Werewolf

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3/27/2026, 3:06:48 AM

【ないものねだり】*BL *グロテスクな表現があります

 生活というのは単調で、どうにも堪え難いものだ。起床、食事、ニュースのチェック、出勤、業務、昼食、業務、退勤、ニュースのチェック、就寝。一般的に言えば「良い生活」なのだろう。金に困ることもない、誰かに特段の迷惑もかけていない。胸が悪くなるほど普通だ。
 裏で、人も殺していた。もう何がきっかけだった顔も覚えていない。ただ普通の生活が出来なかった。高校生の頃には、そういう仕事をしていたと思う。元締めにいつ誰を殺せと言われて、それを遂行する。死体の処理は、やってもらえることもあれば、任されることもあった。それももう慣れきってしまって、「普通」の一環だった。
 仕事を始めた当初は良かった。知らないことも多かったし、ミスをどう挽回するかも考えるのは楽しかった。そういうことはあっという間になくなってしまって、ただ生きるための呼吸と同じように仕事をしている。そうなるまでそうかからなかった。
 そんな中で、「刺激」があれば良いのではないかと思った。休日に各地の遊園地に赴き、絶叫アトラクションを乗り回す。バンジージャンプや登山などの、免許のいらないアクティビティもやりつくした。激辛や激臭などの食に関するものも少し試したが、そっちは面白くない気持ちが優ったのですぐにやめた。映画、ドラマ、アニメ、音楽、とにかくなんでも「刺激的だ」と評価されるものに触れてみたのだが、全くと言っていいほど心は凪いでいた。
 そんな折に、本当に偶然、全くの偶然に、自分が殺すために捕らえた男が「喰われた」。得体の知れない化け物が、大きな口で男の頭を噛み砕き、首をもいで、咀嚼の後に飲み込んだのだ。首から引き摺り出される食道、肺、胃。肉だけでなく内臓も、骨も残さず飲み込んだ。足元に残った血溜まりだけが、さっきまでそこにターゲットがいたことを匂わせている。
「……あ、ど、なに、今の」
 化け物が喋った途端に、しゅるしゅると顎が縮んで、手足も小さくなって、引き伸ばされてでろんでろんになった服を着た若い男に変わった。
 見たことも、聞いたこともないことだった。それがどれほど紫堂の心を震わせたか。紫堂は若い男を捕らえて何者なのか問い詰めたが、彼自身もわかっていなかった。伊黒と名乗った彼を拘束したまま、あれこれ調べてみると、人の中に紛れて生きる、人を食う生き物がいる、という都市伝説が目についた。まさに、伊黒のことだ。伊黒は混乱した様子だったが、紫堂が都市伝説のことを話して聞かせると、「じゃあ、ボクはまた誰かのこと食べちゃうの……」としょげかえった。
 しかし実際は相当本能のようなものに振り回されるらしい。拘束している時に依頼で殺した人間の死体を前に出してみると、伊黒は嫌だ嫌だと言いながら、口から涎をこぼしていた。拘束を外すと、異形の獣に変わって、またそれを貪り食った。その姿が、紫堂の心を鷲掴みにしていた。
 ああ、これが、きっとこれが。この生き物を手なづけるなり、伊黒が望むように人として生きられるようにするなり、とにかくわからないこと、知らないこと、未知への挑戦だらけだ。
 ようやく見つけた「何か」を目に、紫堂は交渉を持ちかけていた。

「おいし〜!」
 にこにこと頬を押さえながら、ケーキにフォークを差し入れる伊黒の姿を見る。自分の前にはコーヒーだけだ。特に甘いものに興味はない。この前の死体の処理の褒美として、少し値の張るタルトを買ってきてやった。それだけでしょげていようが怒っていようが、ある程度機嫌がなおるのだから安いものだ。
「シドちゃん、あーん」
「……」
 紫堂は差し出された一口分を眺める。クッキー生地の上にカスタードクリームとゼリー状のコートがされた苺、またクッキーのボロボロしたやつが乗ったタルト。上に緑の葉っぱも乗っている。これの何がいいのかわからない。卵と牛乳と小麦粉とバターと苺と、いくつかの製菓素材の組み合わせで作られた焼き菓子。いつまでも目の前から退かないそれをしばらく見つめてから、紫堂は口を開いた。差し込まれた焼き菓子を咀嚼する。思いの外、苺の果汁が甘酸っぱい。牛乳と卵黄を混ぜ合わせたクリームと合わさると、爽やかな甘みになった。バターの香りが鼻を抜けて、冷蔵されたタルトのはずなのに妙に温かい感じがする。
 どうにも、この伊黒といると、いつもと世界が違ってくるらしい。それが紫堂が彼を手放せない理由になっていた。

