【タイムマシーン】
(またやった)
徹は臍を噛むような思いでぐっと肩を竦めた。悪い癖が出たと思う。体育会系の部活に馴染み、ついなんでも声が大きい方に気を取られて、先に進むことばかりを見てしまう。今の会議だってそうだ。営業部の成績決算。一年通してどれくらい業績を上げられたかを発表される。どうしたって避けようがないイベント。徹は持ち前のポジティブさから客受けも良いので、仕事が進みやすい。バスケ部に長く所属して、高身長で肩幅もある。販売しているのが業務用の機械ということもあって、ようは「似つかわしい」のだ。
(褒められてまた有頂天になった、俺のバカ!)
そんな徹にも、悩みがあった。今期から新人と中堅をまとめる営業部二課二班の班長になったのだが、どうも皆パッとしない。徹ばかりが業績を伸ばして、班全体では伸びが悪い。理由はわかる。組んでいる新人の一人は如何にも文系の眼鏡で髪も長めの新卒二年目、もう一人はきびきびとはしているし明るいが女性だ。中堅所は五年目、徹の一年後輩で何ともぬぼっとした男なのだ。どうにも職種柄、三人の受けはあまり良くない。文系男児は説明の歯切れが悪い。女性は女性というだけで侮られている。中堅の彼に至っては、評価がしにくいと来た。客先から徹さんならねぇ、と言われてしまうこともある。それは徹にとって誇らしくもあるが、あまり胸を張れない。
しかしながら徹は、その三人を不快には思っていなかった。文系男児は自分の言う事に嘘や誇張や抜けがないかを常に高速回転の頭で考えており、また客の望む機能についてのヒアリングには徹では到底至れないものがある。女性についても同様で、軽作業系の職場における機材については誰よりも理解がある。当人がそのような職場にアルバイトで長く勤めたからと聞いていた。また、ぬぼっとした彼も全く驚くべきことに、客先の会話を何一つ逃さない。即時その場での応答は苦手なようで、一度精査して持ち帰るとして戻った時に、事細かに要望を組み立て、必要なスペックを綺麗に揃えて見積書を持っていったことがあった。
いずれもゴリ押しで調子良く物事を進める徹には真似できない芸当である。
(会議まで時間戻んねぇかなぁ……)
三人の業績は、今期の後半になって上り調子になってきた。客がスタイルや特性に理解を示したとは思わないが、その持ち込む営業が当たっているのだと言うことになってきている。新規は勿論、メンテナンスやランニングコストの部分で対応もしている。正直、徹なんかいつ食われてもおかしくないのだ。
その三人が、会議で酷評された。それなのにリーダーの徹だけは良くやった、今期も伸ばしたと褒めそやされたものだから、つい調子に乗ってしまった。
(三人に悪いことしちまったなぁ……)
はぁ、と溜息を吐く。今ここにタイムマシンがあって、もしかこの会議に参加する直前の徹に会えるなら、「三人のやり方から学ぶところもありましたと言え!」と怒鳴りつけてやりたい。本当に肝心なところでやらかした。
二課の扉の前まで来る。先に戻った三人はもう席にいるだろう。扉を開けるのが嫌だ。徹だっていつでもポジティブにいられるわけではないのだ。三人の心中がどうあれ、徹は褒めてやってくれと言えなかった。それが酷く心残りで、胸が重たくなる。しかしぼんやり突っ立っているわけにもいかず、徹はぎっと音のなる扉を開けて、中にはいったのだった。
【海の底】
差し込む光は、いつでも頼りなく、誰かが上を通ると、突然暗くなってしまうような、そんな場所だった。温い流れがあって、私はいつでも、そこでゆらゆら、じっとしている。時折腹が減ったら、暗くなる時に、腕を素早く伸ばせば良かった。そうすると、五回に一回くらい、小さなものが手に入って、私が口へ運べば、腹がくちくなった。
