少しだけ、変化があってもいいのだ。

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