3/26/2026, 3:17:14 AM

【好きじゃないのに】*BL *グロテスクな表現があります

 甘いお菓子が好き。それもとびっきり可愛く飾りつけられたやつ。
 ホイップクリームで丁寧に飾りつけられたデコレーションたっぷりのショートケーキ。苺がナパージュされてつやつやで、スポンジもふっくらしているのがいい。フォークを入れたらさっくり切れて、口の中で生クリームと苺がほどけるような。
 オペラも大好き。つやつやのチョコレートの表面を見ているだけで心が躍る。ビターなクリームと甘味控えめのスポンジ、金粉やショコラリーフを乗せて、粉砂糖で飾り付け。コーヒーに併せて鼻を通り抜ける香りを楽しむのがいい。
 チェリーパイも素敵。チェリーフィリングをたっぷり乗せたパイ生地の上に、網目のパイ生地が乗ってると見た目も最高。底はパイ生地厚め、フィリングはちょっとアルコールの香りがするくらいでいい。甘酸っぱいジャム状のそれを敷き詰めた上に、果実の形が残ったのを乗せてあるとテンションが上がる。咀嚼で皮が弾ける食感は最高だ。

「……まぁ、わかったよ、だからそんなに落ち込むなよ」
 目の前にあるのは全く最高ではない景色だ。
 飛び散る血潮や内臓はグロテスクの一言に尽きるし、砕けた骨や破れた皮膚には洒落たところなんて一つもない。最悪なことに、それをやったのは自分自身であり、今はそれを口に運ぶ手が止まらない。本当に一番最悪なのは、その肉がとろける食感が素晴らしく、血潮の臭いが酩酊を引き起こしそうなくらい悦いということだ。一欠片も美しくない、どこをとっても甘くない、自分とよく似た生き物の死体を貪っている。
「だぁって〜……全然オシャレじゃないよこれ〜……」
 べそでもかきそうな鼻声でぼやきながら、咀嚼は止まらない。
 人の社会の中に溶け込みながら、人の子供として育てられて、成人するころに本性としての食性が顕在化する生き物。それが彼らだった。そんなこと知らずに育った伊黒はすっかりしょげて大きな耳を後ろに倒し、前に伸びた顎でゴリゴリと骨を齧っている。一方、隣でそれを見ている紫堂はそれを眺めているだけだ。飛び散った血飛沫を気にした様子もなく、じっと伊黒の食事を眺めている。
「ちゃんと食い終わったら、お前の言ってたケーキ買ってきてやるから」
「ホント? ホントのホント? 約束してよ」
 子供っぽくはしゃいで見せるが、人の頭を一掴みできそうなほど大きな手の中には、引きちぎられた脹脛が、まるで遊園地の食べ歩きフードのように握られている。
「ホントホント。残さず食いな」
「うぇ〜……はぁ〜あ……こんな可愛くない食べ物、好きじゃないのになぁ……」
 ごり、むしゃ、と骨ごと肉をしゃぶっている口元を見て、紫堂はぶるっと身震いした。彼の、この定期的に行われる食事が紫堂にとっては堪らない。元より消したい人間をどうにかする仕事をしていたことも相まって、一石二鳥だ。
「いいから。ちゃんと食べたら二ヶ月くらいもつだろ」
「……だね、シドちゃんに毎回ご遺体とか食べていいの、手配してもらってるし、我慢期間延ばさないと」
 デザイナーとしてそれなりの腕を持つ伊黒が、飢えのあまり正気を失い、本当にたまたま紫堂のターゲットを食ってしまったのがもう二年前。自身の体質を知らなかった伊黒を捕らえ、それが実しやかに囁かれる、都市伝説的な存在だと知って、利用するつもりで関係を持った。それから紫堂は自分に回ってくる仕事の死体を伊黒に回している。普段はどうみても普通の人間なのに、飢えてくると……普通の食事で満たせなくなってくると、異形の獣と化した。それが人を、文字通り食っているところを見るのが、紫堂には何にも代え難い娯楽なのだ。
「伊黒」
 顔を上げる。獣じみた顔になっても、ぱっちりとした目元は変わらない。
「ちゃんと可愛いよ」
「ん〜……ふふふふふ〜!」