ぼんやりとそこにいる。時々誰か、ここをよこせとばかりに、ぶつかってくる。私はそれは、我慢ならない。腕の先をぎゅっと丸めて、それを殴るのだ。大抵のやつは、私の一撃に驚き、逃げ帰ってしまう。けれど、本当に稀に、何度も何度も、ぶつかってくるやつがいて、そうなると私は、参ってしまって、一度その場を離れるのだ。足元で、得意そうに、そこに入り込んだやつめに、私はありったけ、黒い靄を噴き付けてやる。すると、やられたやつは慌てふためき、大暴れして、そこから出ていく。私はまた、悠々と、その場所に座り直す。
私の居場所を、取り戻して、ほっとする。
光のゆらゆらの向こうから、見えるもの、ずっと遠い、白いもの。あれは時々、赤くなったり、黄色くなったり、消えてしまったりする。けれど、私をずっと見ている。お互い、喋らないけれど、お友達のようなものだ。
見ていたかい、友達。私は今日も無事に、ここで過ごせるようだよ。そう思って見上げていると、ゆらゆらの向こう、白かった友達が、少しずつ黄色くなって、橙になって、赤くなって、やがて紺色に変わってしまった頃、光と一緒にいなくなってしまった。
眠って起きたら、顔を出すのは、知っていたから、私は不安でなかった。座り込んで、腕を動かして、いい場所に座れるようにする。ゆっくりと、意識を緩めて、眠ることにした。
【どうして】*BL
放課後、体育倉庫裏。埃の匂いが立ち上るその辺りは確かに女子には敬遠されるだろう。そこに、サッカー部のエースと、写真部のヒラの俺。爽やかの代名詞で今日だって朝から何人の女の子に声をかけられていたかわからない男が、授業の途中に「放課後、体育倉庫裏な」なんて声をかけてきた。
バレンタインデーに何を考えてるのか。その上どうやって誰にも見つからずにここまで来たのか。それに俺はどうしてここに来てしまったのか。分からないことが多すぎる。
キラキラと日焼けで色が抜けた髪の毛と、未だ夏の日焼けが残って黒い肌と、真っ黒なのにキラキラに光る目が、こちらを見ている。犬みたいに笑う男だ。何度被写体にしたか分からない。伸びやかな手足も、高い身長も、整った顔も持っている。成績も悪くはない、中の上程度。
モテないはずのない男なのだ。事実今も右手にチョコレートの詰まったビニール袋を持っている。手紙付きのそれをもって、なんでこんなところにいるのか。
「あのさ!」
ばっと、左手が持ち上がる。そこに、包装された包みが一つ。
「受け取って、くんないかな」
答えられずにいると、その手が勝手に俺の手を取った。可哀想に、可愛くラッピングされたチョコレート達はじめじめした土の上に落っこちていた。右手が俺の右手を取って、左手の箱が俺の手に握らされる。
「あの、さ」
声に必死さが滲んでしまいはしなかっただろうか。恐る恐る声を出す。
「どうして、俺なの」
日焼けした顔が、ニカッと笑った。
【逃れられない呪縛】
「野庭さん、好きです!」
の一言から始まった。会社の同期、同い年の柳井さん。屋上メシを嗜む俺に、いつしか出来たランチメイト。たまに弁当を作ってきたり、こっちからテイクアウトを奢ったり、持ちつ持たれつで一緒に昼飯をする仲。
ただそれほど恋愛に興味もなさそうなタイプと言うか、いつも薄化粧で髪の毛も清潔感はあるが遊ばせないので、たまたま昼食べる場所が被ったんだなぁ、位に思ってた。話題も色々だ、分かりやすいとこで映画や音楽、ドラマやバラエティは見ないらしい。少しオタクっぽいとこでゲームやアニメ、割りと多趣味で、自作のネイルチップや時々ソロキャンプに行く話。全く飽きない。俺がするサッカーとラーメンとバイクとオンラインゲームの話も聞いてくれる。映画は会社帰りに二回くらい一緒に行った。面白い人だなぁ、とは思ってたけれど。
二月、バレンタインデーに、気合の入った手作りチョコを貰った。奥ゆかしいのか素直なのか、「でも返事はいらないです! その、気不味くなってランチ一緒にできないほうが嫌なので」のセリフ付き。
俺は少し考えて、それからこう答えた。
「半年待ってくれ、それまでに答え出すから」
そして、八月。夏真っ盛りの中旬。エアコンのない屋上だが、室外機がこれでもかというくらい回ってるせいで、日陰はそこそこ涼しかった。
二人して飛ばされないようにしながらランチタイム。夏場は腐るのが怖いから、二人してコンビニ飯。
