【理想のあなた】
夜闇の向こう、月の光の中に見えた姿に気付いて、僕はたまらず家を出て駆け出した。遠くに行こうとする彼女まで走って走って、「待って」とその手を取った。静まり返った街の中に、僕の足音が響く。
「お願い、行かないで」
僕の手で包み込めてしまうような小さな手を掴む。彼女がヒュッと息を呑む。それはそうだ。話したこともない相手に突然捕まえられたら、誰だってびっくりする。それに、僕は本当なら誰かに声を掛けるのも躊躇うくらいに醜くて、そのくせ身体が大きい。掴まれた手だって震えてしまった。申し訳ないと想いながらなんとか口を開く。
「突然ごめん、でも、どこかに行くつもりだったでしょう?」
彼女は小さく頷く。それがとても耐え難くて、僕は堰を切ったように出てくる言葉に任せた。
「僕にとってあなたは理想なんだ、艶々の白銀の髪、透き通った菫色の目、笑うと溢れる小さな歯、頬はふっくらして、首は細く長くて。華奢な肩を抱き締めてみたくて仕方なかった、靭やかな体をして、爪先までまるで銀糸が編まれたようだ。あなたが好きだよ、だから」
だから、の先は言えなかった。細い指が僕の口に押し付けられている。彼女は、微笑んでいた。
「なんてこと言ってるの、あなたこそ理想なのよ」
僕が何かを言おうとすると、口吻を彼女の手が緩く掴んだ。
「いいこと、耳は凛々しく立ちがあって、黒々としたたてがみを持って、白い隈取の中の鋭い琥珀色の瞳は誰もを射抜くでしょう? 太くて強い牙を持って、固い筋肉の首にはたっぷりとたてがみをまとわせて、あなたに勝てるものはいないと、そう思わせるほど大きな体をして」
熱を持った言葉に顔が熱くなる。けれど、僕は指から逃れて、また口を開いた。
「それは、僕らがもっと原始的だった頃の話だよ」
人狼という生き物が、まだ狩りで生計を立てていた頃なら、この姿も誇れたのかも知れない。今は違う。人間として働いて、人間として暮らしている。人間に見つからないよう、できるだけ特徴を隠さなきゃならない。なのに僕と来たら、人間の姿の時でも大柄で、眼光鋭く、犬歯もあまり小さくならない。人に避けられては仕事もあまりできなくて、群れのお荷物だった。
「それなら私も同じだわ。白子の生まれだもの」
彼女は穏やかに笑った。確かに、彼女も人の姿の時でも白銀の髪をして、菫色の目をして、けれど他は人間なのに。
「私が居ると、ここの群れの人達が魔女を匿ってるって言われてしまうのよ」
だから出ていくんだと言う。
「なら、僕も行く」
「どうして」
「どうしてってそりゃ」
頬を掻く。話す前は、きっともっと冷静で冷ややかな人なんだと思ってた。話してみたら、穏やかで暖かで、なんだか凄く悲しい話をシているはずなのに、満たされる心地がする。ああ、つまり。
「心優しいところまで、あなたが僕の理想通りの人だったから」
【突然の別れ】
いつも同じ挨拶の匿名メッセージが来ていた。いわゆるシャワー投稿というもので、自分がフォローしている人に、あなた達の作品を余さず見ています、でもこのような季節ですから、○○を楽しみながら、体調にお気をつけて、という文言だ。
私や相互フォローの友人達は、それを楽しみにしていた。ただ呼びかけても出てくることはなかったので、きっとシャイな人なんだろうと思っていた。毎月初週に必ず来るので、ひっそりと月刊さん、と呼んでいた。
それが二年ほど続いたあとの夏、ぱたっと、そのメッセージが来なくなった。私達は見えるところで「月刊さんが来ないね」「お元気かな」「体調崩されてるならどうかあなたこそ気を付けてね」と、示し合わせたでもなく呟いていた。
一月しても、二月しても、そのメッセージはもう来なかった。
春先頃、相互フォローの友人と会う機会があった。私はなんともなしに、「月刊さん、お元気かな」と問うてみた。
「えっ誰?」
という彼女の返事に、ああごめんね、あなたの相互さんじゃなかったかも、と誤魔化した。きっともう忘れてしまったのだ。
私は少し悲しいな、と思いながら、月刊さんのメッセージを見返した。個人に向けたものではないが、皆が楽しく活動することを祈ったものだ。
フォロワー数を見る。その中に彼女はまだ居るのだろうか。数が多く、探しきれる気がしない。
SNS上での別れは、こうして起きるのだな、と、初夏に差し掛かるカレンダーを眺めた。
【恋物語】
まるでケルビーノだった頃が懐かしい。こまっしゃくれた制服の、まだ成人にも満たないくせに万能感に浮かされて、脈があろうとなかろうととにかくアタックし続けた。