3/19/2026, 2:16:58 AM

【不条理】エヨア

「エヨアを探してるんです」
 と暖かな日差しの朝、まだ就学前であろう幼い少年は、公園でそれだけ言った。すると新聞を抱えた紳士は髭をちょっといじってから、「スーパーに行くといいよ」とだけ言い残して立ち去った。
 少年はそれに従い、スーパーに向かう。ごちゃごちゃと物が置かれたスーパーは開店したばかりだが、多くの客がカゴを持ってあれこれと頭の中と目の前の物と照らし合わせては棚に戻したりカゴに入れたりしている。
「エヨアを探してるんです」
 と少年は帽子をとって言った。すると近くにいた年配の身なりのいい女性が「まぁ」と声を上げた。
「こんな子供に。エヨアならまず公園にいらっしゃいな」
「公園から来たんです」
「まず公園よ、公園、エヨアなら」
 婦人はそういって少年をスーパーから追い出した。少年は少しスーパーの方を見ていたが、すぐにまた公園の方へ戻っていく。手を擦り合わせながら、ちらちらとあちこちを気にして歩く。そうしてまた公園に着くと、少年は誰に共なくこう言った。
「エヨアを探しているんです」

「ちょっと疲れた」
 と、榊が言い出したので公園のベンチに座る。榊は大学の時の演劇サークルの友人だ。自分と榊は結局劇芸の道に進むことはなく、趣味としての観劇に時々同行する仲間として続いている。少し汗を拭って、ついでにメガネも拭うのを見ながら、「コーヒー買ってきていい?」と声をかけると、小さく頷いたので自販機に向かう。
 舞台はいわゆる不条理劇というものだ。『ゴドーを待ちながら』のような噛み合わない会話が続いていく。繰り返し語られる「エヨア」がなんなのか、我々には結局分からない。ただ少年……舞台上で少年とされる若い俳優が、あちこちを歩き回っては「エヨアを探している」と言い続ける。出会う人々は誰も彼も勝手に答える。スーパーに、公園に、学校に、図書館に、市庁舎に、船着場に、地下鉄の駅に、テレビ局に、エヨアがある、あるいはいる、とそう答えるのだ。しかし少年は誰かに積極的に話しかけるわけでもなく、ただいきなり「エヨアを探しているんです」と声を上げるだけだ。
 夜間なのでカフェインを避ける。適当に、無糖の炭酸水のペットボトルを二本買った。
 榊はわかっていたように百円と十円玉をいくつか交換に渡してきて、ペットボトルを受け取る。
「最後にさ、少年が「なんだ、誰もエヨアを知らないくせに」と言いながら観客の方を見渡すの、結構嫌だよな〜」
「あ〜、ちょっとね、身につまされるっつーかね」
 サラリーマンなんてやってるとそんなことばっかりだ。会議資料に出てきたアレはどこのだっけ、コレのことなんか知らないか、そんな質問に「いやぁ、だれそれなら知ってるんじゃないですかね」とのらりくらり。時々そんなことも知らないのか、とか、全然違うじゃないか、と大きな穴にハマることもある。
「最近中途採用できたオバチャンがさ」
 と榊はペットボトルのキャップを手の中で遊んだ。
「凄いんだよね、ごめんなさい、それはなんですか? どういうものですか? それじゃあこの人じゃないですか、それは私の管轄じゃないようです、って。問題の対象を何か把握して切り分けるスピードが速いってか」
「うわ、合理の鬼。そうあるべきだと思ってもなかなかできねーよなぁ……」
 なかなかできないのはなぜなのか。それは無駄なプライドのせいだ。他人からみえもしないレッテルに怯えた結果がこれだ。きっとエヨアのことを答えた人々も、そうだったに違いないと思う。主観でしかないが、そう考えると少年の叫びはもっともなのだ。
「オバチャン見習いて〜」
 そうぼやきながら、炭酸水を飲み下す。泡は確かにそこにあるくせに、即座に消える物だ。軽やかな痛みのような刺激とシュワシュワという音だけを残して。