「柳井さんさぁ」
「ふぁい」
もぐもぐと動くほっぺたの、なんと可愛いことか。太ってるわけじゃないが、少し丸っこいほっぺたがまた可愛いのなんの。マスクで隠れてるからみんな知らないのかもしれない。好きだと言われてから半年間、この可愛らしい何かにずっと好かれてるんだと思って、胸が苦しくならない日は殆どなかった。
だからこそ、俺は打ち明けなければならない。
「俺が狼男って言ったら信じる?」
「……それは、そのぉ、隠喩的な意味ですか?」
ごくんと食べていたおにぎりを飲み込んで、彼女は首を傾げた。
「んー、本当の意味で。満月の夜にがおーって」
「えー」
困ったように笑ってから、少し考え込む。難しいことを考える時に手元に目を落とす癖まで覚えてしまった。これで関係を断られたら、本当、落ち込むぞ。
「過去二十八年の間に、連続した満月の日の不審死、みたいのが報道されてないってことは、がおーってしても特に危険はないってことですか?」
俺は面食らった。まさかの方向からの返答で、思わず変な笑いが漏れる。
「えっへぇ……いや柳井さんてなんか、やっぱ変わってんね」
「おかしなこと言いました?」
む、と眉を寄せる。
「いや、あー、そっか、そういう見方もあるのか」
数値的なアプローチ。なんだか凄く素敵だ。俺の危険性を、感情以外で測ろうとしてくれた。
「一応、俺の理性は保たれてるよ、ある程度ね。特に食人とか殺人の欲求もない、まぁちょっと肉系の食べ物を何かしら用意したほうが気分は安定はするかな」
「……え、ある程度?」
ちゃんと、引っ掛かるべきところには引っ掛かる。仕事もできる人だから、なんだか安心してしまう。
「鋭いなぁ……笑ってくれていいんだけどさ」
ちょっと恥ずかしい話だ。顔は火照るけど、ここまで話したなら全部言ってしまった方がいい。
「めちゃくちゃ本能が表に出るっていうか、欲求が出るっていうか。肉食いたくなるし、誰かに撫でてほしくて、誰かに遊んでほしくて、外駆けずり回りたくなるし、セックスもしたくなる。超でかい発情期の犬って感じになるんだ」
はぁ、と答えに困ったのか、頬を真っ赤にして俺を見上げている。時々少し視線が泳いでるのまで可愛いとか、俺もどうかしてる。
「えぇと、その……私、に、それを話したってことは」
ことは。先を促すように頷くと、耳まで真っ赤になった。
「あの……確かめて決めろ、ってことですか?」
「……俺、柳井さんのこと、そういう意味で好きになっちゃったから」
無理なら無理で、いいから。好いた人に、せめて嘘なしで話したい。
家系的に人狼の子が出る家って両親に話されて、十歳の時に本当に狼になって、それからずっと誰かを好きになっても、長く続けられなかった。露呈が怖くて、嫌われたくなくて、月イチ夜の予定が入れられないことの理由を言えなくて、たったそれだけのことなんだけど、俺が誰かを好きになるのを縛ってきたもの。
初めて馬鹿にしたように笑わず、狼男のことを考えてくれた柳井さんだから、俺は信じたい。
「今年の八月って、満月二回あんの。変身するのは決まって深夜十二時くらいから翌日の四時くらいまで」
同じ人狼体質の母と祖父も、同じ時間に変身する。体質だけじゃなくて、何かしらの意図を感じる。でも、それは解決できそうもない。
「夜中付き合わせちゃうからさ、九月一日休みとってくれる? 三十一日の日に、夜、俺んち来て、俺がどんな生き物なのか、確かめてほしいんだ」
受け入れて欲しい。どうかなぁ、でもダメだったら転職できるように、半年かけて準備したから。
「……分かりました、じゃあ、お休み、取りますね」
照れたように微笑む彼女に、ちょっとだけ、目頭が熱くなった。
【透明な水】
とぷん、と音を立てて水槽に沈んだそれは、小さな卵だった。塩分濃度3.4%の水の中に、ゆらゆらと波紋に揺らされながら沈んでいく。
さっき買った「人魚の卵」だ。
近くの神社でやっていた縁日で、境内の奥、薄暗い所に出ていた店に興味を惹かれた。店主は狐の面を被っていて、見てきなさいよ、と軽く笑った。