クラスの深窓の令嬢と付き合いたい一心で、ピアノ教室の体験入学へ。分かったのは案外才能があったということ、彼女が割と笑う方だということ。なんだか興が削がれてしまって、ピアノの方に打ち込んだ。
クラスの合唱コンクールでピアノの伴奏に抜擢されて、深窓の令嬢はソプラノパートへ。声も綺麗だと思ったら隣の図書委員だった。そばかすも案外いいもんだなんて図書室に出入りをしてたけど、彼女と来たら読む本読む本経済学で、ちょっと読んだけど着いてけなかった。
合唱コンクールの練習に、付き合いの良い何人か。中のひとりと仲良くなって、好きあってみたけれど、彼女がこっちの何がすきだか分かんなくて別れてしまった。
まぁこんな調子で次々想い人を変えて、来る日も来る日も恋をした。でも恋人になってみて、少しするとなんだか飽きる。乞い求める気持ちが薄れていって、なんだか底が知れたなぁと思ってしまうと、自分で恋を畳んでしまった。
ただ大学に入って気付いたんだ。どうやら僕は、ミステリアスというものに恋をしているようなのだと。
【真夜中】
車の音もまばらな深夜、住宅街を歩く。不眠症に悩まされている僕にとって、こうして眠れない夜を歩くことは日常茶飯事だ。幸運なのはウェブデザイナーとかコーダーとか言われる技術を身に着けているお陰で、理解ある会社に所属出来て、昼の眠い間も、辛うじて動ける夕方以降でも、ゆるゆると仕事ができているということだ。
散歩から帰って朝方になると肉体が限界だとでも言うように入眠し、昼間で何度か目を覚ましながらの睡眠を取る。それまでのある種の気晴らし。ひんやりした空気の中を歩く。静かな中に、時々つけっぱなしのテレビや電気の光がカーテンの向こうから漏れていたり、小さな声が聞こえたりする。
サンダルでざりざりとアスファルトを引っ掛けて歩く。ジャージの上下にぼさぼさの頭で、とてもじゃないが怪しくないとはいえない。実際何度か警察官に声をかけられたこともある。身分証を持ち歩くことを覚えたし、何度が会った警察官とは挨拶で済むようにもなった。
でも、こんな生活がいつまで続くんだろうと思うこともある。以前の会社で超過勤務を繰り返し、カフェインドリンクに頼り続けて肝臓を壊して、入院から復帰したら席がなくなっていた。人事と話した時には傷病扱いで、手当ても出るし席も残ると聞いていたのに、いつの間にか勝手に退職扱いにされて、自宅に離職票が届いていた。勿論職安に時系列から整えて訴えたし、社長は認めなかったが社内では認めたとのことで、会社都合退職にはなったものの、重労働とストレスで不眠症になった。
空を見上げる。排気ガスで曇った空には、大きな星しか見えない。田舎から出てきてこのザマだ。両親には帰ってきてもいいと言われているが、姉夫婦が同居する家に戻る気は起きなかった。
ざりざりと、アスファルトをサンダルの裏に引きずりながら歩く。途中の公園のベンチに座って、またぼんやりと空を見上げた。
【愛があればなんでもできる?】
かぐや姫に求婚した公達、トゥーランドットに求婚をしたカラフ、我が子を愛した千匹皮の王。
「だからぁ、私は太陽くんが好きだから!」
その太陽くんとやらはアイドルで、君のことなんか一ミリも知らなくて、コンサートのチケットも外れたって、言ってたじゃないか。
「日暮くんのことは嫌いじゃないけど、そーゆーのはない!」
「じゃっ」
声が上ずる。
「じゃあ、僕が、アイドル……いや、芸能人なら、付き合ってくれるの?」
プッ、と笑ったのは彼女じゃなかった。近くにいたらしい、友達の一人。
「うっそでしょ、ヒョロガリ勉の日暮が、芸能人とかなれるわけないじゃん!」
「わ、分かんないだろ!」
確かに今までの人生では興味なかったけれど、でも、彼女の為なら。
「うーん」
佐崎さんは少し考えて、それからクスッと小さく笑った。
「芸能人なら、考えてもいいかもね」
「えっそれって」
「太陽くんと共演して、サイン貰ってきてよ!」
キャハハハ、と笑い声。からかわれたんだと嫌でも分かる。笑いながら遠ざかっていく背中を見送って、スマートフォンを取り出した。
芸能人。アイドルは勿論、俳優、歌手、バンドマン、ダンサー、その他諸々。僕の取り柄なんか真面目で勉強が苦にならない事くらいだ。
「……かぐや姫の公達って、凄かったんだな」
佐崎さんへの愛の重さと、芸能人になるなんて言った自分の軽薄さ。何が何でも火鼠の皮衣を手にしてきた公達のことを思ったけれど、僕にそこまでの勇気も度胸もなかった。だって、かぐや姫は冷ややかに見送ったけれど、佐崎さんには馬鹿にされてしまったから。
「百年の恋って、こうやって冷めるんだなあ……」