3/18/2026, 7:38:50 AM

【泣かないよ】万年Cランク剣士、12回目の試験に挑む。

 冒険者ギルドの昇格試験は、一定の期間で特定のダンジョンをソロ攻略、という至極わかりやすいものだ。ダンジョンの特定階層に自生している動植物の持ち帰り。今回実施された試験はBランクのもの、第三十階層にいるコカトリスの卵と、マンドラゴラがターゲットだった。
 ベテランと呼ばれる年齢に達して丸三年。Bランクの試験は三ヶ月に一回。年に四回のチャンスがある。つまり、もう十二回の試験に落ちていた。
「今度こそ大丈夫だって!」
 と、先にランクの上がった仲間達が励ましてくれる。長いこと一緒にやってきた仲間達だ。年長の自分にも隔たりが少なく、足を引っ張りたくないと必死になってきた。自分と、もう一人がBランクに上がれば、晴れてBランクパーティと名乗れるのだ。
「俺も参加するし、大丈夫だって!」
 同じパーティ、同じ剣士の気の置けない友人。年齢こそ五つは離れているのだが、切磋琢磨する仲間である。単純に剣術の意味で言えば、彼よりはまだベテランの顔をできる腕があるらしい。今回こそ合格しなければ、

 ダンジョンには入り口がたくさんあるので、同じパーティの場合はバラバラに入らなければならない。これはソロ攻略なのに同じパーティのメンバーと組んでしまうことを避けるためだ。ダンジョン内で偶然出会った場合はともかく、それ以外での合流は認められていない。
 ベテランの剣士も、一人で下層へ。乾季の今、地上では空気が乾いているが、少し潜ればあっという間にじっとりとした湿気に見舞われる。浅い場所でなら難なく通り抜けられる。現れるモンスターを薙ぎ倒しながら、軽い足取りで石畳の廊下を駆け抜けた。二十階層あたりで傷を負って引き返す他の挑戦者を見送った。苔むした壁に身を預けて、苦しい呼吸で出入り口に戻る巻物に呪文を唱える姿もある。その中に若手の彼がいないことを確認してしまう。彼も、近くの階層を踏破している頃だろうか。中には合流して同行している挑戦者達もいたが、普段のパーティとの勝手の違いにイライラしているのか、立ち塞がる大きな熊に似たモンスターを前に、怒号が飛んでいた。
 二十八階層。前回もここで足止めを喰らった。古代文明と言われる装飾の混ざる階層だが、何か隠れたものでもあるのか、非常に罠が多い。スイッチになるものを避けて、避けて、ひたすら避けているのにどうしても罠が作動する。
「おーい!」
 と、呼ばれて思わず体勢を崩す。と、運悪く毒の霧が噴き出す場所に顔を突っ込んで石まった。あ、終わった。これで終了だ。今回受からなかったら引退しようと思ってたんだよなぁ、と走馬灯のように思いが駆け巡る。呼吸が苦しい。なんとういう毒だったかも思い出せない。急速に意識が遠くなっていく。
「あーごめんごめん」
 近付いてきたのは、奇妙なシルエットだった。魔術師でも、治癒師でもない。しかし鎧などは身につけていない。
「随分強い、そして局所的な呪いに見舞われているね」
 ふふ、とおかしそうに笑いながら、その人物が自分の口元に手を翳してきた。緑色の濁った色の石が、手のひら側についた指輪をしている。ふと、呼吸が軽くなった。
「凄いよ、この地でだけ、非常に強力な不運をうける呪いを受けている。何か人から恨まれるような覚えは?」
 どんどん体が軽くなって、飛び起きた。毒はすっかり取り除かれて、十分動けそうだ。
「お、覚えなんかねえよ」
 もしかしたら同業者に何かされたかもしれないが、それなら同じチームの魔術師が気付きそうなものだ。
「そうですか。いえ、随分拗れた呪いなので、これは見つけるのも一苦労だと思いますよ」
 何を言われているのかわからず、その怪しげな人物を改めて眺める。珍しい装飾をつけたローブを着ていた。装備品から行って、魔術師か治癒師だろうとは思うのだが、魔術師の装備する魔法石も、治癒師の持つ清められた金属のアクセサリーもつけていない。代わりに、羽根や骨で作られた妙な飾りをいくつもつけていた。ローブの下の顔は、おそらく相当美しいと言えそうだった。おそらく、というのは、目元を何かの布で覆い隠しているからだ。包帯などではない、装飾の施された薄い布だ。しかし目元の様子は一切わからない。
「その呪い、一緒にいる間無効にできるよ」
「何?」
 その人物は自分の冒険者証明書を見せてきた。同じCランク。職業には「祭司」とあった。
「三十階層のコカトリスの卵、自信がないんだ。手伝ってくれるならやすくしておくよ?」