ものを一つ手に取る度に、
「そいつは魔神のランプだ、正しく擦りゃ願いを三つ……と言いたいとこだが、魔神も物価の高等にゃ勝てんらしい、一つだけ叶えるとよ」
「あーそいつは金羊毛入りマフラーだ、まぁキラキラするだけで普通の羊毛のマフラーさ」
「ん、そりゃアンタ向きじゃないな、女の子の友達を欲しがってる市松人形だ。女の子が家にいるならいいけどな」
「お目が高いな、それは透明マント風コート。トレンチだから春と秋に大活躍請け合いだよ」
と、こんな服に与太話をあれやこれや吹き込んでくる。それなりに面白かったので、最後に一つくらいなにか買ってやろうかと、指先くらいの大きさの、真珠のようなものを一つ手に取った。
「お客さん、アンタがそれを手に取ると思ってたんだ」
ふぅー、と狐面のどこかから煙が漏れる。いや、口が開いていやしないか、と思わず目を瞬かせた。
「そいつは人魚の卵さ。塩分濃度を海にさえ合わせりゃ、勝手に人魚が水槽の中に海を作る。餌も要らなきゃ水の交換もいらない。人魚が死んだらそれまでだが、きっとアンタのお気に召すぜ。なぁ、お代は千円こっきりだ、ま帰りに水槽なんかを買って帰ることにはなるだろうが、悪い話じゃないだろう?」
半信半疑どころか疑いしかなかったが、それまでとは違った語り口に少し気圧された。結局、人魚の卵と水槽を買って帰り、中には砂利と少しの水草だけいれて、塩分濃度を言われた通り海と揃えて、水槽の中に入れた。
それから三日、水は透明に揺れるままだった。卵は真珠色に輝くままで、ああ、騙されたなぁ、まぁ面白いからいいか、と思っていた頃だった。
ふと、水槽を見たら、真珠が割れていた。不思議なことに、割れた真珠色の殻がパラパラと水槽の中に溶けるように粉状の光になっていく。見ると、水草の周りをくるくると泳ぎ回るものがあった。赤ん坊のような幼い顔をした、身の丈1cmの人魚だ。ぽっこりしたお腹をして、水草に掴まったり、茎に沿って泳ぎだり忙しない。へぇ、こんなものが実在するのかと、思わずスマートフォンで撮影していた。
翌日の夜になると、人魚は少し成長していた。幼稚園の子供くらいになったろうか、笑ったような表情で指先を水中にくるくるさせて遊んでいる。みれば、その指先には極小さな魚が纏わりついていた。一体どこから、と思うが、不可思議は不可思議を呼ぶのだろうと勝手に納得した。
人魚の成長は早かった。
生まれて三日目には人魚は小学生くらいになって、水槽の砂利の隙間に小さなカニとイカとタコが姿を表した。
四日目には中学生ほどになって、どうやらメスだったらしい、水草の一部を胸に巻きつけるようになっていた。水中には色とりどりの魚が泳ぎ回って、カメや貝なんかも増えた。
五日目には高校生くらいになり、成長した人魚は靭やかに泳ぎ回りながら、何故か増えた水草……というより、昆布やワカメのような海藻類の間を遊び回っていたし、気が付けば指先くらいの大きさのサメや、ウツボやウミヘビまで水槽を泳いでいた。サメは当然他の魚を捕食するし、そうすれば水槽の水も少し赤く濁るのだが、それでもしばらくするとまた透明な水に戻った。
六日目に、クジラが潮を吹いた。こんな小さな水槽なのに、まるで本物の海のようだ。すっかり大人になった人魚は第二関節くらいの大きさで、見れば何故か岩場や地形のようなものまで出来ている。人魚が勝手に海を作るというのは、本当だった。
七日目に、人魚が小さな卵を産んだ。それは人魚自身が産まれてきたものよりずっと小さかった。もしかして、この水槽がいつかいっぱいになってしまうんじゃないだろうか。少し怖くなった。
それから一ヶ月。水槽の中は大きな体の人魚と、その子供である小さな人魚たちの集落がいくつがあるような、小世界が出来上がっていた。水は相変わらず透明に澄んでいて、水面近くをおよぐものがなければ、波一つ立たない。どうやらまだ、しばらくはこの不可思議な人魚たちの水槽を楽しめるようだ。
ふと、人魚が始めてこちらを見た気がした。あれ以来老いることのない人魚が、微笑んで水槽の外を見ていた。