Werewolf

Open App

【透明な水】

 とぷん、と音を立てて水槽に沈んだそれは、小さな卵だった。塩分濃度3.4%の水の中に、ゆらゆらと波紋に揺らされながら沈んでいく。
 さっき買った「人魚の卵」だ。

 近くの神社でやっていた縁日で、境内の奥、薄暗い所に出ていた店に興味を惹かれた。店主は狐の面を被っていて、見てきなさいよ、と軽く笑った。
 ものを一つ手に取る度に、
「そいつは魔神のランプだ、正しく擦りゃ願いを三つ……と言いたいとこだが、魔神も物価の高等にゃ勝てんらしい、一つだけ叶えるとよ」
「あーそいつは金羊毛入りマフラーだ、まぁキラキラするだけで普通の羊毛のマフラーさ」
「ん、そりゃアンタ向きじゃないな、女の子の友達を欲しがってる市松人形だ。女の子が家にいるならいいけどな」
「お目が高いな、それは透明マント風コート。トレンチだから春と秋に大活躍請け合いだよ」
 と、こんな服に与太話をあれやこれや吹き込んでくる。それなりに面白かったので、最後に一つくらいなにか買ってやろうかと、指先くらいの大きさの、真珠のようなものを一つ手に取った。
「お客さん、アンタがそれを手に取ると思ってたんだ」
 ふぅー、と狐面のどこかから煙が漏れる。いや、口が開いていやしないか、と思わず目を瞬かせた。
「そいつは人魚の卵さ。塩分濃度を海にさえ合わせりゃ、勝手に人魚が水槽の中に海を作る。餌も要らなきゃ水の交換もいらない。人魚が死んだらそれまでだが、きっとアンタのお気に召すぜ。なぁ、お代は千円こっきりだ、ま帰りに水槽なんかを買って帰ることにはなるだろうが、悪い話じゃないだろう?」
 半信半疑どころか疑いしかなかったが、それまでとは違った語り口に少し気圧された。結局、人魚の卵と水槽を買って帰り、中には砂利と少しの水草だけいれて、塩分濃度を言われた通り海と揃えて、水槽の中に入れた。

 それから三日、水は透明に揺れるままだった。卵は真珠色に輝くままで、ああ、騙されたなぁ、まぁ面白いからいいか、と思っていた頃だった。
 ふと、水槽を見たら、真珠が割れていた。不思議なことに、割れた真珠色の殻がパラパラと水槽の中に溶けるように粉状の光になっていく。見ると、水草の周りをくるくると泳ぎ回るものがあった。赤ん坊のような幼い顔をした、身の丈1cmの人魚だ。ぽっこりしたお腹をして、水草に掴まったり、茎に沿って泳ぎだり忙しない。へぇ、こんなものが実在するのかと、思わずスマートフォンで撮影していた。
 翌日の夜になると、人魚は少し成長していた。幼稚園の子供くらいになったろうか、笑ったような表情で指先を水中にくるくるさせて遊んでいる。みれば、その指先には極小さな魚が纏わりついていた。一体どこから、と思うが、不可思議は不可思議を呼ぶのだろうと勝手に納得した。
 人魚の成長は早かった。
 生まれて三日目には人魚は小学生くらいになって、水槽の砂利の隙間に小さなカニとイカとタコが姿を表した。
 四日目には中学生ほどになって、どうやらメスだったらしい、水草の一部を胸に巻きつけるようになっていた。水中には色とりどりの魚が泳ぎ回って、カメや貝なんかも増えた。
 五日目には高校生くらいになり、成長した人魚は靭やかに泳ぎ回りながら、何故か増えた水草……というより、昆布やワカメのような海藻類の間を遊び回っていたし、気が付けば指先くらいの大きさのサメや、ウツボやウミヘビまで水槽を泳いでいた。サメは当然他の魚を捕食するし、そうすれば水槽の水も少し赤く濁るのだが、それでもしばらくするとまた透明な水に戻った。
 六日目に、クジラが潮を吹いた。こんな小さな水槽なのに、まるで本物の海のようだ。すっかり大人になった人魚は第二関節くらいの大きさで、見れば何故か岩場や地形のようなものまで出来ている。人魚が勝手に海を作るというのは、本当だった。
 七日目に、人魚が小さな卵を産んだ。それは人魚自身が産まれてきたものよりずっと小さかった。もしかして、この水槽がいつかいっぱいになってしまうんじゃないだろうか。少し怖くなった。

 それから一ヶ月。水槽の中は大きな体の人魚と、その子供である小さな人魚たちの集落がいくつがあるような、小世界が出来上がっていた。水は相変わらず透明に澄んでいて、水面近くをおよぐものがなければ、波一つ立たない。どうやらまだ、しばらくはこの不可思議な人魚たちの水槽を楽しめるようだ。
 ふと、人魚が始めてこちらを見た気がした。あれ以来老いることのない人魚が、微笑んで水槽の外を見ていた。

5/21/2023, 11:24:01 AM