 まさかそんなと思いながら、同行に同意した。しかしそれで驚くべき状況に遭遇することになる。ちゃんと罠が避ければ避けられるのだ。次々発動するどころか一つも発動しない。祭司が踏みそうになる罠さえどうにかできれば、モンスターの近付かないこの階層は余裕で通過できた。なんなら、三十階層までのモンスターは余裕を持って斬り倒せたのだ。
「……さっき呪いとか言ってたな」
 と、ベテラン剣士が尋ねると、ふむ、と唇に指を当てた。
「そうだね、言ったね」
「それはどんなんだ」
 呪いにはいくつか種類がある。身につけるもの、呪文を書き込むもの、オーソドックスなものはこの辺りだ。ダンジョンや魔物の体内から取得したものを身につけるリスクの一つであり、一般的な魔術の素養があれば普通の人にも作り出せる。他に、命に焼き込むもの、耳に吹き込むものがあるが、これは魔族と呼ばれる人種だけが使える。しかしどれにも覚えがない。
「……恋人がいるか、いたでしょ?」
 頷く。同じパーティにいたが、もう別れてしまったし、その女性はこのギルドのある街で別の仕事をしている。今でも慕ってくれているのか、仕事あがりや試験の後は必ず顔を出してくれた。
「うん、わかるよ。まぁ、そこから先は有料だね」
 そう言って、祭司はしゃがんだ。よく見るとその足元に人の顔に似た根っこが見える。
「さて、始めようか。合格したいだろう?」

 晴れて、合格。長いCランク期間を経て、ついにベテラン剣士は名実共にベテランとなった。
「お、おかえり……受かったの?」
 と、くだんの彼女、元々同じパーティの弓師だった女性が近付いてくる。祭司は少し離れた場所でベテラン剣士を眺めていた。
「おう、やっとな」
「……そう」
 もじ、と彼女は目を逸らした。
 ベテラン剣士はそれを見て、首から下げていた、赤い石のはまったネックレスを彼女の手に渡す。
「ごめんな、気付けなくて」
「……バレちゃったの」
「俺が合格できなくてランクがあがらないように、それだけを起こす呪いをかけたんだろ。だから仕事は順調だし、他のことはそれなりにうまくいく。で……その、あれか、諦めてここに落ち着いて、結婚してくれたらなってやつか、これは」
 あちゃー、と祭司が肩を竦めている。
「……そうよ、ごめんね」
 と、元弓師は俯く。パーティの面々も目を丸くしていた。
 さて、どうしたもんか、とベテラン剣士は周りを見回した。ずっと自分の合格を信じてくれた仲間達。若手の彼も合格し、これで本当にBランクパーティだ。けれど、そこまでして自分を引き留めたがっている想いも知ってしまった。
 随分、愛されている。まるで自分に不釣り合いなくらい。
「とりあえず合格祝い、じゃないの?」
 と、祭司から声がかかった。そうだ。どういう結論を出すにしろ、やっと、合格したのだから。
 今ここで情けない姿を見せるわけにはいかないのだ。


♡600ありがとうございます。励みになります。

3/16/2026, 6:05:05 AM

【星が溢れる】

 果たしてそれは、いかなる結果をもたらす実験だったのか。

 とある類人猿の一種を、幼年から飼育する実験施設でのことである。その子供は「シュプール」と呼ばれている。
 母親のドンケルと父親のジャッケは、キーボードによる意思疎通を可能とした成体二頭だ。簡単な絵文字による会話を可能としていた。中でも彼らに認められた驚くべき知能の中で、「正しい」「言葉」「ほしい」を何度も繰り返したことは特記すべきだろう。彼らは新しい言葉を貪欲に欲しがった。例えば好物のリンゴを与えたときに、それが切り分けられているときに「りんご」「ふたつ」「正しい」「言葉」「ほしい」と言ったのだ。そこで、研究員がさまざまなものを二つに等分しながら「半分」という言葉、絵文字を与えてみた。すると、その二頭はすぐに「りんご」「ひとつ」「半分」「私」「私」「ふたつ」「良い」と入力し、二頭で分け合った。
 こうして、当初用意していた五十語分の言葉ではあっという間に足りなくなった。一方で前例のある手話をする霊長類には届かず、というよりも指の可動域の問題だろうか、正しく表現できないようで、「指」「正しい」「ない」「むずかしい」と回答があった。
 ある日、「ドンケル」「小さい」「私」「持つ」とジャッケが入力した。ウロウロと落ち着きのないジャッケを一度隔離して、ドンケルの体調を確認すると、妊娠していた。彼らがどのようにして妊娠を察したのかはわからない。ジャッケに「ドンケルを安全な部屋に隔離する」と伝えると、ジャッケは「顔」「見る」「ない」「こわい」「私」「ドンケル」「見る」と入力した後、うずくまってしまった。
 そこで、もともとドンケルとジャッケが眠っていた部屋をなんとか仕切りをつけて分け、互いの顔が見えるようにした。ドンケルはジャッケに時々何か話しかけ、ジャッケは真剣にドンケルの顔を見ている。キーボードのある放飼場は屋根付きの屋外で、二頭はその日から交代で外に出されるようになった。
 しかし妊娠中期にさしかかった頃、類人猿にも影響のある感染症が世界中に猛威をふるった。仕方なく、研究所でも他の研究している動物を狭い屋内に閉じ込めることになってしまった。
 ドンケルとジャッケは、理解を示した。ジャッケは研究員たちがいつも以上に厳重にマスクや手袋をしている様子を見て、「たくさん」「あなた」「悪い」「体」と述べた後、「ぜんぶ」「悪い」「なる」「時間」「私」「ドンケル」「ここ」「あなた」「まもる」「ありがとう」と打ち込んだ。
 研究員にとって衝撃的な出来事だった。彼らは病気の概念を理解し、予防をする人々を見て、自分たちがそれから守られているのだと、そう言っていた。

 そんな天才的な二頭の子は、流行病の中で生まれ、育った。研究員も何人か重症や死亡で欠員が出た。恐ろしいほどの猛威をふるったが、やがて病に治療法が見つかり、ようやく人々の生活が元のように戻り始めた。そうなるまでに、三年。シュプールは人間で言えば小学生くらいの年頃だった。ドンケルとジャッケに育てられた彼女は、当たり前のように言葉も吸収していった。両親と同等か、それ以上と言えた。
 その彼女が、初めて外に出る日が来た。閉鎖されていた屋外放飼場のシャッターが開いていく。外壁に取り付けていた密閉カバーが取り外されて、開いていく頃には、日が傾いていた。シュプールは夕日を見つめていた。飽きる様子もなく、じっと。両親が食事を始めても、木の枝を移ったり、座り方を変えたり、ずっと見ていた。やがて星が瞬き始め、空が真っ暗になって、ようやくドンケルに背中を叩かれて食事を始める。それを終えると、ぱたぱたと軽い足音をさせて、どこか興奮気味に文字を打ち込み始めた。
「空」「みる」「私」「ひとつ」「時間」「正しい」「言葉」「ほしい」
 察しのいい研究員が、「はじめて」という言葉を与えた。
「空」「初めて」「見る」
 シュプールはそれを打ち込んだ後、ぎゅっと一度拳を握った。
「空」「青」「赤」「黒」「白」「大きい」「ボール」「赤」「ボール」「ない」「時間」
 夕日が沈む様子を、必死に述べてくる。小さな指でボタンを押しながら、シュプールは呼吸を荒げていた。
「空」「黒」
 握っていた方の手を開く、指を波撃たせるように動かしていた。
「小さい」「小さい」「白」「明るい」「ある」「たくさん」「たくさん」「たくさん」
 もどかしそうな様子に、研究員が空を指差した。
「夜空」
 と、そう告げて絵文字を与える。
「星」
 いくつも浮かぶそれを転々と指差すようにして絵文字を与える。
「溢れる」
 と、手を、それこそシュプールがやるように波うたせながら、絵文字を与える。
 それは実験だった。溢れる、という言葉をどれほど正しく理解できるのか、という。
「夜空」「星」「溢れる」
 シュプールは、繰り返し、繰り返しその三語を打ち込んだ。よほどそれが気に入ったのだ、とノートに記載しているうちに、不意に、研究員は手を止めた。
「夜空」「星」「溢れる」
 それは、本来絵文字が押されたときに、電子音として読み上げられているだけの声のはずだった。違う、それは辿々しく、どこか欠けているような、擦れたような音を持っていた。
「よぞら」
「ほし」
「あふれる」
 それは、シュプールの声だった。
「ほし」「が」「あふれる」
 研究所は騒然とした。ただ単語を理解しただけではなく、類人猿が接続を理解した。それはさまざまな意見や憶測を呼び、会議は大変な混沌状態となった。研究者である冷静な人々が取り乱すような事態がそこにある。
 果たしてそれは、いかなる結果をもたらす実験だったのか。シュプールには知る由もないし、未来のことはまだ、何もわからなかった。

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